愛憎列車
湘南新宿ライン宇都宮行き。帰省のために乗り込んだこの電車は間もなく川崎に着くところ。南武線の車両は黄色なのを初めて見て少し気分が上がる。その隙にこの車両では数人降りて数人乗り込んでくる。そんなことを目的地まで繰り返して行く。地元は茨城の片田舎なので電車よりも車に乗ることが多かったが、中学校に上がるまでは東京に住んでいたこともあって電車に揺られるのは嫌いじゃなかった。とりわけ、父と青春18きっぷを使って秋田の曽祖母(父からすれば祖母である)の家までの片道10時間は、当時小学生の俺にとっては人生のビッグイベントだった。東京駅の人混みをアクションゲームの要領でかき分けていく。リニューアルしたての東北新幹線に追い越される鈍行を、まるでマイカーでレースをしているかのように応援した。しなやかなフォルムに鮮やかな緑と赤のカラーリングのあいつにはいくつになっても勝てなかったけれど。今年二十歳を迎える自分はもうだいぶ大人になったという自負があるが、まだ20年と経っていないことに人生の長さを痛感する。死にたい理由は毛頭ないが、生きてる意義もまたないのである。それならば6年前に死んだ友人の明るい未来と交換してしまいたいと常日頃考えている。命の重さってなんだろう。生きていることは良いことなのだろうか。死ぬのは悲しむべきものなのか。死んだことがないので答えは未だ出せずにいるが、死んだら死んだで答えを知ることはできないヂレンマを感じる。父にも同じことを尋ねたことがある。小学校半ばの夏休み中、秋田の曽祖母の家で親戚一同で過ごしていた時のこと。父に頼まれ「背中踏み」をしていたときのことだ(父はがっしり、いや、メタボであったため、小学生の中でも小柄だった俺が背中に乗っても痛がるどころか気持ち良さげにするのでたびたび頼まれていた。)。まるでゲームの敵を倒すかの如く背中踏みに力が入るとついつい気持ちも盛り上がってしまうもので、「死ね、死ね」と言葉を発しながら父を踏んだ。もちろんこれは本心からの言葉ではなかった(そもそも人が死ぬとはどういうことなのかすら理解していなかった)が、齢90を超えた曽祖母と癌を患い入院経験のあるその息子たちがその場にいたこともあり、父の琴線に触れてしまったらしく、かなり怒鳴られ殴られた記憶がある。泣き虫だった俺は大泣きして、「みんな死んじゃえ!」とバイキンマン、いやドロンジョやロケット団、いずれの悪役にも引けを取らない捨て台詞を吐き、知らぬ街にひとり飛び出して行った。玄関を出てから一本道をゆっくり歩き、しばらくしてから後ろを振り向いてみたが、誰も追っては来なかった。
田舎にしかないスーパー、駐車場が鳥のフンだらけの古びた市立病院、花火大会の土手で猫を尾けた。大冒険の途中で立ち寄った商店街のほとんどの店がシャッターで封印されてたから、どうやらまだ行けない場所なんだと悟った。店の電話番号がグラフィティアートで塗りつぶされているのを眺めていると、後ろから「ココサムカシヤオヤバアッタンダ」と話しかけられた。呪文の犯人はそのアートを描いた犯人とは到底思えない2人のおばあちゃんだった。東京育ちの少年は呪文のなかの、かろうじて理解できる部分を聞き取り、「八百屋なんでなくなったの?」と聞き返した。おばあちゃんAは「八百屋の主人がこの間死んじゃったんだよ」と少し優しい口調で教えてくれた。そのあとで、おばあちゃんBは「おばちゃんたちの友達だったのよ」と教えてくれた。死=悲しいというイメージはなんとなくわかっていた。学校から帰ったときにやってるニュースエブリーのキャスターが人が死んだと喋ったときには、母はよく苦しそうな顔をしていた。俺は死が悲しむべきものなのか分からなかった。俺にとっての死はゲームの中のものだった。ザオラルで生き返ることもあるし、もし失敗しても教会にお金を払えば生き返ることはよく分かっていた。ただ棺桶を一人で運ぶ勇者は大変そうだと思っていた。おばあちゃんの話が終わってバイバイした後、そういえばさっき怒られたときも「死ぬ」だったことを思い出して、死に対して嫌悪感を抱いたが、それが母のものと違うのは幼心でも分かっていた。夜ご飯ができるくらいの時間を狙って家に帰ったら、偶然なのかパパが玄関の外でタバコ吸ってたから、見つかった。「コラッ、どこ行ってたんだ。みんなメシ食わないで待ってたんだぞ。」いつもコラから始まるから、怒ったパパは嫌いだった。聞かれたから行ってきた場所を答えたのに、あんまり聞いてる感じはなくて、途中のタバコを消して俺を連れて玄関に入った。みんなはもう怒ってなさそうで安心した。ひっくり返ったご飯茶碗は昨日も見たけど見慣れてなかった。風呂に入ってる時、パパが「人に死ねっていったらダメだ」って言った。「なんで?」って聞くと、大きくてけむくじゃらなお腹がお風呂のお湯をたくさん減らして「おばあちゃんたちが悲しむから。人が死ぬのは悲しい事なんだ」って言ってた。よくわからなかったけど、そういうものなんだって思った。友達とふざけて「死ね」って言うときは友達も笑ってるからうちの家がおかしいと思った。3年後小学校を卒業して、茨城に引っ越す日に友達がお別れを言いに来た。別れがつらくて「死んだ方がマシだ」と言ったら、運転席の母は「馬鹿な事言わないで」と言った。小平の友達以外友達はできなくてもいいと思った。シンガポールの友達のことは忘れてしまっていることは忘れていた。
中学校に入学したときは、自分がどういう人だったのかわからなくなった。小学校の時には嫌いだったメガネをかけるようになった。東京の俺とは別人になれるような気がしていた。中3として先んじて転校していた姉は初日で11人の友達ができたと言っていたから、「俺もたくさん友達作るよ」と母と姉と話した。だけど本当は友達なんていらないと思っていた。東京の頃の自分がいなくなってしまうのがなによりも怖かった。中学校が始まって、何人か話せる人ができたから、遊びに誘ってみたけれど、小山公園も小金井公園も喜平地域センターもないここじゃどこに行ったらいいかわからないから、うちに誘ってみた。遊んで話してみたけど、嫌われないように怒らせないように気張っていたから、楽しかったのかさえわからなくって、みんなが帰った後すこし泣いた。部活が始まったら、部活の友達と遊ぶことが増えた。バスケは好きだったから、バスケが好きな人とは仲良くできた。同じクラスと同じ部活の人だけが味方だった。他のクラスの人はみんな敵なんだと思ってた。味方の特別にならないと嫌われてしまうから、敵よりも気に入られないとダメだと思って、味方でグループを作るようになった。そんな強張った生活だった反面、同じクラスで同じ部活に入ってた女の子と仲良くなった。出席番号も前後だったから、入学したての席も前後だった。俺が22番で、その子は23番だった。23はマイケルジョーダンと同じだから羨ましいと言ったら、「羨ましいでしょ」と笑うような子だった。何を言っても笑顔が返ってくるような子だったから、いろんなことを話した。「俺が天才」と言えば「私のほうが天才」と言い返してきた。「お前は天才じゃない」「神だもんねっ」大した事ではないんだけど、味方がいなかった中学時代には、何を言っても許してくれるその子といるのは居心地が良かった。その優しさに甘えて、汚い言葉もたくさんぶつけた。「短足、ブタ、馬鹿、死ね」プライドと見栄はたくさん抱えてたくせに、人を感謝して褒める心は持っていなかった。学年が上がっても、その子に彼氏ができても、俺に彼女ができても俺らは変わらなかった。2年になってから通いはじめた塾に、あとからその子も入ってきた。学校が終わると一緒に学校の目の前のコンビニに行って、飲み物と軽食を買って塾に行った。ハムとマヨとキュウリの挟まったサンドウィッチを食べてたから、冗談のつもりで取ったら、くれた。初めて食べたけど、その子の表情ほど美味しいとは思わなかった。夏が終わり、県で4位まで行った男子バスケ部の先輩たちも引退して、その子と俺は6番をもらった。レブロンと同じ番号だから割とすぐ気に入った。中学生だから仕方ないけど、勉強もしなきゃいけないから、俺たちは相変わらず塾に通っていた。9月24日、明日は新人戦だった。自分たちの代の最初の公式戦だったから、その子と俺は楽しみが過ぎて、塾の集団授業の後の宿題の時間、みんなと違う場所で2人で、楽しみだねって話してた。宿題なんかまっさらなのに、お互いの手の甲にマッキーでエールを綴った。「女バス頑張れ!!by天才西村」って書いた。俺の左手の甲には「男バス頑張れ!by神根目沢」と書いてあった。嬉しかったけど、お風呂で消えちゃうねって話してたから、明日の朝学校で集合した時、バス乗る前にもっかい書こうと約束した。塾が終わってバイバイして、そのときに「マッキー忘れないでね」って言った。その日は綺麗な手で寝た。次の日、その子は学校に来なかった。試合が終わって、男バスのキャプテンから聞いた。その子は来る途中に事故にあったらしい。ちょうどそこを通った女バスに確かめようとしたら、キャプテンに怒られた。なんで怒られたのかは分からなかった。自転車の事故なら大した怪我にはならないんじゃないかと思った。学校に帰ると、体育館に集められて、その子が死んだって学年主任が変な声で話した。あちこちから啜り泣く声が聞こえたけど、1番前に座ってたから後ろを見ると怒られそうで、「瑠花死んだ」って文を頭の中で反芻した。みんな泣いてて、死ぬって悲しい事なんだってわかった。帰り道、みんなと逆方向に1人歩いて帰ってる途中、涙は出なかった。瑠花が死んだことを文で理解はしたけど、実感は湧かなかった。昨日会ったばっかりだったし、夏休みのほうが会わない期間が長いこともあった。「死にました」の一言で死は理解できるものなのか、理解できてない自分が不安になった。何日か経って、お通夜に参加できると言われた。お通夜で遺影と動画を見て、もう二度と遺影の笑顔が見れないことがわかった。新人戦を迎えた朝、ユニフォームとバッシュ、水筒、お弁当、机の筆箱からマッキーだけ取り出して学校へ向かう彼女はいつもより少しだけ力強く「行って来ます」をしたんだろう。眠さに勝る興奮に胸を膨らませて学校に向かっていたんだろう。お通夜とお葬式で、大人たちが「なんで彼女が」と話していたのをただ聞いていた。恋人からもらったハンカチは鼻血で染まって、彼女の事故が重なり泣いた。それからしばらく塾には行かなかった。
中学生最後の大会は骨折でベンチだった。他人事のようにボールを眺めているのは新鮮で、修学旅行で行った伏見稲荷神社の千本鳥居を思い出した。その頃からまた塾にも通い始めて、また宿題はまっさらだった。卒業するとまた中学校の思い出と友達が無くなってしまうんじゃないかと怖くなって、卒業式の前の日に泣いた。高校生になった。新しい場所で新しい友達を作るのはやっぱり怖くて、自分がどんな人なのかわからなくなってしまうあの嫌な感じが筑紫と一緒に顔を出した。筑紫がいなくなる頃には、毎日一緒に登校する友達も、部活の仲間とも打ち解けていた。2年生になるとまた新しい友達もできて、この人たちがいれば誰に嫌われても構わないと思い始めて、恋人には冷たくなった。朝の登校はクラスによって時間が変わるから、1人で行くことが多くなった。修学旅行も誕生日も終わって、もうすぐ冬休みだって頃に大きいじいちゃんが死んだ。別に仲良かったわけでもないから悲しくはなかったけど、葬式に行ったら親戚だと思われる人が初対面の俺の前でもわんわん泣くから、じいちゃんは愛されていたんだと思った。「他の誰かが死んじゃえばよかったのに」なんて言っちゃダメだよな、と思った。まだ幼稚園に入りたての従姉妹が燃やされる直前のじいちゃんに笑った。あの子は何歳まで生きるんだろうか。始まりたての命と終わりたての命の間、俺はどんな命であればいいのだろうか。じいちゃんが燃えている間の待ち時間にそんなことを考えた。残った骨はカラカラとしていて、割られて壺に入った。骨を割るのは案外心地よかったけど、悲しんでいる親戚にやらせるのは鬼畜ことなんじゃないのって思った。粉に成ったおじいちゃんは自分の子どもに抱えられてお墓に入っていった。どうして骨を大事にするのだろうか。その粉はおじいちゃんと呼んでいいのだろうか。そもそも焼く前のアレはおじいちゃんなのか。もう動かない、毛だけが成長した肉の塊をおじいちゃんと呼んでいいのかわからなかった。帰りの車の中では答えは出なかった。ただおじいちゃんの伸びきった白いヒゲは、水族館のアザラシみたいで可愛いなって思った。
寒い朝、自転車で学校に行っていた。マフラーを口元まで覆い上げたが、自慢の大きな耳は隠れなかった。お昼のテレビで紹介されたオムライスが売りの洋食屋の前の信号機で部活の友達が赤信号を睨んでいた。突然の加勢に赤信号が逃げ出し2人で並んで自転車を漕いでいると、車道の対向車線たちの間にある安全地帯に毛玉が落ちていた。彼はその毛玉が猫だと言った。猫好きの彼はすぐ異変に気づいて、怪我してるんじゃないかと言った。猫が車と接触したら死ぬだろう。人間だってすぐ死ぬんだから。と言ったが、彼の心配そうな顔に気付けたので自転車を止めて見に行った。彼の予想通り毛玉の正体は猫だったが、どこかを負傷している様子で、口から血を吐いた跡があった。2人でなんとかしようと言って、彼は猫のご飯を買いに行った。俺は恋人に選んでもらったマフラーでその猫を包み、とりあえず電話で学校に遅刻する旨を伝えた。猫は消えかけの命の蝋燭をものともしない勢いで威嚇してきたが、マフラーの暖かさにだんだん慣れてきたのか、それとも自身の死を悟ったのか静かになった。彼がキャットフードをカゴに入れて、いや入れてというよりかは、カゴにギリギリ引っかかってるような状態で帰ってきた。彼の焦りと優しさも虚しく猫はご飯を食べなかった。彼は普段そんなに焦らないマイペースな人間で、良くも悪くも人に合わせない。自分のタイミングで自分なりの答えを出す人で、俺は彼のそんなところを尊敬していたし好きだったから、119番に電話しようとするほど焦っている彼を見て驚いた。かと言う俺も正しい対応がわからなかったから、とりあえず警察に電話をした。事情を説明したら、なんとも気怠げな対応で、すぐ行きますと言っていたくせにここから自転車で10分の距離にある警察署からパトカーで20分もかけて来た正義の執行官に腹が立った。慌てる様子もなく車から降りてきた婦警に事情を説明し、どうすれば良いか聞いた。婦警は「飼い猫なら紛失届があれば探せるけど野良猫なら誰の所有物でもないのでどうしようもないですね。こちらで保護して保健所に連れて行くことは可能です」と冷たく言い放った。実際は冷たくなかったかもしれないが、その目からは「こんな朝に野良猫の事故程度の問題で呼び出すなよ」と言いたげな様子がうかがえた。彼がどう思ったかはわからないが、俺は「わかりました。帰ってもらって結構です」とだけ言い、返事も待たずに母に電話し、猫を動物病院に連れて行くように頼んだ。母との通話が終わり、彼と一緒に待った。会ったのは今日が初めての猫に、確かな愛情があった。ニュースで他人の死を知るときはなんとも思わないけど、目の前で命が失われるのは辛いことなんだと実感した。母が来て現場を預かってくれたので、俺と彼は学校に行った。首が寒かったが、辛くはなかった。教室では1時間目が始まっていて、中に入るのにどことなく照れ臭かった。だけどみんなは思ったより気にしてなくて、彼と俺以外誰も猫を助けなかったのを思い出した。
バスケ部の立派な先輩たちも感動的な引退をして、また1年後に俺たちも後を追った。キャプテンが1年前に「自分たちの引退では泣かないもんだ」と言っていたのを思い出した。幸い最低限の進学校に通っていたから、夏休みごろに友達がオープンキャンパスがあると言っていた大学に行ってみて、あまり深く考えずにそこに決めた。午前中に用事が終わったから、午後は横浜でぶらついていた。梅の花が満開になる頃には合格した人も受験に失敗した人もいて、みなそれぞれの路に進んで行った。迷子になっても戻れないから人生は厳しいと思った。一人暮らしの準備を始めて、そろそろ引っ越しかという3月26日、大叔父の訃報があった。ガンだかなんだか知らないけど、人が死んだと聞くとイライラしてくる。そっとしといてあげればいいのにって思う。自分が死んだら誰も俺の話をしないで、俺のことを思い出す人は思い出せばいいと思った。東京では感染症があるらしいから電車ではマスクをつけた。初めてのスーツのネクタイは黒で、自分の晴れ着は出鼻を挫かれたことを拗ねているのか窮屈だった。地下鉄の駅で祖父母と待ち合わせをして葬儀場に向かった。こじんまりとしたビルの5階にあるそこは、大叔父の家族と親しい友人だけが集められて、正月の親戚の集いみたいに居心地が悪かった。意味もわからないお経が終わり、大叔父の衣装を変えるからとお坊さんが言って、大人たちが数人ずつ呼ばれ大叔父と最後のお別れをしに前に出た。大叔父の母、つまり俺の曽祖母は齢90を超えてまだ元気だったが、式には来なかった。大叔父の兄妹たちが、彼らの母にショックを与えないように計らったことらしい。最初は大叔父の兄である俺の祖父が前に出ていった。大叔父の友人たちに軽くお辞儀をして弟の死装束を直す姿に、隣にいた姉と自分を重ねた。少しして俺と姉が呼ばれた。死化粧のされた安らかな寝顔を手の届く距離で見たとき、この人はもう生きてないんだとわかった。服を直すために右手に触れた。もう春先だというのに真冬の指先のような温度の大叔父に触れた瞬間、彼との思い出がよぎって涙が抑えられなかった。俺は小さい頃から大叔父によく懐いていて、親戚一同で行った箱根旅行のアルバムでは、ずっと大叔父から離れようとしなかった。彼は穏やかな人だった。小学生の俺にべったりとへばりつかれていたときも、「おいおい」と照れ笑いをするのだった。彼が内心俺のことをどう思っていたのかもう知る余地もないが、俺はそんな彼のことが大好きだった。数年合わなかったことで無くなってしまったと思っていた愛情。死んでしまったと聞いた時なんとも思わなかったことで失くしてしまったと思っていた感情は、確かにそこにあった。時間は愛情を忘れさせるけど、確かにそこにあるものだった。帰りの特急の中で、昔愛せていた人たちを思い返した。友達、恋人、そして父。今はもう愛情なんてないと思っていた彼らに対してもう一度自分の中で向き合うべきだと思った。最寄り駅に着く頃には暖かいお茶は冷たくなっていた。
常磐線勝田発品川行き。ローカル線の反対側のベンチで電車を待っている。電車に乗り込み、聞き慣れた音楽とアナウンスを合図に扉が閉まる。水戸に停車して、数人降りて、それより多い数の人が乗り込んでくる。次の駅でもまた数人降りて、数人乗った。目的地までそんなことを繰り返していく。人生に似ている。出会う人、別れる人。また出会うこともあるかもしれない人たち。別れた人たちは今この車両にはいないけれど、彼らがこの車両にいたことは真実であり、変わることのない現実である。今隣に座っている人は、いつか降りた誰かの席に座っている。音楽を止めて、車内の音に耳を傾ける。レールとタイヤの音のほかに、カップルの話し声、座席で落ち着かない子供を宥める若い母親。小説を捲る音。まだ戸塚には着かない。