最高の話し方指南
「オリンピアンもきついな。たったいま試合が終わったばかりで、もう次のオリンピックの話をさせられるんだから。
自分なんか、満腹の時に次の食事のことを聞かれただけで腹が立つのに」
ある人がこんな意見を書いていましたが、確かに連日のオリンピックの報道では、そんな場面をよく見かけます。
見事に勝ちを収めた選手も、惜しくも叶わなかった選手も、インタビュアーから矢継ぎ早に質問をされ、中には「次こそは違う色のメダルを」「4年後にもっと強くなって戻って来たい」などの抱負を語る人もいます。
今しがたの試合の余韻に浸ることも許されず、早くも未来を見据え、前向きな意見を口にしなければならないのは、かなり大変なことかもしれません。
しかもそこで語られる言葉はどれも、たとえ言葉足らずや途切れがち、興奮した饒舌さや繰り返しの多さで聞き辛さがあったとしても、独特の魅力を備え、耳を奪われることが多いのです。
もし自分も同じような立場に立たされたなら、と想像すると、とてもそんな気の利いたことは言えそうにありません。
応援してくれる人たちやどこかの企業のため"テンプレ通り"のことは口にできても、それ以上のことをすらすらと話すのは難しそうです。
そもそも私は、こうして文章を綴ることは苦にならなくとも、誰かに面と向かって気持ちを告げたり、周囲に自分の話をするのは苦手なタイプです。
特に子ども時代は絶望的で、中学生の頃は、いま思うと無口というより確実に場面緘黙症でした。
この場面緘黙症という精神疾患は若年者に多く見られ、罹患者はおよそ500人に一人の割合だというデータもあります。
"特定の場所や状況で口がきけなくなる"というのがその症例で、文字通り全く喋れなくなるのです。
気難しさ、あるいは人見知りのために黙っているのと違い、どれだけその環境に慣れたとしても、状況はまるで変わりません。
当人に"話したい"という意志があったとしても、どうしても"話せない"ままです。
中学生の頃、私は持病のために欠席しがちで、たまさか教室に足を踏み入れても、友人は一人もいませんでした。
そのため学校にいる間、ずっと一人で過ごすのは慣れっこでしたが、時にはどうしても会話をする必要にも迫られます。
事務的に何かを尋ねられたり、気立ての良いクラスメイトが、何気なくあいさつをしてくれたりという時です。
そんな場合は思考停止どころか頭の中では目まぐるしく思考が働き、どうにか返事をしなければ、という焦りに苛まれます。
「そのプリントはもう受け取ってると思う」
「おはよう」
こんな程度の、難しくもない一言を口にすれば十分だとわかっているのに、その簡単な一言がどうしても出てきません。
心の内ではいくら返事をしたいと思っていても、決して声にならないのです。
当然、相手は不審げな表情を浮かべますし、もう一度同じ言葉を繰り返されたり、答えを迫られる場合もあります。
「プリント。いるの?いらないの?どっち?」
こんな聞き方をされるとどうしょうもなく、相手の顔を見つめるだけで、いつまでも黙っているよりありません。
「もういい。いらないってこと?」
苛立ちを含んだこんな物言いの方がまだありがたく、うなずくことはできるため、無言で最低限の返事もできます。
おはようと声をかけてくれた奇特なクラスメイトには、あいさつを返せず、きっと気を悪くさせたに違いない、と落ち込みましたが。
おそらく周りが思う以上に、私を奇妙な人間だと感じていたのは私自身です。
それでも相談する相手はおらず、事の異常さに気づいてくれる人もいませんでした。
その当時、身勝手な欠損だと信じていた自分自身の状態が、どうしようもない精神疾患のひとつだとわかっていたなら、どれだけ救われただだろうかと思います。
それが解消した経緯の詳細はまた別の機会に譲るとして、ともかく私はどうにか場所や相手を選ばず、自由に話ができるようになりました。
それでも、ひどい緊張状態やストレスにさらされるなど"追い詰められる"シチュエーションでは、言葉に詰まったり黙り込んでしまうところが残っているため、未だ完全な克服には至っていないのかもしれません。
だからこそ余計に、世界中の人々が見守るインタビューで、堂々と受け応えをするオリンピックの選手たちが、ひときわ頼もしく秀でた人たちに映るのです。
私がそんな檜舞台に立つ機会はないでしょうが、もしそうなった際、自分の言葉できちんと胸中を伝えられるかどうか。
考えただけで腰が引けそうになる一方で、その場に立つために払った犠牲、積み重ねた努力が後押しとなり、それを可能にしてくれるかもしれないという思いもあります。
その時には、きっと、何かを伝えたい、という気持ちが際限なく溢れてくるだろうからです。
そんな強い気持ちから発する言葉は、たとえどれほどたどたどしくとも、確実に人の心を打つはずです。
それはいかに上手な話し方より、周囲に多くを伝えるのではないでしょうか。
そう考えると、滑らかで上手な話し方の訓練以上に、会話にとって重要なものは確実に存在します。
たとえ雛壇でメディアのマイクに向かって語る機会はなくとも、真に相手の心を打つ話し方とはどういうものか、四年に一度の大会に賭ける選手たちに、大きなヒントをもらっています。