桜散る




プロローグ 
 僕はこれまで一度だけ恋をしたことがある。大学2年生に進級した春。一度だけ。たった1週間の恋だった。 



残り6日 出会い
 厳しい冬が終わり、柔らかい日差しと優しい風が吹く季節になった。ピカピカのランドセルで少し大人びた表情の小学生、花壇を掘り返し餌を啄むハト、あくびをする猫。新年とはまた違った節目をそれぞれが意識している穏やかな時間。草木も動物たちも待ち侘びた、誰に遠慮をすることなく思うままに伸び伸び生きる美しさに自然と心踊る。満開の桜並木を通り母さんの入院する病院へ向かう。桜の寿命は短く、来月、いや雨に打たれれば来週にでも散ってしまうが、そんな儚ささえも美しいと感じる。大学2年生に進級し、大学では新しい友人たちと授業の愚痴を言い始めるようになり、こんな平和な日常がいつまでも続けばいいのにと思う。いつもの花屋に寄り鈴蘭の花束を買う。顔も知った仲の花屋の夫婦たちに声をかけられる。「紫音くんもう今年で20歳だろ。数年前と比べてだいぶ大人になっちゃって。母さんのお見舞いか」と尋ねられたのでそうです、と返す。そうすると主人は鈴蘭の花束の中に数本オレンジのアイリスを挿してくれた。「おまけだよ。鈴蘭の花言葉は『幸福の再来』。アイリスの花言葉は『良い便り』さ。俺たちは君の願いが叶うことを心から願っているよ。」良い便りか。今の僕が一番求めていることだ。母さんは数年前に倒れて、それから何度か入退院を繰り返している。病名や詳しい状態も母さんは教えてくれない。「言うべき時に言うからそれまでは大丈夫なのよ」と言っていたが本当になんでもないのならここ数ヶ月検査のペースが早まっていることを僕に隠す必要なんてなかった。だけどそれでも僕は母さんに聞けずにいる。そんなことを考えていると病院が目と鼻の先まで近づいてきた。すると近くの電信柱の下に何かが落ちているのを見つける。小さな羽の塊、スズメの死体だった。僕はその姿に母さんを重ねたのか居た堪れなくなって、その子を病院に連れて行き庭の花壇に植えた。途中警備のおじさんに声をかけられ、事情を説明したらここがいいとのことだった。スズメを植えた花壇は胡蝶蘭が一面に咲いていた。胡蝶蘭の花言葉は「幸せが飛んでくる」。このスズメもまた大空を自由に飛ぶ日が来るのだろうか。そう思って上を見上げてみると、母さんの病室のちょうど真下あたりだった。病室のドアをリズムよく5回ノック。母さんと僕だけの知る合図。「入っておいで」と優しい声で僕を招く声。病室のドアを開けると、母さんの病室の窓際に知らない少女がいた。「誰?」と僕が困惑しているのを無視して彼女は「何?その変なノック」と笑った。このコは咲良ちゃん。春の妖精さんよ。と母さんも笑いながら僕に返す。「妖精?なんでここに」と僕が母に合わせるのを見て妖精さんがまた笑う。「なんでそんなすぐ順応できるの」と腹を抱え息苦しそうに笑っている。「この子隣の部屋で入院してたの。今日無事退院なんだけどね」と母さんが言っているのに割って入って、「陽子さん、とても素敵な人ね」と母さんへの差し入れであろう苺をつまみながら言った。「紫音、大学はどう?ちゃんとやれてる?」「大丈夫。友達もいるし、生活もできてるよ。母さんこそ大丈夫?」「大丈夫よ、すぐ良くなるわ。」そう言った瞬間、母さんの笑顔が曇ったのを僕は見逃さなかった。「そっか。早く退院できるといいけど」「そうねえ、あなた1人できちんとしたもの食べているのか不安だわ。」そういう母さんに「僕も早く母さんの料理が食べたいよ」と返した。母さんは後ろを振り向き、「桜が綺麗ねえ」と泣き出しそうな声でつぶやいた。母さんは昔からよく泣く人だ。父さんが死んだ時も、大泣きしている小さかった僕を抱きしめて「大丈夫よ、お母さんがいるからね」と変な声で笑顔を作った。幼い僕もその堪えたような笑顔の中から、母さんが泣きたいのを我慢していることは容易に想像ついた。僕も気づかないふりが上手な方ではないので話題を春の妖精に戻す。「妖精さんは今日退院なんでしょ。妖精も体調を崩すんだね」というと彼女は「近年の環境汚染のせいかもね」と深刻そうに「考える人」のポーズをする。僕が黙っていると彼女はこちらを見て、少し照れたように笑いながら「私は咲良。桜が咲くの咲に「良い」。よろしくね、シオン君。」と自己紹介をした。桜が咲くの咲ってわかりずらい例えだなと考えていると「それじゃあ、これから診察だから。2人とも来てくれてありがとうね、咲良ちゃん、元気でね」と母さんが言った。母さんと咲良は静かに抱き合い、母さんは涙を流した。母さんの大袈裟なところは相変わらずだな。昔もテレビや映画の「感動の別れ」には毎回涙を流す人だった。僕と咲良は2人で母さんの病室を出た。僕が「それじゃあ、僕は帰るね」と出口の方に向かおうとすると「待って」と腕を掴む彼女。少し言い淀んだのちに「あなたの1週間を私にくれない?」と言った。「何を言ってるんだ」と返そうとしたところで彼女の真剣な顔に口が痞える。どういう意味か尋ねようとしたところで彼女の細い口が先に開く。「ともかく、明日もこの時間にここに来て」そう言った彼女の顔は初対面の僕でも伝わるほど不安そうで、これを断ることは僕自身の生きている意味を失うことになるような気がして、「わかった」とだけ伝えて病院をでた。母さんの病室にキブシの花瓶があったことを思い出した。


残り5日 友情
 カーテンの隙間から朝の報せ。眠い目を擦りながらベッドから出てカーテンを開ける。小鳥たちの鬼ごっこを端目に大きく伸びをする。1人で暮らすには広すぎる一軒家の2階から降りて熱めのシャワーを浴びた。かつて父さんと母さんと3人で暮らしていたこの家は、かつての暖かさを失ってしまったかのように静まりかえっている。ピースの足りないパズルのような、間違え探しの日常にはいつまで経っても慣れることはできないままでいる。シャワーを止め、溜まった洗濯物を洗い、干している間にニュースキャスターが10時を知らせた。軽い朝食を済ませて、約束の場所に向かう。道中、あの子のことを思い返す。本当に春の妖精だったのではないか。母さんが寂しくならないように僕自身が作り上げた幻覚だったのではないか。それに1週間ってどう言う意味なんだ。などと考えていたが、病院はもうすぐそこまで迫って来ていた。昨日スズメが倒れていた電柱で足を止める。それは確信、と言うには弱すぎて、直感というには強すぎた予感。その霧がかった気持ちを掴みかけた瞬間、その子はやってきた。「やあ、シオンくん。元気してた?」幻覚じゃなかった、と考えているうちに彼女は僕の手を引き母さんの病室に連れて行った。「ねえ昨日のノックやってよ」少女のように笑う彼女を無視して3回ノックをして病室に入る。「紫音だったの。咲良ちゃんも、来てくれてありがとう。」母さんが話している姿を見ていると安心する。小さな頃寝る前に絵本を読んでもらった時のような、親友と喧嘩して落ち込む僕を慰めてくれた時のように、母さんの声は僕が眠るまでいつまでも続いていくんだと思った。そうしてリビングで昼寝をする僕に夕飯何が食べたいか聞く。そんな日常が戻ってくることを僕はいつまでも待っている。「陽子さん、シオンくんのこと借りますね」「そうなのね、紫音のことよろしくね、咲良ちゃん。」そう言ったあとで母さんは「紫音、いってらっしゃい」と僕の方をまっすぐ見て言った。僕はいつもより少しだけ深く息を吸い、母さんの目を見て「行って来ます」と返した。病室を出た彼女にこれからどこに行くのか尋ねる。「まずは映画行ってカラオケ行きたい!」元気よく言う彼女に気圧されたまま駅前の大通りに向かう。2人で歩いている間、彼女は初めて遊園地に来た子供のように目を輝かせてあたりを見渡していた。「初めて来たわけじゃないんでしょ?」と僕が尋ねると二つの大きな瞳が僕を向いて、「そうだけど、春に見る景色と夏に見る景色は違うでしょ。秋の景色も冬の景色も同じように見えて全然違うでしょ。それに同じ春でも毎日風の匂いもお日様の優しさも全然違うじゃない。私は全部、全部を目に焼き付けておきたいの。」と微笑みながら語る彼女を見ていると僕まで美しい心の持ち主になったんじゃないかと錯覚する。「シオンくんはこの街は好き?生まれた時からずっと住んでるんだよね。」少し間を空けて、「嫌いだよ。同じ道を通る度に嫌な思い出も思い出しちゃうから」そういうと、彼女は僕の顔をじっと見つめ、「でもいい思い出も同じ数だけ思い出せるでしょ。やっぱり羨ましい」と言った。ちょうど公園の曲がり角だった。昔この公園で父さんと母さんと3人で遊んだ。まだ小さな僕が公園で走り周り、母さんが追いかける。それを父さんが見て笑っていた。今では父さんは死に、母さんも長く入院していてもうあの頃のように公園で遊ぶ体力はなくなってしまっているだろう。「何かを得ると言うことは、いつか失うってことなんだよ」言ったあとで慌てて「でもいい思い出はとても大切だ」と付け足した。映画館に到着し、彼女が選んだのはバチバチのアクション映画だった。「恋愛映画とかだと思ってたよ」と僕が言うと「恋愛したくなっちゃってもヤだからさ」と返す。恋人作ればいいのに、モテるだろうし。口に出しそうになって引っ込めた。映画の上映中、彼女のコロコロ変わる表情が目に入った。「楽しかったね」最後に心の底からの感想を聞いたのはいつだっただろう。相手が求めていそうな言葉を自分の辞書から探して話すようになったのはいつからだろう。感情と言葉の間に一切のすれ違いがない彼女の言葉には人の心を動かす不思議な力がある気がした。カラオケで部屋に案内されても映画の興奮が冷めない彼女のことを、素直に素敵な人だと思った。「あの時!ヒーローが来るタイミングが完璧だったよね〜」意味もなくマイクとスピーカーを通じて映画の感想を一通り喋った後、彼女は何曲か候補を出して「選べない」と頭を抱えた。外に出ると外はもう薄暗くて、昼にはあんなに優しかった風も、僕たちを身震いさせた。結局彼女は数曲しか歌わなくて、「ごめんね、ちょっとお手洗い」と出て行ったきりしばらく帰ってこなかった。その間僕は2曲を歌い終わった後で、何かあったのかと心配して部屋を出ようとしたところで彼女が戻ってきて、「なんかもういいや、出よ」と言った。2人並んで夜道を歩いていた。「もう帰ろうか。」僕が提案する。彼女は少し考えたのちに「最後にもう一箇所だけ寄ってもいい?」と言い、僕は「うん」とだけ返した。駅から家に帰る道を少し遠回りして、僕たちは河川敷にいた。ランニングをする老人、犬の散歩をする兄妹。一通り彼らを見送る間、彼女は何も言わなかった。隣で大きく息を吸い込む音が聞こえた後で「私さ、後1週間で死ぬの」と独り言のように呟いた。彼女の方を見たが、大きな瞳は川に映る街をまっすぐ見つめていた。僕が何も言えずに固まっているのを感じたのか、彼女は「ふふっ」と笑い「正確にはね、後6日。君と初めて会った日から7日だったの。」相変わらず何も言わない僕を見て彼女は続ける。「もう助かる見込みがないんだって。だから先生に頼んで退院させてもらったの、やり残したことがきっとたくさんあるはずだから、って。」僕は何も言えないままだった。何を言ったらいいのかわからなかった。聞きたいことは探せば探すほど見つかるのに、それらが頭の中で巡るだけで文にならない。そんな僕のことを見据えていたかのように彼女は立ち上がり「今日はありがとう。楽しかったよ。また明日」と去って行った。僕は夜風に1人晒されることしかできずに、河川敷の枯れた菜の花を眺めていた。



残り4日 恋
 謙虚に吹く風を感じながら病院に向かう途中、昨日の夜を思い返していた。今日を含めて5日しか残されていない命。自信の死がすぐそこまで迫っているのを感じつつも、僕にはそんな様子を隠して映画とカラオケに行った彼女をどのように解釈すればいいのかわからなかった。告白されたところで僕には何もできなかった。彼女と出会った日に彼女が口にした「後悔したくないの」という言葉が寝不足の僕の体に重く、重くのし掛かる。横断歩道のスタートの合図に少し遅れてまた歩みを始める、病院の向かいにある花屋には一度道路を横断する必要があり、僕はそのじれったさが、この花屋を好きな理由でもあった。グズマニアで縁取った小さな立て看板に「Andoromeda」の文字。以前店主奥さんに由来を聞いてみたことがある。「うちの人がね、プロポーズするときに『僕の人生の旅のパートナーになってほしい』って言ってたの」と嬉し恥ずかしそうに結婚指輪を見せながら話していた。アンドロメダはフランス語でアセビのことであり、アセビの花言葉は「あなたと2人で旅をしましょう」僕が花言葉に興味を持ったきっかけでもある。数本のカランコエの花を数本刺してもらい、おまけのコロニラを数本。退屈なはずのいつものやりとりが、僕は好きだった。約束の時間よりいくらか早く到着したので、先に母さんの病室に行く。リズムに合わせて、5回ノック。「紫音、いいわよ」いつもの柔らかな笑顔の母さんは僕が話し始めるより先に僕の異変に気付く。毎日一緒に生活していなくてもやはり母さんは母さんだった。「紫音、咲良ちゃんと何かあったの?」昨日のことを話そうとして留まる。母さんは彼女の状態を知っているのだろうか。彼女が退院の際母さんとした熱いハグは、全てを解った上でのことなのだろうか。もし母さんが知らなかったならば余計な心配はかけたくない。「母さんは。咲良、咲良さんのことをどれくらい知ってるの?」瞬間、母さんの表情が鈍く反応した。それだけで僕は悟った。僕だって母さんの息子だ。父さんが死んでからは、僕が母さんの一番近くに居た。母さんがどんな時にどんな表情をするかは誰よりも知ってる。長い沈黙の後、母さんは「言ったのね、咲良ちゃん」とだけ呟いた。「責めたりはしないから、大丈夫」僕はそう返して母さんに背中を向けて歩き出す。ドアを開けて出る直前、「行って来ます」と一言添えた。思っていたより冷静な自分に、僕は驚いていた。母さんが初めから知っていたのなら、こうなることがわかっていたなら、彼女を説得して辞めさせられたかもしれないのに。初対面の僕に最後の1週間を託すのがいかに間抜けな話か伝えることができたはずなのに。それでも僕は冷静だった。一本道を歩いていれば迷わないのと同じように、すべきことが決まっているなら簡単な話だった。今日、この関係を終わらせよう。そう固く胸に誓って彼女を待っていた。約束の時間を過ぎても彼女は来なかった。そのまま10分ほど待ってみたが彼女の姿は見えなかった。昨日は僕よりも早く来て、映画館の誰よりも映画を楽しんだ彼女のことだから、今日もエクボを浮かべて、僕のシャツの袖を引っ張って歩き回るんだろうと思っていた。だが現実に、ここには僕しかいない。彼女を探しに行きたかったが、僕は彼女のことを知らなさすぎた。住所も電話番号も、苗字すら知らなかった。知っていることは、コロコロ変わる表情とお日様みたいな匂いだけだった。気づけば僕は走り出していた。どこに向かえばよいかもわからず、僕の家とは反対方向に走り出した。「何かあったら大変だ」と言う気持ちよりも、「何か起きている気がする」と感じた。しばらく走ると路地を抜けて国道沿いに出た。左右見渡すが彼女の姿はない。手がかりもないまま左に走った。僕は迷うと必ず左に向かう。昔からそうだ。靴を履くのも、玄関から出す最初の足も左だ。しばらく走ると、さっき出てきた路地が小さく見えた。僕は一旦足を止め、深く深呼吸をした。僕の焦りとは反対に、今日いち爽やかな風だった。真上に歩道橋があるのを知った僕は、風をめいっぱい感じるために階段を登っていった。最後の階段を登り終えた時、僕はまた走り出していた。歩道橋の上に彼女はいた。彼女は僕の足音にこちらを振り向き、僕を僕だと理解した時、驚きと喜びが混ざったような顔をしていた。僕が都合の良い解釈をしている可能性も捨てることはできないが、とにかく僕はそう確信した。彼女のそばに近づいたはいいものの、なんと言ったら良いかわからず、僕は肩で息をしながらただ彼女を見つめていた。しばらく僕と彼女は目を合わせていた。長くカールしたまつ毛、長い鼻と見下ろして行った後の小さな口。透き通るような白い肌に、桜色の唇が映える。華奢な体から頼りなさそうに伸びた手足。緩やかな曲線で構成された彼女は、触れたら壊れてしまいそうな、ギリギリのバランスで保たれていた。そんなことを考えていると、彼女が「ごめんね、遅れて」と震える声で言った。「君が無事でよかった」「探しに来てくれたの?ごめんね」「いいんだ。僕が心配で探してただけだから」「まだ出会って3日の人を?」「うん。まだ出会って3日の君を探してたんだ」彼女の大きい瞳から涙が溢れる。この時に僕たちはつながった。彼女が何を思いここにいたのか、何を感じて僕を待っていたか。彼女は残り僅かな人生という恐怖の鎖から彼女自信を解放しようと思っていたのだ。それでも捨てることとなる残り4日間に対する未練を捨てきれず僕が来ることに賭けていたんだろう。この憶測に限りなく近い確信が、僕の彼女に対する認識を大きく変えた。僕は泣いている彼女にまた一歩近づき、静かに彼女を抱きしめた。「僕はずっと君の側にいるよ」それだけで全てが伝わったと思う。彼女は僕の腕の中でただただ泣いていた。歩道橋の上に僕と彼女だけが、この街の春を独占していた。昔父さんと見たタイタニックの最後のシーンを思い出した。腕の中の妖精は一言「寒い」とだけ言い、僕から離れた。涙の乾いた跡が、僕の心を締め付ける。僕の心の中にはもう彼女を守りたいという気持ちしかなく、彼女にもう会わない、と告げようとしていたことなど頭にはなかった。「ねえ、紫音くん」しばらくして彼女は僕を見つめながら囁く。もう抱きしめていないけれど僕たちは未だ手の届く距離にいた。「どうしたの、咲良」「もう少し話そう」僕は小さく頷き、僕たちは自然に昨日一緒にいた河川敷に歩いた。途中でコンビニに寄り、暖かいココアとミルクティー、そして肉まんを買った。2人で1つの肉まんを半分こして、食べながら歩いた。僕が半分に分けて、咲良が選んだ。僕たちの間には言葉は要らなかった。河川敷で、いろんなことを話した。僕と咲良が同い年であること。僕は犬派で、咲良は猫派であること。僕は自然と未来の話題は避けていたが、咲良は僕の将来の夢や結婚願望について聞きたがった。会話中に咲良の口からふと飛び出した言葉。「4日後ね、私の誕生日なの。」「そうなんだ。」何気なく返したが、僕の心には咲良の言葉が深く刻まれていた。



残り3日 怒り
 その日は雨が降っていた。咲良が来るのかわからなかったが、僕は病院にいた。母さんに相談しようと思っていたからだ。「僕が咲良にできることってなんだと思う?」一晩中考えに考え抜いて、それでも答えが出なかった質問を母さんに問う。「そうねえ」と母さんも一緒になって悩む。母さんはいつも自分の問題よりも僕の悩みを聞いている時の方が苦しそうだ。「ごめんね、お母さんにもわからないわ。けどね、こうやって咲良ちゃんのために悩むことは決して無駄なことなんかじゃないとお母さんは思うよ。」ありきたりなようで、僕の心には暖かく沁みた。病室の窓から正門を見ながら咲良が来るのを待っていた。昨日あれだけ河川敷で話した僕らは、連絡先を交換しなかった。あと4日間しか使うことのない連絡先を交換しようと咲良に提案するのは、僕にはできなかった。病院の門をアイボリーの地に薔薇の花が規則正しくならんでいる傘が通る。隙間から見慣れた細く高い鼻と小さな桜色の口が紺のレインコートを重苦しそうに身にまとった守衛と話しているのが見えた。先ほどまで殺伐とした暗い春の世界が、咲良が入ってきた刹那、日差しが差したように暖かく優しく染まる。咲良と話す人は皆それを感じるのだ。僕にはそれが誇らしかった。病室の扉を5回ノック。僕と母さんのとは似ても似つかないリズム。半身ほど開けた扉からいたずらっ子の顔の咲良が顔を出す。それでいて「どう?リズムあってた?」なんて聞くから、僕と母さんは顔を見合わせて笑った。雨の憂鬱さなんてなくなっていた。それからしばらく3人で色々なことを話した。僕たちがここ3日間何をしていたか、食事は何を食べたのか。急に咲良のことをどう思っているのかと母さんに尋ねられた時には焦った。顔が赤くなるのが自分でもわかる。母さんと目を合わせていたらバレてしまいそうなので、咲良に視線を向ける。僕よりも顔を赤くする咲良。そんな僕たちを見て嬉しそうに笑う母さん。これ以上なく平和な時間だった。母さんの昼食の時間になって、看護師さんが入ってきた。母さんは看護師さんと少し話した後、「紫音、お母さんご飯食べたらすぐ診察あるから。咲良ちゃんのことよろしくね」と僕に言う。「わかった。じゃあまたね。行ってっきます」僕は、楽しい時間が中断されたことに対してブーブーと文句を言う咲良を連れて病室の外に出た。苦虫を噛み潰したような顔の咲良の隣を歩きながらこの後どこに行くかを考える。残り時間が少ない咲良との時間は、僕にとっては何よりも大切なものだった。出口まで外の様子を見に行った咲良がずぶ濡れになって帰ってくる。「紫音くん、雨やばい!」見ればわかるのに好奇心だけて行動する咲良に呆れ顔を向けつつ自分のジャケットをかける。僕を見つめる瞳が大きくなる。「休憩室で時間を潰そう」そう言って咲良と2人休憩コーナーに向かう途中、咲良は僕の顔を見ようとしなかった。雨に濡れたばかりだと言うのにしきりに顔を仰いでいる。照れているのだ。僕も顔が緩んでしまうのを抑えるべく頬を抑える。僕たちは休憩コーナーに設置されている自販機で暖かいミルクココアを飲むまで顔を仰ぎ抑える二人組だった。それからも2人は話をした。母さんとの楽しい時間は、まるで序章だったと思うほど僕たちの世界には言葉が溢れていた。意味のある言葉も意味のない言葉もたくさん、ふわりと舞う世界。自由で柔らかな、春の訪れのような世界だった。そこに大きな、大きな竜巻が来て、僕たちの世界を瞬く間に壊していった。きっかけはほんの一言だった。咲良が僕の将来の職業を予想すると言い、僕が「確かめる人がいない」と返した。すると咲良が「紫音くんは私のことなんか忘れちゃうもんね」と半分冗談で、半分自嘲を込めて呟いた。言っていいことと悪いことがある。僕がどんな気持ちで咲良への気持ちを押し殺していると思っている。夜日付が変わるの瞬間に何もできずにベッドで震えてるだけの僕が、どんな気持ちで君と話しているか。何度咲良との将来を想像して、何度現実に押し潰されたのか、彼女は知らない。伝えたことはないので知らないのは当然だが、残されていく者が今、そしてこれからどんな気持ちでカレンダーを捲るのか想像したことがないのだろうか。僕がこれから毎日無力さを感じ、生きている自分を呪っていくのか彼女は知らない。わかってほしいとは思わないが、少なくとも咲良自身に咲良の人生を悪く表現してほしくなかった。僕は怒鳴った。思わず立ち上がった僕の拳がきつく握られている。周りにいた人がこちらに注目している。咲良も驚いている。目を丸くして、それでいてショックを受けているような顔だった。僕は怒鳴ったことを謝り、もうニ度と咲良に自分の人生を悲しいものにしないでほしいと言おうとした。言おうとしたが、言えなかった。代わりに言葉にならなかった声と大粒の涙が出た。もう咲良は驚かなかった。代わりに泣き出しそうな顔で焦っていた。僕は1人休憩コーナーを出た。咲良は追っては来なかった。立ち去る瞬間、咲良の瞳が光ったのを見た。僕と彼女は、別々の場所で泣いていた。今の僕たちは、きっと2人でいても1人と1人だった。病院の裏口近くの喫煙所で涙は止まった。さっきまでとは打って変わって青空にぽつんと雲が取り残されていて、それが僕に重なっていやになる。まだあまり減っていないセブンスターに僕を早く殺してくれと願った。頭が痛い。頭の左奥にジンジンと乾いた痛み。寝不足で痛かった頭の右奥の痛みを忘れてしまうほどに。あぁ、イライラする。咲良が僕をわかってくれない事、僕にとって咲良が「すぐ忘れてしまう人」だと言われたこと。そしてそれで感情的になって咲良を泣かせてしまった自分に、僕は情けないことながらも怒りを感じていた。煙が風に身を任せ漂う。真っ白だったそれは日差しを受け青白くなり、灰を生み出しどこまでも流れていく。青空に煙を送る罪悪感。この煙も雲の一部になるのだろうか。最後の煙を吐き出した時には、僕はもう咲良になんて謝ろうかを考えていた。ふらつく頭をなんとか制御して僕は休憩コーナーに帰っていた。休憩室に戻るとそこに咲良はいなかった。代わりに見えたのは窓の外で風に舞う桜の花びらと、それを誘うように雲の間から差し込んだ日差しだった。僕はあたりを見て咲良がいないことを確認すると歩き出した。行った場所が確実に分かっていた訳ではなかったが、僕には咲良がいる場所が分かっていた。母さんの病室を通り過ぎてその場所に向かう。階段を二つ飛ばしで駆け上がり重いドアを開ける。病院の屋上に、やはり咲良はいた。濡れた地面と水溜まりを躱してゆっくりと咲良に近寄る。咲良の目だけが僕に気づく。アーモンド型の瞳を飾り付けるように濡れたまつ毛が空を見る。少し赤らんだ鼻先がズッと音を立てて跳ねた。僕の頭の中で幾度となく響いていた「ごめんね」は咲良を目の前にした僕にとって無力だった。言ったらこの関係が終わる気がした。咲良も何も言わずに屋上のフェンス越しに街の往来を見ている。僕の右手はそっと、フェンスを掴む咲良の左手を包んだ。



残り2日 孤独
 その日、咲良は来なかった。


残り1日 恐怖
 また朝が来てしまった。時間は残酷で、いつだって僕の大切なものを奪っていく。玄関でスニーカーの靴紐を結ぼうとする手が震える。咲良は今日来るのだろうか。僕らの時間は1週間もなかったのではないか。そう思う瞬間果てしない絶望が僕を襲った。なんで連絡先を聞いておかなかったんだ、くそ。空になりたてのペットボトルが宙を舞い、カロンと気持ちの良い音を立てた。咲良の安否を確認するために早く病院へ行きたいが、あまりに急に近づいてきた死の予感に圧倒された僕は、現実から目を背けていた。頭の中で何度も何度も咲良が僕を呼ぶ。深く長く息を吸って、それよりも長い時間をかけて吐いた。そして僕は左足を玄関のドアの外へ踏み出した。僕は走った。家の鍵をかけ忘れたことなんて忘れるほど夢中で病院を目指した。病院に着けば解放されると思った。この感情全てに決着がつくと思った。病院の前の公園に着いた時には僕はすでに涙を流していた。咲良は生きていた。桜のもとに駆け寄り、抱きしめた。僕が求めていたもの全てがそこにあった。肌の温かさ、お日様の香り、細い腕。一瞬驚いた顔をした咲良が僕を優しく包む。「どうしたの?紫音くん」柔らかく高い、とても優しい声。これも全て失くなってゆく。どうせ失うなら神様はどうして僕らを出会わせたんだ。ただ咲良を愛してたいだけなのに。父さんも、母さんとの時間も奪われた僕からこれ以上もう何も取らないでくれ。咲良ただ1人を大切に思うことすら欲張りだというならいっそ誰も愛せないままでいたかった。「紫音くん、痛い」抱きしめた腕を広げようとする咲良が言うのを聞きようやく我に返りごめん、とゆっくり力を緩める。「咲良、会いたかった」「私もだよ、紫音くん」明日死んじゃうからね、と付け足しそうな咲良のわざとらしい笑顔。そういう僕も笑顔が引き攣ってるのがわかる。ただ、もっと触れていたかった。もっと声を聞きたかった。笑顔を見ていたかった。それだけでよかったのに、僕は咲良を失う。抱きしめた耳元で小さく「怖いんだ、咲良がいなくなるのが」と溢した。「何かを得るということは、いつか失うということなんだよ。紫音くんが言ったんじゃん。」わかっていたつもりだった。父さんの死と母さんの入院はどちらもショックだった。失う辛さは知っていたはずだった。だから人を大切にしないように、周りの人とは壁を作ってきた。もう誰も大事にしたくなかった。その壁を、散歩するかの如く悠然と壊して入ってきた咲良と出会うまでは。粉々に砕かれた壁はもう二度と戻ることはない。僕はただ咲良のいなくなった壁の内側からポッカリとあいた穴を眺めることしかできない。残酷だ。咲良のことを愛さなければこんなに世界が色づいていたことは知ることはできなかったからこそ、咲良がいなくなった後の世界は一層僕に孤独を感じさせる。太陽の匂いも、柔らかな笑顔も、明日には消えてしまう。雨に降られて散ってしまう桜の花びらのように、何かが足りない世界をこれからもずっと僕は生きていくのだろう。ふと頭の中によぎった言葉。そしてすぐに核心に変わった言葉。僕の人生の意味だと実感した。「僕は君と出会うために生まれてきたんだろう」僕を見上げる咲良の顔。そこには喜びと悲しみ、怒りと愛しさ全てが詰まっていた。咲良はただ「最後に陽子さんのところに行きたい」という咲良と手を繋ぎ母さんの病室に向かう。しっかりと掴んだ僕の右手と、肯定も否定もせずに繋がれる左手。母さんの病室で5回ノック。僕と母さん、そして咲良のリズム。母さんの優しい声が僕たちを招く。「咲良ちゃん、おいで」と抱き合う2人。母さんの変な笑顔。咲良の瞳が静かにベッドを濡らした。さよならと告げてまた僕たちは歩いていく。繋がれた手と手、緩んだ左手。あの河川敷で暖かな風が2人を慰める。しばらく無言の時間が流れた。「どうして僕だったの?」「紫音くんがスズメのお墓を作ったから」「それだけ?」「うん、それだけ」「そっか」「紫音くんはどうして私といてくれたの?」「なんでだろう、特にやることもなかったからだったりして」「そっか。ありがとう」「こちらこそありがとう」「私まだ死にたくないなあ、もっと紫音くんと一緒にいたかった。一緒に公園に行って、旅行に行って、紫音くんの家で映画見るのも楽しそう」「そうだね」「でも入院してなかったら紫音くんに出会えなかった」「そうだね。僕は君に会えて幸せだった」「私も」「…泣きたくない」「僕も」「これ以上一緒にいると悲しくなるからもう行くね。」「…わかった、じゃあね」「バイバイ」そう言って最後に見せた笑顔が、僕と咲良の最後の思い出だった。小さくなる背中を消えるまで見続けていたが、潤んだ瞳が咲良を消した。



残り0日 =愛
 病院へ向かっていた。暖かい日差しと優しい風、鳥の囀り。全てが1週間前と同じだった。満開の桜並木だけが花びらをほとんど失い、まだ散らないでと願った。一歩一歩踏み締めて歩いた。現実から逃げたくて浮いてしまいそうだったから。病院につく一歩手前、電柱の下に桜の枝が折れて地面を飾っていた。僕はそれを拾って母さんの病室に入った。「紫音。」何か言いたげな顔の母さん。「わかってる」と頷く。母さんは封筒を取り出し僕に渡した。咲良からの手紙だった。手紙を読み終わって、それを鞄に入れた。そうして母さんの病室から出て家に帰った。雀を埋めた場所にはシザンサスが嫌になる程鮮やかに咲いていた。「咲良、20歳の誕生日おめでとう」


エピローグ
 母さんは6月に死んだ。梅雨入りの日だった。梅雨生まれに似合わない母さんの名前の陽子は紫陽花から取ったものだと葬式で誰かが言っていた。母さんの葬式の日も咲良を思い出していた。20年の人生が長いのか、それとも短いのかは僕にはまだわからない。ただ一つだけ僕が言えることは、咲良の生きた20年も、誰かの生きた100年も同じだけ美しいということだけだ。咲良が見てきた景色と感じた全ては何よりも美しいのだと僕は信じている。木枯らしが吹き桜の木はすっかり冬枯れてしまった今でもそう思ってる。そして今日は僕が20年生きた日。僕は咲良を見つけた歩道橋の上にいる。吐いた白い息を消えるまで見送り今、一歩踏み出した。




咲良からの手紙

 紫音くんへ
ごめんね、早めに帰っちゃって。紫音くんと一緒にいると未練が増えちゃうからさ。一緒に入れて嬉しかった。紫音くんが昨日言ってた「紫音くんは私と出会うために生まれてきたのかも」って意味。わかったけど、だめだよ、今は。陽子さんと一緒にいてください。それだけお願い。じゃあね。
 咲良

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