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とっておきをどうぞ

美しい壺を手に入れたならすぐに使いなさい。明日になれば割れてしまうかもしれないから

ユダヤのこの警句を初めて聞いた時、思わずぎくりとしました。まるで自分のことを言われているような気がしたからです。
私には良く言えば慎重、悪く言えばけちなところがあり、“いいもの”は取っておきがちです。
何のために?と問われると、いろいろ、と答えるしかありません。本当に、その理由は多岐にわたるからです。

たとえば、いま使っているものが壊れた時のため。飽きがきた時のため。お客さまが来る時のため。大切な場に出る時のため。その他、何かとても特別な時のため。

あらゆる口実を使って、普段使いのものと“いいもの”とを分けようとします。
だって、とっておきを普段に使ってしまえば、それはもうとっておきではありません。
とっておきはとびきり特別な時のためのもので、日常とは違う非日常、ケに対するハレ、めったとない、ここぞという時に登場させるものです。


けれども、我に返って考えてみると、そんな非日常、ハレ、特別な時は、めったに来ないことに気づきます。だからこそ特別なのです。
あとはみんな普通の日です。日常、ケ、ありふれた時。

1年365日のうち、私にとってハレの日はどう考えても100日以下で、キリが良いのでおまけしても65日。
残り300日の普通の日を、私はある時は気楽に、ある時は忙しく、ある時は落ち込んで、ある時は笑って過ごします。
私の生活はその300日が本番で、ささやかでも様々なことが連続する中、自分なりの日々を暮らします。
ならば、その日々だって特別です。それこそが人生そのもので、そんな日々の積み重ねが自分の歴史になるからです。


それなのに、私は日常を適当なものでやり過ごし、自分に一番良いものを与えません。
とっておきはもっと別の時のためにしまっておいて、有り合わせで済ませます。
それは、自分で人生をおろそかに、つまらなくしているのと同じです。

なぜ普段から、手持ちで一番良いもの、高価なもの、美しかったり、素晴らしいものを使わないのでしょう?
何でもない日にもったいない、という考えは、電気を引いているのに、めったにスイッチを入れない家に住んでいるのと似ています。

その家の住人は、特別な時にだけ電灯をつけ、残りの日はロウソクのわずかな灯りか、暗闇の中で過ごすのです。
いくら生活が不便でも、特別な日にきらびやかで豪華な光を浴びたいため、普段は灯りのスイッチには触れません。

こう書けば、どれほどナンセンスかがわかります。
良いものを出し惜しんで使わないのは、闇を嘆きながら、かたくなに照明をつけないのと同じです。


人生は僕たちが計画を立てている間に過ぎてゆく

ジョン・レノンはこう言います。
もっと特別な時のために。そんな風につぶやきながら過ごすうち、はかなくも命は終わりを迎え、当たり前に思っていた日々こそが特別な人生の時間そのものだった、と気づくのかもしれません。
けれどその時にはもう遅すぎ、過ぎた時間は戻りません。
そうなって初めて、全ての時間がいかに貴重であったか、自分がその時間をどれだけぞんざいに扱ってきたかを思い知るのは哀しすぎます。

そんな日が来る前に、とっておきを出し惜しむのはやめにして、しまい込んだあれこれを引っ張り出しましょう。
たとえそのために壊れたり傷んでしまっても、見えない場所にしまわれ忘れられるより、身近な場で活躍し、愛されて寿命を迎えたほうが、物としてもどれだけ喜んでくれるかと思います。


「何もかも燃えてしまった。アルバムも、人形のコレクションも、大好きな洋服や靴も全部。来月、誕生日が来たらと思って飾っておいた、まだ聴いていないヴィンテージのレコードも」

火事で自宅が全焼した女性が、インタビューでこんな風に話すのを聞いたことがあります。この女性の大切なものたち、一度も聴かれないままのレコードは、永遠に失われました。
何ともやりきれない気持ちになりますし、どうかこの人がまた新たなお気に入りに出会えるようにと願います。

そして、この女性のように何もかもが突然失われる前に、どんなものとも、もっと臆せず存分につき合おうと思います。
あなたもどうか、貴重な人生の時間を、大切で特別なものたちに囲まれてお過ごしくださいますように。

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