想像力は私たちを最も遠くへ運ぶ乗り物である・2
旅をすることは生きることである。
── ハンス・クリスチャン・アンデルセン
どなたが話していたのだったか、興味深い話をお聞きしました。
その人は父親を早くに亡くし、母ひとり子ひとりで育ってきました。
母親はずいぶんと苦労をし、いつも複数の仕事を掛け持ちしていたそうです。
それでも愚痴もこぼさず、恨みごとを言うでもない気丈さを、その人は心から尊敬していました。
その人の人生には、父親の死以外にも多くの思いがけないことが起こり、ようやく生活が安定し、親孝行が出来るようになるには長い時間がかかりました。
その人自身も中年期に差し掛かり、母親はすでに高齢者と呼ばれる年齢です。
けれども何か特別な贈り物をと考えた時、迷わず選んだのはニューヨーク旅行でした。
なぜなら母親は昔から外国好きで、特にニューヨークの街や文化に関心を持ち、訪れる予定が無くとも地図を求め、訪問先のリストを作り、あらゆる場所を調べ尽くしていたからです。
実際にニューヨークの街に降り立った母親の様子は、まるで生粋のニューヨーカーそのものだったといいます。
何せ数十年間も、頭の中でくまなく街の中を歩き周ってきたのです。
大通りだけでなくどんな小路の名前も熟知し、お目当ての雑貨店へ行くにはメトロのどの出口を出て、どの角を曲がればいいか、少しの迷いもありません。
観光客に美術館のチケットの買い方も教えてあげられましたし、公園のベンチで隣り合った人には気軽に話しかけ、すぐに友だちになってしまいます。
地元の人しか知らないような隠れ家レストランで食事をし、オーナーとすっかり仲良くなって、旅の終わりにはお別れのパーティまで開いてもらいました。
これまで見たことがないほど生き生きとした母親のそんな姿に、その人は目を見張ったそうです。
帰りの飛行機で母親は旅のお礼を繰り返しつつ、現実のニューヨークは"空想と同じくらい"素晴らしかった、と語りました。
その言葉に、その人はそもそも空想と現実を分ける必要もないのかもしれない、と考え始めます。
なぜなら空想は充分に現実の役に立ってくれ、まるで現実と地続きであるかのようですらあったからです。
空想の中でニューヨークを熟知し、街に親しんでいた母親は、現実にその地での滞在に何の違和感も感じておらず、どちらのニューヨークの街も"真実"として受け止めているようでした。
幸福なニューヨーク旅行を終えて日本へ帰国してからも、母親の旅はまだ続いています。
相変わらずイメージの中の散策を楽しみ、新たに見知ったリアルな街の記憶が付け足された、特別で豊かな世界を生きているのです。
レストランのオーナーはじめ、知り合った人々との連絡を怠らず、どちらかが互いの国を訪ねた際は、ぜひ一緒に出かけて楽しもうという約束まで交わしています。
一つに溶け合った空想と現実の旅は、ここへ来てますます素晴らしい様相を醸しているのです。
この話は、こだわりのない自由な精神さえあれば、自室に居ながらにしてどこへでも赴けるという、とてもわかりやすい一例です。
良質な読書や映画鑑賞と同じように、心の中にあって触れられない世界もまた、ともすれば現実さながらのリアリティを備え、感覚を目覚めさせ、感情を揺さぶります。
私はそこに、神秘的な超越を感じるのです。
身体の移動を伴ったものだけを旅と呼ぶのは、あまりに世界を狭め、物事を矮小化してつまらなくするやり方です。
たとえ自室から出ることすら叶わなくとも、精神を遠くへやり、その経験を真摯に受け入れるなら、それらはすべからく"旅"と呼ばれるべきです。
旅とは、日常を離れて別の文化圏へ分け入ってゆき、新たなものと出会うことを指すのですから。
どのような形であれそれが果たされ、いくばくかの邂逅に恵まれたなら、それはまさしく旅そのものです。
そこには現実や非現実という、いかなる境界も優劣も存在しません。
頭の中で生き生きと繰り広げられるイマジネーションは、私たちを際限なく遠くへ運ぶばかりか、つきせぬ創造の源ともなり得ます。
所詮は夢や空想と軽んじる必要もなく、そこでは望み通りにどこへでも行き、誰にでも会え、あらゆることが可能になります。
そして新たな発見をし、思いもかけない自分に出会い、成長を遂げるかもしれません。
そんな可能性の中で遊ぶことは、私たちに計り知れない恩恵をもたらします。
それが心の内で進む旅だとしても、現実のそれと同じように捉えれば良いのは明白です。
その影響はやがて現実世界にも波及して、シームレスにつながってゆき、豊かな体験の始まりとなるかもしれません。