見出し画像

ラストチャンス

2006年、夏

さかのぼること15年、2006年の夏。43歳の島朗は王位戦挑戦者決定戦に臨んだ。これがタイトル挑戦のラストチャンスかもしれない。自分は勝率よりも勝負強さで生き残ってきた棋士だ。必ずものにしてみせる。

しかしその願いは対戦相手の剛腕によって打ち砕かれた。36歳の佐藤康光。かつて「島研」で共に研鑽を積み、いずれ将棋界を背負って立つ存在になると確信した男。この年度は、棋聖戦5連覇で永世棋聖の称号を獲得、史上初のタイトル戦5連続挑戦、棋王獲得、JT杯将棋日本シリーズ及びNHK杯優勝。最多対局(86局)に最多勝(57勝)、さらには最優秀棋士賞と升田幸三賞を同時受賞し、キャリアの頂点となる一年であった。

島はこの一局にかけた思いと、佐藤に敗れてなおさわやかな心境に至った経過を「敗戦の弁」と題して綴った(『将棋世界』2006年8月号)。そして戦前の予感どおり、この一局が島にとって最後の挑戦者決定戦となっている。

あれから15年の月日が流れた。佐藤も秋には52歳になる。A級の座を維持しているものの、43歳で王将を失って以来、タイトル戦への出場が途絶えている。無理もない。緊急登板のごとく将棋連盟会長に就任し、以後何年ものあいだ多忙な日々を送っているのだ。ライバルの森内俊之はこう述べる。

「いま、彼が会長として将棋連盟を引っ張っていることに感謝しています。ですが彼はやはり棋士なんです。世の中を見渡せば、彼より会長として適任な方はたくさんいるでしょう。でも、佐藤康光の将棋は彼にしか指せません。彼が将棋に注力できるような環境をつくってもらって、準備段階から本気の将棋をもう一度見たいという気持ちは強くあります」

(大川慎太郎『証言 羽生世代』講談社現代新書、2020。307頁)

だが2021年7月、佐藤はようやく挑戦者決定戦までたどり着いた。久々のタイトル挑戦まであと1勝。これを逃すわけにはいかない。第69期王座戦挑戦者決定戦は、佐藤にとってのラストチャンスなのかもしれない。対局を見守るだけの私も、心が引き締まった。

荒れたトーナメント

今期の王座戦挑戦者決定トーナメントは荒れた。言わずと知れた「四強」のうち、永瀬王座を除く3人が名を連ねたものの、次々と敗れ去ったのである。

デン!

王座戦トーナメント表(簡略)

デデン!

藤井飯島

「僕の名はエイジ。地球は狙われている!」


デデデン!

飯島

といった具合である。そして挑戦者決定戦に勝ち残ったのが佐藤康光と木村一基であった。

王座戦決勝

佐藤の将棋はいずれも内容がよく、持ち前の中終盤力で相手を圧倒していた。特に素晴らしかったのが準々決勝の三枚堂七段戦。中盤、手拍子で銀を取ってしまいたくなるところ、取らずに▲3七桂と下から駒を使った。まさに本筋の一手。以下この桂馬が4五に跳ね出す形となり、すべての駒を捌いての快勝となった。

対する木村も強い。どの将棋も先にリードを奪ってそのまま押し切るという安定感のある勝ち方であった。

準決勝を突破した木村は「最後のチャンスでしょう」と語った。佐藤も51歳だが木村も48歳である。15年前の島朗と同じ心境なのだろう。とはいえ木村の場合、40代に入ってから3度もタイトルに挑戦しており、その都度「最後のチャンス」だと言っていた経緯がある。これではまるで閉店セール商法、千駄ヶ谷の受け師ならぬ詐欺師と言われそうだが、棋力が衰えないのだから仕方がない。「将棋の強いおじさん」は今回もファンから熱烈な声援を受けていた。

七転八起

第69期王座戦挑戦者決定戦は7月19日に行われた。ABEMAで中継されたほか、王座戦中継サイト棋譜中継もされたので、棋譜はそちらで追っていただきたい。

本局は先手佐藤の矢倉志向に後手木村が雁木で対抗。先手は右玉に組み替えたがその分手損し、後手に中央の位を確保された。昼食休憩の時点で後手木村の作戦勝ちといってよい展開であった。

昼休明け、佐藤は無理気味に仕掛けていく。木村は自然に面倒を見て中段の勢力をキープし、歩得を重ねる。このまま完封かと思われたが、佐藤は筋悪を厭わず食らいつき、勝負型に持ち込む。しぶとい攻めにさすがの「受け師」木村も受け切り勝ちを断念し、攻め合いに出た。途中、角のただ捨てのような派手な応酬もあって迎えた以下の局面。

画像7

木村は△3七角と打ち込んだ。二枚換えの駒損になるが、取った飛車を打ち込んで敵陣を荒らすことができれば勝ちやすい。アマチュア必修の格言「将棋は飛車」である。以下は▲同飛、△同桂成、▲同玉、△2九飛、▲3八銀、△1九飛成と進んで成功。先手玉は粘りがきかない形となった。

木村の132手目△2二玉に佐藤は「負けました」とはっきり発声して投了を告げた。51歳の将棋連盟会長が若き王座に挑戦、という筋書きは実現しなかった。

対局室に記者が入り、インタビューが始まる。木村は「(永瀬王座は)充実している方なので、精いっぱい体調を整えて頑張りたい」と述べた。また、後の記者会見ではこれまで何度も「最後のチャンス」と口にしていたことについて問われ、「もうそんなに(チャンスは)ないとは思ってやっていますので、常に最後だと思っています。ただそのわりにはいい方に結果が向いていますので。嘘をついているわけじゃないのですけれど、私は常に最後のチャンスのつもりでやっています」と答えた。多くの木村ファンがこの晩、歓喜して極上のビールを飲んだ。

他方、敗者佐藤のコメントは当然ながら控えめであった。ところが耳を澄ませて聞いていると、いかにも佐藤らしい受け答えだったのである。

「自信はあるのですけれど、結果につながらない。久々にチャンスかなと思いましたが」
「年はかなりいってますけれど、強くなれるとは思っているので。ミスをなくすことが課題ですかね」

私は佐藤の話を聞いて、今さら気づいたのだった。ラストチャンスだなんて、まったく思っていない! 佐藤康光の自信は揺らいでいない。まだ強くなれると思っている。

そういえば、と思い出して『証言 羽生世代』にある佐藤のインタビューを読み返してみた。このように書いてあった。

「大事なのは次の3つです。流行に毒されないこと。自分の経験をうまく生かすこと。自分に自信を持ち続けること」

(大川慎太郎『証言 羽生世代』講談社現代新書、2020。271頁)

流行に毒されないこと。

自分の経験をうまく生かすこと。自分に自信を持ち続けること。

木村の揮毫が「百折不撓」なら、佐藤の揮毫は「七転八起」である。何度失敗しようが関係ない。そのたびに起き上ればよい。

通算1063勝661敗。佐藤康光は揺るがない。次のチャンスこそ逃さない。そして明日もきっと、1秒間に1億と3手を読んでいる。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?