声の話いろいろ
「細かいところが気になるのが僕の悪い癖」
私の好きな刑事ドラマの主人公の口癖ではありませんが、同じく私も、時々妙に物事の細部が気になるタイプです。
つい先ごろは、実験心理学者の本のこんな一文に引っかかりました。
「感情を読み取る際に日本人は欧米人と比べ表情よりも声音に敏感ということを示した研究もあります」
著者は各章で人間の顔と表情を主題に語っていたのですが、私の思考はそこへ来てはたと止まってしまいました。
そして、新たに考え始めたのは声についてです。
もう本の中ではそんな話はとっくに終わっているのに、いったん横道に逸れたからには、更にそちらへ進んでみたくてたまりません。
ついでのように頭の中には、これまでに見聞きした、声にまつわる雑多な知識がよみがえります。
〈自分の声は井戸の底で何かつぶやいているように聞こえるらしく、何を言っても必ず人に聞き返される〉という森茉莉さんの嘆きのエッセイに、〈声にはその人の知性や教養、バックグラウンドの全てが現れる〉というなかにし礼さんの身が引き締まるようなご発言。
〈顔の悪い結婚詐欺師はいるが、声の悪い結婚詐欺師はいない〉という都市伝説。
『8割の人は自分の声が嫌い』という一大ベストセラーに、"神の声"と謳われたルチアーノ・パヴァロッティのアリア。
〈ヴァイオリンは人間の声に最も近い楽器〉との紹介文に、〈電話の話し始めは"ラ"の音で〉というマナー教師の講演。
他にも雑多なあれこれが思い浮かび、羅列するときりがなさそうです。
それだけ声は重要なトピックスであり、私たちの人生にも深い影響を及ぼすものだからかもしれません。
けれどもそこに格別の注意を向けたり、気になる点を改善したい、お金と時間を費やしてでも地声を向上させたい、などという願いはめったに聞きません。
欧米の政治家は説得力のある話し方のためボイストレーニングに通う、といいますが、日本に同じような政治家がいるかどうか、私は不勉強のため知りませんし。
考えてみると、この国で声がなぜこれほど冷遇されているのか、疑問に思えてくるほどです。
私の友人の一人は歌手であり、発声学の元祖フレデリック・フースラー考案の"フースラーメソッド"のレッスンを、もう十年以上も続けています。
その友人から色々と話を聞いたり、一緒に発声するなどしてみると、声ほど神秘的、かつその特性を活かしきれていないものは無いのではと感じます。
フースラーの孫弟子でもある、フースラーメソッド指導者・武田梵声先生の博識かつ深遠なお話に触れていても、声に関して現代人がどれほど多くを犠牲にしているか、つくづく痛感させられます。
フースラーの世界の果てしなさゆえ、私はそちらへ近づくには足がすくむのですが、もし真摯に歩んで行けば、凄いものに出会うだろうという予感はします。
そこにあるものは人間の声の復興で、古代世界では当たり前に所有していた、生きもの本来の声と身体を取り戻すことでもあるでしょう。
日々フースラーメソッドの鍛錬に励む友人によると、十年たってもまだ最終地点は目にも映らない彼方だそうです。
そう聞いただけで私は更に覚悟が鈍るのですが、いつか"その時"が訪れたら、追求の旅を始めたくなるのかもしれません。
それでも、今のところ現状を受け入れていようという怠けものの私にとって、ほんの少し勇気が出るのは、ミュージカル映画や舞台もこなしたオードリー・ヘプバーンの音域はたったの一オクターブだった、という事実です。
そのためヘンリー・マンシーニはオードリーが歌えるように、その音域に収まる『ムーン・リバー』を作曲したそうです。
ボイストレーニングのレッスンに励むオードリーは自分の声に失望していたかもしれませんが、おかげで後世に残る名曲が誕生した上、作曲家本人に「世界中で彼女以上の歌い手はいない。オードリーはこの曲を完全に理解している」とまで言わしめました。
声の魅力や良し悪しは、一面的に測ることのできないものだという好例かもしれません。
ちなみに歌手である友人のアドバイスでは、最も簡単かつ効果的な声の鍛え方は、"自分の出せる最高の高さの大声を、前や上でなく、後ろに飛ばそうとすること"だそうです。
これができると喉に負担をかけずに通る声になり、地声もぐっと良くなるといいます。
オペラ歌手も同じ方法で歌うらしく、メソッドの効果は実証済みと言えそうです。
車の中やガード下、屋上や山の中、飛行場近くの公園など、私も隙あらば試しましたが、少し続けてみただけで、いつもより声が出しやすくなり、響きも良くなるのが感じられました。
以前、警察の方からも
「何かあったら大きな声を出しましょう、なんてよく言うけれど、あれは無理です。普通の人は、何かあっても大声なんて出せません。ただ固まってしまう人がほとんどです」
というお話をうかがいました。
では防犯ブザーや笛を持つのが方が良いのか、いざというとき叫ぶための心構えは、と質問すると、ブザーや笛はとても効果的です、といううなずきの後、返ってきたのはこんな答えでした。
「普段から叫んでください。日頃、声を出していないのに、非常時に叫ぶのは不可能です。いざという時に備えるなら、日頃から大声を出すのが一番です」
これはもっともなお話であり、声の鍛錬は危険防止にもつながるとあらば、ますます無視できません。
気にかける人が少ないからこそ、少し気をつけるだけで大きな差がつくのもお得ですし。
声帯も筋肉のため、うまく続ければ必ず応えてくれるはずです。気長に焦らず、何より楽しくいきましょう。
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