欺瞞も正直もどっちもキモい──『ナミビアの砂漠』感想走り書き
「現代を生きる女性の等身大の肖像〈ポートレート〉」みたいな宣伝文句がいろんなところで謳われていて、確か予告編でも「今まで描かれなかった令和の女のリアル」みたいなことを言っていた気がするけれど、これはすごく変だ。だって普通いないでしょ、あんなむちゃくちゃな人。あれが令和の女性のポートレートだって言われて、本物の令和の女性は自分ごとに置き換えられるんだろうか。
一方で山中瑶子監督自身は「言っちゃいけないことなんて何もないんだよっていうメッセージ」みたいに言っていたと思う。これはなんとなくしっくりくる。カナが心理カウンセリングを受けるシーンのカウンセラーの台詞で「人って心の中だけなら何を思うのも自由だと思うんです」みたいのがあったけれど、山中監督はこれをさらにもう一歩進めたかったのかなあと思う。「思うのは自由」だけじゃなくて、「言うのも自由」ってところまで。
でもこれって人間が集団の中で共生していくための秩序維持の観点から考えると、当たり前だけどかなり危うい考え方だ。周りの迷惑考えないで言いたいこと全部ぶちまけちゃうカナは実際めちゃくちゃヤなやつで、カナ役の河合優実さんは「自分勝手だけど憎めないキャラにしたい」って言ってたみたいだけど残念ながらそれも達成できてないんじゃないかと思えるくらいには、いち鑑賞者にすぎない僕はスクリーン上の画素にすぎない女にずっと腹が立っていた(無論これは男性的な目線への無意識的立脚もあるだろうし、あるいは大人的目線においてもそうだろう。このこと自体鑑賞行為としてきわめて偏っておりまた暴力的だということには自覚的でいるつもりである。そしてこれらが畢竟ただの言い訳でしかないということにも。でも僕はやっぱり腹が立っていた)。
ただ一方で、ぼくはハヤシにもめちゃくちゃ腹が立っていた。「僕たちならお互いを高め合える関係になれると思う」とか「2人で溶け合うみたいになるのが怖くて抗ってた」とかそれっぽい言葉で誤魔化してるだけで、お前は結局ぼくと同じでカナに腹が立っていたんだろ。ほれみろ、結局我慢できなくて声を荒げるじゃないか。お前が一因でカナは一時的に不随の身体になったのに、結局カナと殴り合うのが日常になってる。そりゃもちろんふっかけてるのはカナのほうなわけだけどさ。でも最後はお前も喧嘩するのにやぶさかじゃなくなってるじゃんか。とまあ、大方こんな思いで彼のことを見ていた。
衝動を抑えられなくて言いたいこと全部言っちゃう女と、できもしないくせにそれっぽい言葉で取り繕って言いたいこと全然言わない男の、ヤなやつしか出てこないとんでもないブッ飛び映画だ。これがほんとうにリアルなんだろうかと、(作品自体ではなく宣伝や批評の数多に対して)改めて思う。男と女って付き合うとああなるの?誰か教えてください。
たぶん多くの人って、もっと衝動性とかネガティブな感情とかを抑えて、表に出さないようにするという社会性を発揮して生きている。つまり端的にいうと、ふつう人はもっと欺瞞的なのだ。カナの社会不適合性が本人の性格と未熟さゆえのものなのか、それとも生育環境によるものなのか、あるいは彼女は何らかの精神疾患患者なのか、そこは結局明かされなかったわけだけど、意識的にであれ無意識であれ彼女が憎んでいたのはたぶんこの欺瞞であって、カウンセラーの言葉に反論するならば「思うのは自由なのに言うのは自由じゃないの?」ってなわけだ。じゃあ僕たちはカナみたいにふるまっていいかっていうと、むろんそれは難しいわけだけど。でも言いたいことは心の中で思うだけにして押し殺すくらいなら、思うのすらもダメにされたほうがまだ人間は正直でいい、と思うのは欺瞞を憎む実存の原石みたいなものなのかもしれない。ちなみに、ぼくは個人的にはこういう個人の実存の話を社会正義の文脈で読んだり批評したくはないなと思うのだけど。
だったら、この映画の中でむしろリアルだったのは心理カウンセラーとかロン毛の元カレとか脱毛サロンにグループで来た女子大生とかだったと思う。「思うのは自由」という優しい言葉で感情の発露をむしろ抑圧したり、彼女が傷つくだろうとわかっていながら(もっとも実際にはカナは男の過ちを嘲りながら男を乗り換える口実に仕立て上げたわけだけど)ひとりで咎を背負って生きていくのが怖くて自己免罪のために身勝手に罪を告白したり、高校生の頃に脱毛を許してくれなかった親の価値観は古くて嫌だみたいに言いながらキッズ脱毛への矛盾した嫌悪は笑いで包み隠したり、ああいう柔和で穏健な顔をしたグロテスクな自己欺瞞の描写ははっきり言ってかなりエグいものがあった。し、それってすごくリアルだなあと思った。
ところで「ナミビアの砂漠」というタイトルは自己疎外のメタファーだと思うけれど、だとしたら救われるべき人間というのは救いたい形をしていないものだなと、そういうグロさもこの映画は持ち合わせている。これは確か山中監督が何かのインタビューで答えていたと思うのだけど、カナは恋人とか友達とか自分の近くにいる人のことはないがしろにするけれど、他方で精神科医やカウンセラーには一定話を聞く態度を示していて、そういう少し遠くにいる人たちにむしろちょっとだけ心を開いている。自分の住む世界に対してやりきれない思いとか、周囲を憎む自分自身をも憎む気持ちとかをいっぱいいっぱいに抱えて生きるなかで、自分の居場所がどこにもないような根なし草の感覚。もしかしたらカナが中国人とのハーフだという設定も関係あるのかもしれないけれど、そういう周囲の世界から疎外されている状況を、カナがこの先も接することのないであろう何千kmも離れた国の映像をとおして、行動範囲の狭いカナの生活描写のなかに落とし込んでいたのはきわめて秀逸だったと思う。
ナミビアの砂漠の映像をスマホで眺めるのは、カナにとって実存を回復させるためのささやかな抵抗だった。ただし、あれだけがカナにとっての有用な抵抗の手段だったのだとしたら、それはなんと皮肉なことだろう。
少なくともいち鑑賞者の僕にとってカナはヤなやつだったけれど、ああいう自分勝手なふるまいが彼女自身にとってほんとうの意味で「自由」だったのかという気持ちも実はあった。双極性障害にしろ境界性パーソナリティ障害にしろ、自分の感情をうまくコントロールできず結果的に周囲に迷惑をかけてしまうという生きづらさはおおぜいの患者が抱えるものだと思う。カナがそういった疾患に該当するかどうかという話は僕にはできないしそういうのは野暮だとも思うけれど、カナが自らの意思で精神科の診察やカウンセリングを受けたのは、彼女自身が自分を変えたい、あるいは少なくとも自分のことをより深く知りたいという思いを持っていることの証左だ。とするなら彼女の粗暴なふるまいを彼女自身は「やりたくてやっているわけではない」可能性がおおいにあるわけで、暴力的で社会不適合的なカナの生き様の起因を社会による人間疎外みたいな話につなげていくならば、やっぱり本当に救われるべき人間は救いたいかたちをしていないものなのだと、この映画は言おうとしていたのかもしれない。
ただこの話もまた実存の問題を社会正義の文脈で語ろうとするものであり、そういう方向性の議論は僕には残念ながらあまり魅力的に映らないのだ。それに正直に言って書くのに疲れてきたので、今回はこれくらいにしようと思う。
最後にあんまり関係ない感想をひとつ添えておく。ラストのラスト、海外にしかいなさそうなシカみたいな動物(ガゼル?)が砂漠で水を飲んでいるシーンが少しだけ流れるけれど、あれはキューブリックの『2001年宇宙の旅』を意識しているんだろうか。もしそうだとしたら面白い考察に繋がりそうだけど、残念ながら僕は『2001年宇宙の旅』をちゃんと最後までは見たことがなくてどういう話なのかも全然知らないので、挫折したのがもったいなかったなあと思ったりしたりしました。はい。あの映画難しいうえに長いんだよねぇ。