湊かなえ「豆の上で眠る」を読んで
「本物」の家族とは何か。さらに言うのであれば、友人、恋人、その他関係。。。人と人の繋がりに名前をつけるようになったのはいつからだろうかと頭を巡らせてみてもその答えは見つからず。この本のテーマからは少し外れるが、自分も他人に対する呼称で違和感を覚えることはしばしばある。例えば、というかこれが1番多いのだが、長年の付き合いのある友人にしばしば「親友」と紹介されることがある。別にそれが嫌だってわけじゃないけど、少し違和感を感じることも話しておこう。親友の定義とは。恋人の定義とは。そして、家族とは。どんな感情を持つ関係なのか、それに言葉を押し付けるような、そんな感覚。「親友だからどんな秘密も打ち明けるべき」「恋人ならスキンシップを嫌がらない」「家族なら感謝すべき」こうした紛い物の人間関係は嫌いだ。あくまで個と個であるべきだし、世間のフレームに収めるべきではない。俺が好きな人に恋人になって欲しいと伝えたのも体の関係を持つ為じゃなくて、あくまでその人の見ている景色と感じていることをもっと身近に感じたいと思ったからだ。一緒に居られるなら友人でも家族でもなんだってよかった。という気持ちは今も変わらずだが、人間欲があるものでもっと近く、もっと深くあなたを見てみたいと思うものである。この話は今は掘り下げないようにするが。こんな世間のフレームを嫌だと思うようになったのは小学生の時だろう。末っ子気質を絵に描いたような放漫さを持っている俺を、父は幾度となく叱った。自分の論理は父の論理と正反対のものだったため自分の正義は事あるごとに粉々に砕かれていった。それによって失われた自尊心によってこの後の生涯、正確には父親と別居をする高校2年まで何度も「産まれて来なければよかった」と思うことになる。俺は父親の事が理解できなかった。仕事場では柔軟に話し合いができる彼がなぜ家族や実の息子である俺には理不尽で人格を否定するような言葉を発するのか、小学生だった俺にとっては何度も再テストになった漢字プリントよりも遥かに難しい問題だった。二十歳になり父が一時帰国した際に「昔は良い大人になるために管理しなきゃと思っていたが今は一人の他人だと思って接している」という旨の発言をしていたため不本意にも過去の自分が1人の人間として扱われていなかったことをこの時知ることになる。以前は保護管理すべき対象、現在は一他人として接している彼にとって、俺は家族だった瞬間はなかったんだと悟る。セブンスターと台湾の加熱式タバコの煙が混ざり合う空の下でしたどんな打ち明け話よりも、俺にはこの言葉が深くのし掛かった。俺は父親の理想の大人にするために設計されて制御されたロボットのようなものだろうか。あるいは人間に噛みつかないように調教されたペットのようなものなのか。父の意向に合わなければそれを教えられて理解できなければ叩かれる。あの時の俺にはたして人間らしさがあったのだろうか。俺はとっくの昔から一人の人間だったよ、この一言が言えるほど俺と父の関係は深くなかった。幸いなことにそこまで深くなかった親子関係だったからこそ、俺は父親の正義を鵜呑みにせずに生きる事ができた。今となっては今の自分を作る過程だと割り切ることもできなくはないが、自分が生きてていいのかわからない、地に足がつかないような感覚を俺の身体に染み付かせるには充分な経験だった。「豆の上で眠る」の失踪して帰ってきた「姉じゃない姉」も同じような年月を過ごしたのではないだろうか。家にいても受け入れられないような、1人の個人として受け入れてくれず、家族だから同じ家にいるだけ。そんな感覚を味わってたのではないだろうか。1人の人間として対等に接してくれていた母と姉と、物として扱った父。生きていていいのか悩み続けた20年間。それが上手く、上手くこの作品に滲み出ている。この素晴らしい小説だと言えるだろう。この本を手に取るのならば、本物の関係について考えて見てほしい。