見出し画像

考えるを考える

人生は誰かを打ち負かすなんてケチなことのためにあるんじゃない。

─── 岡本太郎


ある人の話で、深く納得させられたものがあります。
その人が中学生の頃、クラスに一人、ずば抜けて頭の良い生徒がいました。ある時、思い切って勉強のコツを聞くと、こんな言葉が返ってきたそうです。

「わからない問題のうち、答えのあるものは考えない方がいいよ、時間の無駄だから。頭は答えのないもののために使うんだと思う」


たとえば数学の方程式や英語の文法には、必ず決まった答えがあります。
もし自分の実力でそれが解けないのなら、いつまでも考え込むより、さっさと解答を見る方が良いというのです。

その上で、なぜその答えが導き出されたのかを、問題と照らし合わせて確認する。いわば通常とは逆に、答えを手にした状態から、問題を理解するよう努めます。

そのための詳しい方法なども教わり、おかげで授業の理解度もテストの点数も上がった、さすが東大現役合格を果たした子は違う、とのことでした。


そのクラスメイトのやり方は型破りではあるものの、確かに合理的ではあります。
私も知っていたかった方法ですし、中学生が語る、頭は解答のないもののために使うべし、という言葉にもしびれます。

もっともそれは、疲れる、人気のない知性の用い方ではあるでしょう。
コスパ、タイパを重視するなら、決着のつきそうもない問題を延々と考え続けるほど無駄なことはないからです。


けれど、人には誰しも、答えのない問題に直面する機会があります。
私もつい最近そんな局面を経験したところで、それは半年以上前に書いた『美しく怒る』という話にも登場した、とある大学の教授と昼食に向かった際のことでした。

私たちは二回り近い年齢差があるものの、不思議なほど物の見方や趣味趣向が似通っています。
そのため時折お茶や食事に出かけては、他の人とはできない話に興じているのですが、その日は珍しく意見が真っ向から対立しました。


その時の話題は、私たちが共通して知る、ある女性についてです。

彼女はしばらく前からトラブル続きで、大変な苦境に立っていました。
それらの全てが、性差別が原因で引き起こされたものである、というのが私の考えですが、教授はそれに反対しました。彼女がこうむったトラブルは、女性への偏見ゆえということは認めるものの、原因をそこに限定すると、事の本質を見落としてしまう、というのです。


それでも私の目からは、それは深刻な性差別の問題でしかないと考えられ、話は膠着状態に陥りました。

目的の店に着いてからも、駐車場に停めた車の中で議論は続き、しまいにもう話を打ち切りにしよう、と教授がため息をついたほどです。

「いつもならどれだけ考えが違っても、どこかで妥協点を見つけられるけど、今回ばかりは。あなたの中にある女性差別への怒りや憤りが強すぎて、もはや僕が何を言おうと、全く受け入れられない状態でしょう?」


何と答えるべきかわからず沈黙する私に向かい、教授は静かに語ります。

「これをきっかけに、あなたに対する見方も変えなくてはと思います。知り合ってもう三年で、どういう人かわかったようなつもりでいたけど、あなたがそこまで激しいフェミニストだったとは。
もちろん、それは不正を見過ごせない信念ゆえだろうし、あなたをますます尊敬しますよ。
でも、悲しいのは、話が全く通じないことです。何を話しても取り合ってももらえないのは、絶望的な孤独でしかありません」


それは申し訳なく思います、と私が硬い声で答えると、教授は軽く微笑みました。

「よく言う"男女の壁"ですね。きっと世界中で毎日こんなことが起きていて、分かり合えないままなんでしょう。
それも仕方がないとは思います。同じ世界を生きてはいても、性別の違いで、まるで違う景色を見ているんだろうし。
前にも話しましたよね?アカデミズムの世界なんて、本当にひどいもんですよ。僕が知る優秀な女性は、誰もその能力に相応ふさわしいポストについてない。これほど女性を抑圧する社会構造は、腐りきってると僕も思います。
だから、あなたが全てを性差別の問題と捉えるのも、わかるような気はするんです」


でも、と言葉を切り、間を置いて教授は続けました。

「あなたがそこにばかりこだわるのが、僕には残念でなりません。フェミニズムは劇薬ですね。あなたのような人まで、こうも絡め取るなんて。
聞いていて腹が立つだろうけど、これだけは言わせてください。僕は、あなたにそんな狭い了見の中に留まっていてほしくない。いつもの柔軟性や、知性はどうした、周囲にはもっと広い世界があるでしょう、って言いたいんです。
気づいてますか?フェミニズムは、結局はマルクス主義を踏襲してるだけで、そこを超えられないんですよ」


私が不意を突かれた顔をしたからか、教授は話す速度を落とします。

「資本家と労働者。男と女。二項対立の構図を作って、憎しみを煽り、互いに闘うよう仕向けているだけです。
現実にひどい差別はあるし、それを正したり権利の保障は重要だけど、自分たちは搾取されています、哀れな被害者です、っていう点ばかりを強調しても、何も解決しないと思いませんか?
過激なフェミニズムは、マルクス主義と同じです。最も憎んでいるはずの男社会のシステムを、そのまま自分たちの手段にしているんです。
それで多くの人の支持を得たり、誰かが幸福になるのか。あなたは、自分の頭で考え、答えを出せるはずです」

それから教授は、自分はもう十分に話したし、もし私に何か言い足りないことがなければ、そろそろ店内に入ろうと提案しました。


ハワイアンレストランのテーブルの上にメニューを広げ、料理や飲み物を選びながら、教授は照れ隠しのように笑います。
「暑い駐車場で、長々とうるさいことを言ってすみませんでした」

それからもう一度、私が遠慮して口をつぐんでいないかを確かめてから、自然と別の話題へと移りました。
こういうところが、年の功や人生の経験値、あるいはこの人ならではの美質なのか、とても真似できないと思わせます。


私も話したいことは多々あるような気がしたものの、まだ言葉にできる段階ではありません。
それは今しがたの動揺が去り、もっと自分の考えが練れて初めて可能になるものでしょう。

それでも、この問題は根が深く、時間をかけて付き合ってゆくべきものだということはわかります。
それは悪いことでなく、すぐに答えを導き出すことだけが最良でないのは、中学生でも知っていることです。


「このフルーツサラダのドレッシング、ちょっとすごいですよ。食べてみてください」
「色合いからしてきれいですね。レモン風味でしたっけ?」

いつもの調子で小皿を差し出す私に、教授も普段通りに笑うため、それで正解なのだと思います、きっと。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?