お弁当屋さんとアナトミートレイン
ふつう、街なかで見知らぬ人と話す機会はさほど多くないはずですが、犬連れならそれも例外です。
犬を褒めてくださったり、撫でても良いかと聞いてくださり、そこから何とはなしに会話が始まる、ということはよくあります。
つい最近も、マンションのエレベーター前でお弁当の配達業者の男性に話しかけられ、目的の階に着くまで、犬のことや散歩コースなど、軽い会話を交わしました。
「薄着ですね、寒くないですか?」
男性がそう聞いてくださったのは、前日と比べてぐっと気温が下がったためでしょう。
「確かにちょっと寒いかも。脚が冷えた気がします」
答えると、その人は私の足元に目を落とし、何気ない調子で尋ねました。
「もしかして、右脚の方が冷えてるでしょう?」
「ですね、そういえば」
「右の骨盤が開き気味なせいですね。足裏をよく揉むといいですよ」
エレベーターが停まり、その方があいさつをしつつ颯爽と降りて行くと、また扉が閉まります。
急なことで頭が混乱し、その人を呼び止めることも忘れていました。
「それ、〈アナトミートレイン〉ですよね!?」
後ろから叫べばよかったと思うものの、時すでに遅しです。
十数秒のうちに、驚くべき高度な診断でしたし、まさかこんなところで、解剖学の知識に出会うとは思いもしませんでした。
もし全く身体に関する関心や知識がなければ、そのお弁当屋さんは、ただ不思議なことを言う人でしかなかったでしょう。
けれど私は身体についての勉強をそれなりに重ねていますし、自分であれこれ試してもいるために、その意味がよくわかります。
私に「右脚の方が冷えているか」と聞いた時、男性は私の足先を見ていました。
私の右足は、まっすぐに立ったとしても、左足よりもわずかに前へ出、つま先も外向きに開いています。
微妙な左右差ではあるものの、見る人が見ればわかるものです。
これは私に限ったことでなく、全ての人の身体は、左右対象ではありません。
必ずどこかでねじれや歪みがあり、そのほとんどは、骨格ではなく筋肉が原因です。
ここで、私が男性に問いかけようとした〈アナトミートレイン〉が関係してきます。
〈アナトミートレイン〉は筋筋膜経線であり、筋膜のつながりと、張力を感じ合うラインを表します。
……これだけでは何のことやらさっぱり、ですよね。
人の身体には大小合わせておよそ600個の筋肉が存在し、それぞれが筋膜という薄い膜で覆われています。
その全身600個の筋肉を、ひとつひとつ独立したものではなく、筋膜によってひとつにつながっているとする考えが〈アナトミートレイン〉です。
筋膜で全てがつながっている、と言われてもぴんとこなければ、筋肉が“駅”、筋膜はそれを結ぶ“線路”とイメージすると、わかりやすいかもしれません。
一つ一つの駅は独立して存在しているものの、互いに線路でつながってもいます。
だから、それぞれに影響を与え合い、干渉し合います。
銀座駅で電車が遅れると池袋駅に着くのも遅れ、桜ノ宮駅のトラブルは弁天町駅まで響き、九条駅でストップすると北大路駅に電車は着きません。
それと同じで、ある場所の故障や痛みが、ずばりそこで起きているのではなく、よその影響でそこに出ている、ということも起こり得ます。
たとえば、腰が痛いとして、原因は腰そのものでなく、足首だったり。
そんな場合は、直接に腰を揉むよりも、足首の手当をした方が症状がましになる、そんなこともあるのです。
全身を巡る〈アナトミートレイン〉には6つの主要なラインがあり、あの男性が私に指摘したのは、下半身の安定に関わる“スパイラルライン”の領域です。
専門的になりすぎないよう説明すると、身体に二重らせんで巻きつくこのラインが崩れると、骨盤の前後のずれや、足のねじれが引き起こされます。
すると、他のラインにも大きく影響するのは、このラインが下半身の安定に関わっているためです。
建物の土台がぐらつくと、上の階も傾いたり、危険な状態になるのと同じです。
あの男性は、私の右足首が外にねじれているのを見て取り
⇒右の骨盤が外旋(外側へねじれ)
⇒バランス不良で鼠蹊部が圧迫
⇒リンパと血流の流れが滞り
⇒右脚が左側よりも冷えている
こんな風に診断したのでしょう。
だからこそ、スパイラルラインを整えるため、その出発点である「足裏をほぐしてくださいね」というアドバイスをくれたのだと思います。
考えの筋道を知らなければ全くの謎のような話ですが、こうして読み解いてみると、納得するしかない的確な助言です。
世の中には、つくづく変わった、凄い人がいるものです。
一体どんなお弁当屋さんかと思いますし、ぜひまた近々お会いして、もっと詳しくお話しができることを願います。
その前に、ご指摘の通り右足裏をほぐしておかなければ。
手の指を足指の間に差し込んで握手、足首回し、足指の曲げ伸ばし、足裏の指圧。
こんな簡単なマッサージは、どんな方にもおすすめですし、冷えだけでなく疲れの軽減にも効果てきめんです。
毎日ほんの1分でも続けてみれば、身体の悩みが少し楽になるかもしれません。
身体にまつわる世界は、本当に奥が深く面白いものだと、あらためて思った出来事でした。