百枝八幡宮より見える 吉備国の古代史 『地名学では邪馬台国は岡山です』説の元になった地名の調査研究です
『地名学では邪馬台国は岡山です』説の元になった地名の調査研究です。
瀬戸内魅力物語 所要時間 1:09:12
2016年(平成26)6月16日『百枝八幡宮より見える吉備国の古代史』
瀬戸内魅力物語「百枝八幡宮より見える吉備国の古代史」
1 はじめに
瀬戸内市市役所と邑久高校の間に百枝八幡宮があります。乾角(いねずみ)神社の石碑に「尾 張連(むらじ)祖 高倉下(たかくらじ)」とあります。なぜ、百枝八幡宮に「尾張連祖 高倉 下」とあるのか。「尾張連祖 高倉下」から、邑久町尾張の地名の由来、崇神天皇妃の尾張 大海媛(おわりのおおしあまひめ)が見え、尾張大海媛から、隠された吉備国の古代史が 見えてきました。豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)と大来皇女(おほくのひめみこ)です。
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2 百枝八幡宮と下稲戸明神
現在地(瀬戸内市邑久町尾張 398)は、元宮からの移転地です。百枝八幡宮は尾張の 総氏神として、宝亀2年(772)に高砂山系の早稲田の里、休所(山手半田)の正五位下稲 戸明神内に鎮座されていました。重要なのは元宮鎮座地の休所(山手半田)です。古代の瀬 戸内市市内一帯は海であり、山手村早稲田休所は島でした。
2.1 下稲戸明神と山手休所古墳
「池田家文書・神社明細帳」に、「旧社 地同郡同村早稲田鎮座5社大明神ニ御蓙 候処、宝亀二(772)甲寅年九月五ケ所へ 奉還神号左之通、大垣八幡宮同村之内高 砂山へ奉還、阿字八幡宮同村之内真徳へ 奉還、加茂大明神同村之内北之山へ奉還、 百枝松八幡宮尾張村へ奉還、貴船大明神 山田庄村へ奉還」とあり、5 社に分社した 理由は記録されていません。
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『邑久郡神社誌』には、稲都神社は高砂山へ 奉還とあります。稲都神社の元宮鎮座地は、大垣八 幡宮(瀬戸内市邑久町山手 1679)に向かって 右側山上の早稲田休所です。円墳の「山手休 所古墳」があります。直径 8.7m×高さ 0.8m。墳 頂部に盗掘坑ありとのことです。
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3 尾張連祖 高倉下命
3.1 連祖
連(むらじ)は、古代の姓 (かばね) の一つです。主として神別の氏族で,伴部(と もべ)を率いて朝廷に仕える氏族でした。連姓の最有力者は、大伴,物部氏であり、大和 朝廷の頂点に立っていました。
3.2 高倉下命
『先代旧事本紀』巻三 天神本紀に、「天香語山命(あめのかぐやま)尾張連等祖」とあります。尾張連祖 高倉下命(たかくらじ)とは、物部氏の祖神である饒速日命(にぎはやひ)の子で、天香語山命(あめのかぐやま)の、またの名が高倉下命です。物部氏等の祖神である宇摩志摩治 命(うましまぢ)とは母を異にする兄弟です。
高倉下命は、夢の神託により神武天皇に霊剣である 布都御魂をもたらし、石上神宮に祀られています。
布都御魂を祀る瀬戸内市磯上油杉の「日向石神社 (石上の社)の磐座」が見えてきました。石上の社(石上神社)は、物部氏に関係の深い神社です。
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4 乾角(いねずみ)神社
境内社、乾角神社の乾角とは、方位を守護する神様で、四隅に鎮守祠を立てる四方権現の一であり、乾角神社は北西、乾(けん・いぬい)を守護しています。乾角(いねずみ)と 読み、本殿から見て乾(いぬい=易学で北西の意)に位置し、守護しています。
5 下稲戸明神と稲戸八坂神社
5.1 稲戸八坂神社
下稲戸明神は奈良県宇陀市菟田野稲戸へ東遷しました。大垣八幡宮由緒では、「五か所に御分社の時、稲都神社を重高大垣八幡宮と御改号、高砂山に奉遷した。」としています。
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崇仁天皇 6 年に石凝姥神(いしこりどめ)孫の尾張 連の祖の瀛津足命(よそたらし)は神鏡を鋳造し、天 目一箇神孫の国振立命は神剣を造り、神田に作った良 米を年々、大廟と大社へ奉納していました。 文武天皇の時、この地の霊水によって天国(あまくに) が刀剣を造って。永保 4 年(1084)に、古来の由緒を 書き改められました。その時に下稲戸明神の記録は抹消さ れました。
6 尾張氏の初見 尾張大海媛
尾張氏(おわりうじ)は、「尾張」を氏の名とする氏族であり、初見は、『先代旧事本紀』 巻五 天孫本紀の崇神天皇妃の尾張大海媛(おわりのおおしあまひめ)です。
瀬戸内市の古代史解明の一番重要な資料が、天孫本紀の崇神天皇です。
6.1 崇神天皇と尾張
邑久町尾張の地名の由来である崇神(すじん)天皇妃の尾張大海媛(おわりのおおしあ まひめ)が見え、尾張大海媛から、隠された吉備国の古代史が見えてきました。
6.2 崇神天皇と二人の豊(トヨ)
瀬戸内市邑久町に、豊原、豊安があります。豊原庄です。豊原庄の初見は 1029 年(長元 2 年)の藤原実資の日記『小右記』です。豊原庄は巨大な天皇家の荘園でした。
この、豊の地名の由来を考察します。『魏志倭人伝』に卑弥呼の宗女として、13 歳の台 与が倭国王に即位、国中が定まったとあります。豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)に名前の「豊(とよ)」から、邪馬台国の卑弥呼宗女の台与比定説があります。『先代旧事本紀』巻五 天孫本紀の崇神天皇に、崇神天皇の子供の、豊鍬入姫命と豊城 入彦命の名前があります。
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6.2.1 豊鍬入姫命
豊鍬入姫命は、第 10 代崇神天皇の皇女。天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な 女性です。国内情勢が不安になった際、崇神天皇はその原因が天照大神(伊勢神宮祭神)・ 倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ・大和神社祭神)の 2 神を居所に祀ったことに あると考えました。『日本書紀』崇神天皇 6 年条に、倭(やまと)の笠縫(かさぬひ)の地に磯 堅城神籬(しかたきひもろき。神籬とは祭祀の際に設置される臨時の神の座。依り代。)を立てて、豊鍬入姫命に天照大神をまつらせました。垂仁(すいにん)天皇 25 年 3 月 10 日条に は、天照大神を豊鍬入姫命から離し、倭姫命(やまとひめのみこと・垂仁天皇皇女)に付 けて、伊勢国に遷都し祭らせました。(伊勢神宮起源譚)。
6.2.2 初代伊勢神宮斎宮 大来皇女と豊鍬入姫命
崇神天皇の最後に、「次豊鍬入姫命 始託天照大神為斎祠」「次渧中城入姫命 初託大国 魂神為斎祭」とあります。豊鍬入姫命は倭姫命とともに伊勢神宮の斎宮(いっきのみや)の起 源に求められています。しかし、『日本書紀』には、674 年 10 月 9 日「大来皇女、泊瀬の斎 宮より、伊勢神宮に向ふ」とあり、実質的な斎王制度は大来皇女に始まります。なぜ、最初の 伊勢神宮斎宮が天武皇女の大来皇女なのかに注目しました。
6.2.3 豊城入彦命
豊城入彦命(とよきいりひこ)は、第 10 代崇神天皇皇子。東国の治定にあたりました。上毛 野君や下毛野君の始祖です。垂仁天皇(第 11 代)の異母兄で、豊鍬入姫命の同母兄です。豊城命の説話は、四道将軍の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国 家平定説話の一部です。初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆して います。
6.3 崇神天皇社鎮座地と天皇地名
6.3.1 崇神天皇社鎮座地と靭負神社
池田家文書の『神社明細帳』に崇神(すじん)天皇社が記録されています。靭負(ゆきえ) 神社が寛文九年(1669)に崇神天皇社社地に遷座とあります。つまり、1669 年に崇神天皇の名前が消され天皇社とされ、靭負神社(瀬戸内市長船町長船 1151)に変わっています。地名は 字天皇です。
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6.3.2 長船町磯上の天皇地名と日向石神社の磐座
長船町磯上油杉に天皇地名があります。日向石神社(石上の社)鎮座地の地名です。池田 家文書の『神社明細帳』に日向石神社が式下社 湯次神社の末社として記録され、祭神が崇 神天皇と須佐之男神です。「日向石神社とは、太陽に向かう石上の社の意」であり、日向 石神社が古代からの石上神社です。布都御魂を祀った磐座です。
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6.3.3 『長船鍛冶由緒書上』の崇神天皇
『改訂 邑久郡史上巻』に、『長船鍛冶由緒書上』が収録されています。「一、遠祖は天目 一神の後裔にして、世々鉾剣鍛冶を業となす。崇神天皇の六己丑二月由介比の郷に於て鉾 剣を鍛ひ以て天皇に献ず、天皇感賞し給ふに爵を以てす。同年八月鉾剣を鍛冶せしむ。此 時に当り更に爵一階を進む。其後世々鉾剣鍛冶となり、吉備国由介比の郷板屋に住す。一、 仁徳天皇御宇に当り家祖以為く、崇神天皇は我祖神なりと、因て由介比の郷板屋に、崇神 天皇及天神宮祭神天目一神天麻喜麻呂を勧請す。・・・」とあります。
更に、「崇神天皇御宇六 巳丑歳於二日本一初テ宝剣ヲ鋳、春二月奉二崇神天皇一叡感不レ斜、賜二五位之位一、同八月 勘定有二宝剣鋳一、其時三位之位ニ昇ル、其後代々宝剣鍛冶ト成、住所者備前国湯桂郷今之 長船也、・・・」 この記録は、崇神天皇が近くの吉備国和気町に居られたから、鉾剣を献上 できました。天皇鍛冶場という地名が伝承されています。
6.4 崇神天皇
崇神天皇は、第 10 代天皇で学術上、実在可能性のある初めての天皇です。『日本書紀』 には、崇神天皇の即位年を「甲申(こうしん)年」とあり、「甲申年」を 264 年と解読され た水野正好氏(奈良大学名誉教授)は、「女王台与の死に二年先立つことになりますから、 女王台与の摂政の位置に崇神がついたことを示すと考えることができます。」と説明してい ます。
水野正好氏の「崇神天皇は、卑弥呼の後継女王である台与の摂政説」が知られています。 西川寿勝氏(大阪府教育委員会)の「崇神天皇は卑弥呼の男弟」説も注目されます。崇神天 皇の治世は、邪馬台国時代の後半であり、吉備国へ四道将軍が派遣されています。
6.4.1 崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)
昭和 29 年(1954)、水野祐氏が『増訂日本古代王朝史論序説』を発表しました。崇神から推 古に至る天皇がそれぞれ血統の異なる古・中・新の 3 王朝交替説です。三輪王朝の成立 は 3 世紀中葉~4 世紀前半の古墳時代前期です。イリ王朝のイリに注目しています。
6.4.2 崇神天皇 吉備国説
古代史の基礎知識を得る上での必読書、『国史大辞典』に、上田正昭氏(京都大学名誉教授)は、「北方大 陸系の騎馬民族が征服王朝を樹立したとする騎馬民族征服王調説では、騎馬民族の後裔である崇神天皇に象徴される勢力が北九州に入って第一回の建国をなし、北九州から機内に進出した応仁天皇によって第二回の建国がなされたと解釈する・・・。」と説明しています。 しかし、第一回建国は北九州ではなくて吉備国です。 崇神天皇は騎馬民族の後裔ではなくて騎馬民族です。
イリ王朝のイリに注目しました。「イリ」の名前の付く歴代天皇は、第十代崇神天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと)と、第十一代垂仁天 皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)のみです。 崇神天皇は事実上の初代天皇で す。
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熊山遺跡と最も類似している遺跡が、中央アジアのタジキスタン共和国にあるヴァン仏 教遺跡です。タジキスタンは、シルクロ ードの国際商人として栄えたイラン系民族・ソ グド人の本拠地です。 仏教のインドから中国への伝来もタジキスタンを経由しています。 熊山遺跡、霊山寺、安如宝(731~815 年は、中央アジアのサマルカンド地方の安国の出身です。 鑑真に師事し天平勝宝 6 年(754)来日。唐招提寺の第 4 住職)、中央アジア・タジキスタン のヴァン仏教遺跡がつながりました。
熊山より備前市伊里へ伊里川が流れ、古代蒙古のバルハシ湖 へ、イリ川が流れています。イリ川は、中国新疆ウイグル自 治区の北部のイリ・カザフ自治州からカザフスタン南西部のア ルマトイ州にかけて流れる川です。長さ 1439 km のうち 815 km がカザフスタンを流れています。天山山脈に源を発し西に流れバル ハシ湖に注ぐ。騎馬民族の後裔であり、記紀に豊富な伝承が記 録されています。崇神 10 年に四道将軍を各地に派遣しています。 西道に派遣された四道将軍の一人が「黄蕨津彦」です。備前市を流れる伊里川の中州が古代における聖地でした。
伝帝釈山霊山寺所縁の「黄鐘(コウショウ)」があります。
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「黄鐘」 に「大王(おおきみ)」の銘文があります。寺院には、いろんなものが集まります。「黄鐘」の「大王」とは、天皇は始め大王(おおきみ)と呼ばれており、第 40 代 の天武天皇以前の天皇は大王です。「黄鐘(コウショウ)」の「大王」とは第十代崇神天 皇です。古代蒙古からの渡来人です。 イリ・カザフの人達は駿馬に乗ることを誉れと し、騎馬民族であることを誇りとしています。その強さと美しさによって漢の武帝に「天馬」 とたたえられたイリ馬を生み出しました。駿馬に乗る像もあります。
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正始六年(245)に少帝の詔書(しょうしょ)と黄幢(こうどう)が郡使を通じて倭国 入りし、難升米(なしめ)に与えられています。黄幢は黄鐘の書写ミスと考えます。
7 和気町 大王山
和気町佐伯町の吉井川西岸に大王 山(435m)があります。
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崇神天皇は大王 と呼ばれていました。和気氏(わけうじ) は、備前国和気郡(藤野郡)を本拠と し、垂仁天皇の皇子の鐸石別命(ぬて しわけのみこと)を祖とします。
長船町の天皇地名は、崇神天皇と垂仁天皇の瀬戸内市在住記録であり、崇神天皇妃の尾張大海媛は邑久郡尾張出身です。
7.1 宇佐神宮と備前国
備前国に八幡宮が多いことに注目し、宇佐神宮の起源を調査しました。祭神 の八幡大神は応神天皇のご神霊で、571 年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐 の地に ご示顕になりました。725 年(神亀2年)に、現在地(大分県宇佐市大字 南宇佐 2859)に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の 創建です。
昭和 62 年に、『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』を、宇佐国造家の池守 公嫡孫五十七世の宇佐公康氏が、宇佐家が代々伝えてきた古伝や口伝を初 めて公開されました。宇佐国造家の伝承に、「古の兔狭(うさ)国の神都は、筑 前・筑後・肥後・肥前・大隅・薩摩の六カ国には在らず。筑豊・日向・肥 後・備前、この四カ所の所領のうち、最たるものは備前にして、古の兔狭 国の神都は備前なり。備前・備中・備後・美作は古の兔狭国第一の神都に して、第二は九州、第三は蒲郡以西をもってこれに当つ。」とあります。
7.1.1 『余慶寺略縁起』の豊州宇佐宮
元文三年(1738)に書かれた『備前国邑久郡上寺山余慶寺略縁起』に、 豊原北島神社の元宮として、634 年に豊州宇佐宮が長沼山頂に「来臨影向 伝聞耳」とあります。「影向」(ようごう)とは、神仏が仮の姿をとって現れる ことです。神仏の来臨です。この伝承を 1738 年に記録しています。725 年(神 亀2)の宇佐神宮創建以前の伝承であり、豊州宇佐宮とは備前国宇佐宮の記録です。その後、現在の宇佐神宮鎮座地(大分県宇佐市大字南宇佐)に遷宮しています。
87.2 『先代旧事本紀』国造本紀の国前国と吉備の記録
「国前(くにさき)国造、志賀穴穂朝。吉備臣同祖。吉備都命六世・午佐(うさ)自命定 賜国造」志賀穴穂朝の御代に、吉備臣と同じ先祖(第七代孝霊天皇の皇子大吉備津日子の 命、若日子建吉備津日子の命)の六世の孫、午佐自(うまさじ)の命を国造に定められた。(国前国は豊後国国埼郡、今の大分県国東半島付近) 天皇本紀・孝霊天皇に「次彦五十 狭芹彦命。亦名吉備津彦命。吉備臣祖。」とあり、天皇本紀・六十年条に、「吉備兄彦命」「豊国別命。吉備別祖。」とあります。
伊予灘、別府湾を見下ろす築杵(きずき)市美濃崎に、大分県下最大級の前方後円墳の 御塔(おとう)山古墳、小熊山古墳があり、吉備地方と関連する出土品が見られると報告 されています。
7.3 亀石神社と速吸門
亀石神社(かめいわ)(岡山市東区水門町)の亀石伝説です。亀石神社とは、珍彦(う づひこ)(宇豆毘古命)の乗った大亀の化身の亀岩を祀る神社です。亀石伝説の重要性は、 『日本書紀』と『古事記』で東征順路が異なることです。『日本書紀』では速吸之門(はやすひなと)で一人の漁人(あま)に出会い海導人(みちびきひと)とし、名を賜り椎根 津彦(しいねつひこ)とし、筑紫国の宇佐から吉備国であり、『古事記』では吉備の高島宮 に八年滞在後、亀の甲に乗って速吸門(はやすひのと)に行き、槁根津彦(さをねつひこ) の名を賜わりました。「古事記では東征の順路が違っている」と、岩波書店の『日本古典文学大系 1 古事記祝詞』の校注にあります。亀石神社は、全国的には無名の神社です。
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7.3.1 青木(おうぎ)と青木神社跡
保久良神社(兵庫県神戸市東灘区本山町北畑 680)の祭神が椎根津彦命です。椎根津 彦命(しいねつひこ)は、保久良神社の南に位置する青木(おうぎ)の浜に、青亀(おう ぎ)の背にのって漂着しました。青亀(おうぎ)が青木(おうぎ)の地名の由来です。瀬戸 内市長船町西須江に青木神社跡があります。現在は、あおき神社跡と呼ばれています。九州隼人 に青木神社(鹿児島県霧島市隼人町小田 2708)があり、東遷です。隼人の畿内移住時期 は 5 世紀からと説明されています。
8 大来皇女 邑久の地名の由来
8.1 大来(オホク)の初見
① 飛鳥京(6 世紀末の推古朝~7 世紀末の天武朝)出土木簡に「太 来」とあります。
② 和気町藤野大田原字藤原の古墳出土の 7 世紀代の須恵器平瓶箆 書に「大久」とあります。
③ 『日本書紀』「天武紀」は「大来皇女」、「持統紀」に「皇女大 来」とあります。
④ 713 年(和銅六年)の「風土記」編纂にて好字の「邑久」に改め られました。
⑤ 岡山県立博物館蔵の邑久郡内出土の、7~8 世紀代の須恵器平瓶 (ひらが)箆書に「大久(人+久)」とあります。
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8.2 『万葉集』の大伯皇女と大来(おほく)皇女
『邑久町史』には『万葉集』は収録 されていません。『万葉集』には 6 首収録され、大 伯皇女 4 首。大来皇女 2 首と大伯皇 女が多いです。
大伯皇女は、105・106・164・165 の 4 首、
大来皇女は、163・165 の 2 首です。
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8.3 『日本書紀』 大来(オホク)皇女と皇女大来
『日本書紀』は舎人親王を総責任者として、多くの人達により編纂され、巻ごとに編纂 者が異なっています。多くの人が関係し間違いやすい編纂体制です。
「巻第二十六 斉明天皇」には、「大伯皇女(おほくのひめみこ)」1 ヶ所
「巻第二十九 天武天皇下」には、「大来皇女(おほくのひめみこ)」3 箇所 「巻第三十 持統天皇」には、「皇女大来(ひめみこおほく)」1 ヶ所
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8.4 「大伯皇女」は 「大来皇女」の書写ミス
『日本書紀』 と『万葉集』に大伯皇女と大来皇女が併用されています。 「大来皇女」は 661~701 年。『日本書紀』 の「持統紀」は「皇女大来」、「天武紀」は「大来皇女」です。「斉明天皇」の「大伯皇女」は 「大来皇女」の書写(校正)ミスです。活字出版開始当初から誰も、この書写(校正)ミスを指摘していません。『日本書紀』校注に「大伯皇 女とも」とあるのみです。邑久の地名の由来は、大来(オホク)皇女に由来します。
8.5 『播磨国風土記』の石作連大来
「大来」木簡発見時に、何故、「大伯」の誤読が発見できなかったのか。疑問を持たない 研究者ばかりです。『播磨国風土記』に石棺作りの記録あり、石作連大来(いしつくりの むらじおおく)の名前があります。邑久郡古名「大来(おほく)」縁の人です。
9 まとめ
『先代旧事本紀』は、824~834 年ごろ成立説があります。神代から推古朝までの事跡を記しています。『先代旧事本紀』は物部氏・尾張氏の家記です。そして『古事記』『日本書紀』 よりも古い表記を留めています。瀬戸内市、旧邑久町と長船町の古代史は、『先代旧事本紀』 をベースに見直すべきです。瀬戸内市の古代史解明に最も重要な「尾張と大来」の地名 の由来を説明しました。
長船町磯上は物部氏の拠点であり、『先代旧事本紀』天孫本紀巻五の最後に「十七世孫物 部連公麻呂馬古連公之子。此連公。浄御原朝御世。天下萬姓改定八色之日。改連公賜物部 朝臣姓。同朝御世。改賜石上朝臣姓。」とあります。これは、物部から石上への改姓記録です。
瀬戸内市の古代史は、『日本書紀』と『続日本記』ではなくて、『先代旧事本紀』の天孫 本紀と国造本紀です。
崇神天皇妃の尾張大海媛が尾張氏の初見であり、又の名を葛木高名姫です。崇神天皇 が吉備前国に在住していたから尾張大海媛と結婚しました。崇神天皇が吉備前国に在住してい たから、長船刀工の先祖は、鉾剣を崇神天皇に献上できました。和気町の大王山、長船町の天 皇地名は、崇神天皇の吉備前国在住記録です。尾張氏の系譜は第十代崇神天皇に始まり、 政治の転換期に大きな役割を果たしています。尾張氏は由緒ある氏族です。
「魏志倭人伝の師升→卑弥呼→台与の王統譜が、『日本書紀』のいう崇神天皇→垂仁天皇 →景行天皇という皇統と一系的につづく皇統譜でもあることを物語ることになります。」と云う水野正好説は吉備前国で完結します。 邪馬台(ヤマタイ)国は、「ヤマト」の誤読です。 『「大和」は本来「ダイワ」であって、「やまと」とは読めない漢字です。読まされているのです。(読んでもらいたいのだ。)』矢吹寿年氏説です。邪馬台国(ヤマト)の中枢 を大和(ダイワ)に求める畿内説は間違いです。倭(ヤマト)国は吉備前国です。
9.1 「地名学では邪馬台国は岡山です。」説の要点 国語・歴史教育の問題点
文部省の小学校の国語教育内容を正しいとする説です。
「太伯は呉音のタイハクであり、大伯は漢音のタイハクです。
」
① 地名「大伯は漢音のタイハク」です。
② 「飛鳥京出土木簡が2種出土しています。
太来(オホク)と大伯(タイハク)」です。
つまり、大伯と太来は別の場所です。
③ 内務省地理局編纂『群名異動一覧』説は間違いです。
明治 7~24 年の内務省の調査結果が正しいとされ、オホクと誤読されています。内務省が間 違えると、大学教授が小学校の漢字に間違ったルビを付けます。
ルビとは難しい漢字に付け るものです。現在の国語教育や歴史教育では、コピーすることが一番重要と教えています。 だから、おかしいと思っても、誰も指摘できません。特に岡山県はコピー(記憶)教育です。
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10 参考文献
① 『古代史 謎解き紀行Ⅲ 九州邪馬台国編』関裕二 平成 26 年 新潮社
② 『神社明細帳』池田家文書
③ 「古代邑久地域史に関する一考察」『吉備古代史の展開』吉田晶 1995 年 塙書房
④ 『邑久町史 地区誌編』邑久町史編纂委員会 平成 17 年 瀬戸内市
⑤ 『新訂増補 国史大系 7 先代旧事本紀』昭和 41 年 吉川廣文館
⑥ 『改訂岡山県遺跡地図 第6分冊岡山地区 』 平成 15 年
⑦ 『日本家系・系図大事典』奥富敬之 2008 年 東京堂出版
⑧ 「長船鍛冶由緒書上」『改訂 邑久郡史上巻』昭和 28 年 邑久郡刊行会
⑨ 『先代旧事本紀 現代語訳』志村裕子 2013 年 批評社
⑩ 「吉備の部民の存在形態」吉田晶 『岡山県史古代Ⅱ』平成元年 岡山県
⑪ 『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』宇佐公康 昭和 62 年 木耳社
⑫ 吉備国の語源『黄蕨』と羈縻(きび)政策 『熊山遺跡出土品』の考察
丸谷憲二
平成 22 年 3 月 20 日 岡山市瀬戸公民館「瀬戸町の文化財を語る会」、
6 月 19 日 備前市伊里公民 館「先史古代研究会」
7 月 24 日 赤磐市熊山町中央公民館「熊山遺跡群調査研究会」、
平成 23 年 1 月 16 日 倉敷市立玉島図書館・研修室「玉島歴史勉強会」講演
⑬ 「豊原庄関係資料」『邑久町史史料編(上)』平成 19 年邑久町史編纂委員会 瀬戸内市
⑭ 『豊地区 覚え書』池上淳之 平成 12 年 3 月
⑮ 『邑久町史 通史編』平成 21 年 邑久町史編纂委員会 瀬戸内市
⑯ 『伊勢斎宮の歴史と文化』植村寛之 2009 年 橘書房 13⑰ 『国史大辞典 8』昭和 62 年 吉川弘文館
⑱ 「卑弥呼・台与女王から崇神天皇の時代へ」水野正好
増補版『邪馬台国・ヤマト 唐古・鍵遺跡から箸墓古墳へ』水野正好他 2015 年 雄山閣
⑲ 「呉音と漢音の諸問題」『きび考 第 12 号』2015 年 6 月 先史古代研究会
⑳ 「地名学では邪馬台国は岡山です。」丸谷憲二 2015 年 10 月 13 日
㉑ 『日本皇室大鑑』 官公庁資料編纂会 昭和 63 年 官公庁文献研究会
㉒ 『日本古代史大辞典』上田正昭監修 2006 年 大和書房
㉓ 『邑久町史 史料編(上)』邑久町史編纂委員会 平成 19 年 瀬戸内市
㉔ 『日本の伝説 12 中国』日本伝説拾遺会 山田書院
㉕ 内務省地理局編纂善本叢書 29 明治前期地誌資料 群名異動一覧 昭和 60 年 ゆまに書房
㉖ 熊山遺跡とヴァン仏教遺跡 丸谷憲二 平成 26 年 5 月 24 日
㉗ ブァン仏教遺跡と熊山遺跡の比較検討 丸谷憲二 平成 27 年 6 月 14 日
参考資料 問題点の指摘 関裕二氏
古代史研究家、歴史作家である関裕二氏は、平成 26 年出版の『古代史 謎解き紀行Ⅲ 九 州邪馬台国編』で吉備国の古代史研究の問題点を指摘しています。吉備国の古代史研究の問 題点とは、瀬戸内市の邑久町と長船町の古代史研究です。(丸谷追記)
「なぜ吉備はヤマト建国の歴史に登場しないのか」で、「もうひとつ不可解なことが出て いる。なぜか吉備土着の勢力の姿がまったくわからないのである。これは他の地域では稀 なことである。」「日本書紀は、実在した吉備を、なぜ歴史に留めようとしなかったのだろ う。」「吉備は別の顔で歴史に登場しているとでもいうのだろうか。」
じつをいうと「吉備の歴史を探っていくと、邪馬台国やヤマト建国の真相のみならず、5 世紀、さらにそれから 8 世紀に続く、古代日本と天皇家の歴史そのものが、はっきりとし た輪郭を持って、われわれの前に姿を現してくるのである。」
「先代旧事本記によれば、尾張氏はその祖・天香語山命(あまのかごやまのみこと)の 孫から七世の孫にいたるまで、葛木系の女人との婚姻関係を続けた。また、崇神天皇に嫁いだ尾張氏系の女人名は、大海姫命(おおあまのひめのみこと)とも、 葛木高名姫命(かつらぎのたかなひめのみこと)ともいったという」と指摘している。
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参考情報 尾針神社(岡山市北区京山)の尾針伊福部連
1 尾針神社(岡山市北区京山)の尾針とは
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天香語山命(亦名高倉下命)の、十四世孫尾治 弟彦連 次尾治針名根連です。祭神は、天火明命(アメノホアカリ)と大氣都姫 神(オホゲツヒメ)です。
近くに、尾治針名真若比咩神社(おじはりなまわかひめ・岡山市北区津島本町)があり ます祭神の、尾治針名真若比咩命 (おじはりなまわかひめのみこと)は不明です。 鎮座地「吉備国御野郡伊福郷」は、伊福部連(尾張連の一族)の居住地です。
1.1 伊福部連と金属伝承
伊福部氏は、伊福吉部、五百木部とも書かれ、「いふくべ・いふきべ・いほきべ」などと 読まれる。名の由来として、気を変化させる力”を持ち「気をつむじ風に変化させるが故 に気吹部の性を賜った」として『伊福部氏系図』では第 20 代の若子臣を気吹部臣(伊福部 臣)氏の始めと位置づけています。伊福部氏の分布が鉱山地帯に多く、初期の製鉄法であるたたら製鉄は製鉄反応に空気を 送り込んでつくられるため、風を司る伊福部氏は鉄鋼の精錬に従事していた氏族といわれ ています。
1.2 青銅神としての伊福部伝承
伊福部神は、『常陸国風土記逸文』にある伊福部岳の神です。香取秀真氏は『随筆ふいご祭』の中で、「古代の伊吹山には、銅を錬る伊福部氏が蟠踞しており、そのなかには銅の 悪気にあたって命を落とすものも少なくなかった」とし、「ヤマトタケルが伊吹山で悪神の 悪気にあてられたというのは、そうした事実の反映であろう」と推測しています。大場磐雄 氏は、「伊吹山の近江側のふもと、伊吹村金山付近には露天掘りの岩鉄を採掘した跡があっ て金糞やふいごの火口などをともなう古墳時代の製鉄所跡も発見されている。伊吹という 集落に鉄滓が落ちている。そこに伊吹神社が祀られている。伊吹山が古代の金属精錬に従 事していた伊福部氏の尊崇する山であり、そこに伊福部の神である雷=蛇神が祀られてい た。野だたらによる古代の製鋼や製鉄に欠くことのできない猛風を与えてくれる伊吹山を、 伊福部氏はあがめていた。伊吹山の周辺で製銅や製鉄に従事する氏族集団が、必然的に背 負う鉱毒を表現したものである。」と。