美しきインタラクション
行動の基準は、エレガンス。
──ジャン・ジュネ
ほんのわずかな期間ながら、デザインの仕事に携わっていたことがあります。
その名残りで今でもデザインは気になる世界ですし、つい最近も深澤直人さんの著書『デザインの輪郭』を読んでいて大きな発見がありました。
深澤さんはMoMAの永久収蔵品〈無印良品『壁掛式CDプレーヤー』〉などの作品を手掛けた工業デザイナーで、その「ひとり言のようなもの」と前置きされた本では、自身のデザイン観がやさしい言葉で語られています。
私にはとてもその全てを理解することはできないものの、読んでいて視界が開けるように思える瞬間が多々ありました。
その最もたるものが"インタラクション"について触れた一章です。
インタラクションは、英語の【inter/相互に】と【action/作用】からなる造語で、基本的には〈人が何らかのアクションを起こした際、相手側のシスム・機器がそのアクションへのレスポンスをする〉という意味を持ちます。
自動ドアの前に人が立つとドアが開く、スイッチを入れると電気がつく、キーを回すとエンジンがかかる、などがわかりやすい例でしょう。
普通はこれを応用した、複雑なプログラムやマーケティング理論などの説明につなげていくのですが、深澤さんがなさっていたのは、もっと身近で目の前にある、人と人との関係性をインタラクションで読み解くお話でした。
「人とコミュニケーションする意味でもインタラクションをデザインしている。
礼儀がないとか、マナーが悪いとか、だらしないとかいうことは精神的なことよりも、関係性が見えない、インタラクションの欠如だと思います」
これはとてもよくわかります。
公共の場で身勝手な振る舞いをすることは、他人に対する思いやり、人がそれをどう受け取るか、その結果周囲がどんな迷惑を被るかが見えていない想像力の不足であり、それは言い換えればインタラクションの不足以外の何ものでもありません。
自分の行動により、周囲の場や人がどんな風に変化していくか、まるで盲目的なのですから。
深澤さんは周囲に煙を撒き散らしながらの歩き煙草、騒音を立てるバイクを例にあげ、次のように断言します。
「インタラクションの欠如はインテリジェントに見えない」
これもまさしくです。
見勝手な振る舞いをする人が、知性や美を感じさせることは決してありません。
そこには殺伐とした粗雑さがあるだけで、いかなる繊細さも「関係の美」も存在しません。
これで思い出すのは、ある人が話していた、パリのカフェで遭遇したというエピソードです。
その人が夜のカフェで過ごしていた時、カウンターで客同士の小競り合いが起こりました。
互いにひどく酔っており、声高に相手を罵りながら、今にも取っ組み合いになりかねない雰囲気です。
店内には不穏な空気が流れ、成り行きが危ぶまれる中、大柄なギャルソンが駆け付けて双方をあっさりと店外に放り出しました。
今後、二度とこの店に近づくなという厳命つきで。
その人がよほどもの問いたげに見ていたからか、目が合うとギャルソンは短くこう口にしたそうです。
「pas beaux」
日本語に訳せば
「美しくない」
煩わしいから、他のお客に迷惑だから、という以上に、大声で諍いを始めた二人は、その醜さゆえに店から追放されたのです。
周囲の客たちの冷ややかな目線も、そういえばそんな軽蔑を露わにしていた、とその人は語っていました。
これもインタラクションの欠如の一例で、自分たちの醸し出す険悪な雰囲気、暴力沙汰一歩前の小競り合いが、店や他のお客の大切な時間をどれほど台無しにしているか、二人は少しも気づかなかったのです。
その近視眼的なふるまいを、ギャルソンは醜悪なものとして容赦なく対処したのでしょう。
美意識の欠如から生まれるカオスに対し、断固として問題を取り除き、お客と店を守ることを選んだのです。
深澤さんも、かつての日本に存在した「スムーズなインタラクション」は、礼儀や話し方がセンシティブであったことに裏打ちされている、と語っています。
そして、今それが崩れかかっているのは、精神論うんぬんではなく、インタラクションの問題であり、周囲に目をやり心を配る「センサーの欠如」であるとも。
これは私が常々考えている、人や世界との関係性において何が美的か、どのような振る舞いが美しいかを重視するという感覚と同じです。
自らの行動、あるいは周囲との関係や環境に醜さがあるのに気づいた時、その理由を私は何かが間違っているからだと考えます。
何かがずれたり欠けているからこそ、そういった状況になり、それは道を修正すべきであるという信号だとも捉えます。
その逆に、行動や関係性、在り方に美を保てている限り、それは自分にとっては正しく喜ばしいことであり、たとえそのせいで多少の損やマイナスが生じても、それもやむなし、というのが私の基本的なスタンスです。
美しいことは滞りや無理がなく、快適で多くのものの価値が最大化される状態だという、一種の美至上主義とも言えるでしょうか。
たとえどんな哲学を持って生きようが、一人一人の意思は尊重されるべきもので、他人が容易に口出しすべきではありません。
けれど、たった一人でこの世界に生きるのでない限り、外界との美しい関係性を結ぶためのインタラクションやセンサーは必要不可欠ですし、そこにもっと光が当たる必要性を感じます。
もしこれに少しでも共感してくださったなら、この場での私のインタラクションは大成功であり、とても嬉しく思うのですが。