春が過ぎ、祈りがのこった
ただ過ぎに過ぐるもの。
予測できぬが世界と言えど、ついつい思う、いつ終わるの〜。
1歳なりたてみぃちゃん。
早速保育園の洗礼、恒例イベント。
高熱、突発疑い、早退、お休み、様子見でまたお休み。
書いてみると、あらあらサラリとした質感。
なんてことない顔した文面。
けれどこの春、私は泣きそうだった。
「つらい、逃げたい、休みたい」と正直に口にした。
言うと少しは楽になるけど、当然解決には至らない。
自分のご機嫌とりは得意と思っていたのに、
ひとりの時間がなくなるほどに消えていく余裕。
得意と思えていたのは、環境のおかげだった。
状況が落ち着いた今なら言える。
「時々休みつつ、自分のペースでね」
「時間が中断されるのも、実は幸せなことなのよ」
今なら、何とでも。
されどされど。
あの時間を生きるのは大変だ。例えば、娘が昼寝をしたら、物理的にはわたし時間ができる。
でも、疲れすぎているから一緒に横になる。
手を添えると安心して寝てくれるし。
結局四六時中ふたりでいることになる。
娘のことは大好き。もちろん。
でも大好きな人とも距離が必要。
いつ終わるかわからない看病。
不機嫌な赤ちゃんとのコミュニケーション。
気持ちはぐらぐら揺らぐし、心配だし、眠たいし、明日もこんな日が続くかと思うと絶望してしまうのだった。
元気になって1週間。
今となれば、大げさだったなぁ、と思う。
終わらないものはないのに。
でも、どうしようもない行き暮れの時間が人生にはあるのだと、改めて知る。
ただ過ぎていく、ざわざわとしたあの時間から、仕事ができる幸せを知る。
思うように掃除をして、料理をして、生活ができる喜びを知る。
幸福の意味が、くっきりと現れる。
だから、できることをできるときに。
したいことを何よりも先にする。
いつまた過ぎに過ぐる日がくるかわからない。
その思いが、時間を大切にさせてくれる。
誰かに頼ることを知る。
病児保育の制度には心が救われた。
家族にも甘えた。
友だちに弱音を聞いてもらったりもした。
そうして自分を保つことができた。
春が過ぎ、祈りがのこった。
暗い雲に迷い込むとき
降り注ぐひかりに気づけますよう
きゅう、と胸が縮むとき
「会いたい」と素直に言えますよう
果てなき苦しみを思うとき
目の前の景色がうつくしくありますよう
私を救うのは
あかるい色、絵、言葉、家族写真
庭の花、おいしい珈琲、心地よい空間
日々作り上げる「内」こそが
暗雲の中にいる私を励ます
家の中に祈りを散りばめる
いつか必要なときにこの世のあたたかさを思い出せるように