人生の賞味期限
$${\textit{「人生の賞味期限のことを考えてたんだ。」}}$$
ヨルシカ 、n-bunaさんによる日記帳と、そしてノーチラスのMVで言及される一節。そして私の友人がいたく気に入ったのかよく口にするフレーズ。
最近この言葉がよく脳裏にちらつく。
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私の人生はいつまで有効か?いつまで味がするか?
あとどのくらい私はこれを美味しく使えるだろうか。
ここで言う「私」とは創作する者としての自分か、それとも別の何かか?
感情の整理
どうも私は感情の整理に時間がかかるタイプらしく、たった一つの懸念や悲しみを引き出しに仕舞うまでにたくさん言葉と時間を使うし、それをあまり悪いこととは思っていない。いないけどただ残念なことにそんなことをするのにこの賞味期限は短過ぎる。
それに「たった一つの」と表現するには、それぞれの悲しみは重すぎたりもする。本筋からは外れますが、刹那的で重い「悲しみ」を、慢性的で軽い「哀しみ」へ変換する作業のことを感情の整理と呼ぶと思います。
ごちゃごちゃ言ってるが要は要領が悪くて人生が足りないということです。
"人生"の終着駅
良い歳の取り方をしたい、と昔の私は言ったような気がする。
ただどうしようもない現実として馬鹿でも歳は喰えて、私はそれ相応の精神的成長を実感しないままずるずるとここまで来ている。自分の誕生日が嫌いで伏せている理由もこの辺りにある。
冒頭のヨルシカの手帳ではこうも書かれている。
$${\textit{「人生の価値は、終わり方にある。」}}$$
これは"人生の賞味期限"という言葉を聞いたエイミーが辿り着いた思想という形式で(恐らくは)記載されており、結果としてエルマが彼を追い詰めてしまった言葉としても読める。
n-bunaさんが創作、理想、諦観、そのどの感情でこれらを書いたのか、はたまた商業的な思惑なのかわかるはずもないが、それでもぼんやりと思ってしまう。そして色々と諦めながらも少しの希望を持ってまた願ってしまうのです。
良い歳の取り方をしたい、
そして終わり方をしたいと。