“何、その分厚い本?”「風と共に去りぬ」
もう何年も前から、その本が数々の議論や批判の的になっていることはわかっています。
確かに作中には、人種的偏見による、見過ごせない思想、差別意識が描かれています。
ですが、それでも私はその本が禁書扱いになり、忌避され、過去の悪しき遺物として葬られてしまうことを望みません。
そうされてしまうには、あまりに惜しい作品だと感じるからです。
この
『風と共に去りぬ』
(マーガレット・ミッチェル 1936年)
が問題視されるのは、物語の舞台となった時代と土地が深く関連しています。
主に描かれるのは19世紀後半、南北戦争前後のアメリカ南部であり、そこで生き、死んでいく人々の運命です。
その中心にいるのが主人公スカーレット・オハラで、同名のハリウッド映画で、スカーレットに扮したビビアン・リーの写真などは、見たことがある方もいらっしゃるかも。
人を惹きつける魅力、知性、精神力などを惜しみなく備えた名家の令嬢スカーレットが、残念ながら持ち合わせないもののひとつが、洞察力。
このために、彼女は多くのものを損ない、失います。
自分の本心に気づかず、周囲の人の真価を見抜けず、誰が本当に自分を愛し、支えてくれているのかも悟れません。
強靭な生命力で幾度となく死線を潜り抜け、どんな苦難からも這い上がる強さを持ちながら、その内側には少女期の未熟さを引きずり、大人になりきれないままでもあります。
初恋の人アシュレイへの執着がその一例で、欲しいものは欲しい、となった彼女は、互いに既婚者になってもなお、彼をあきらめきれません。
周囲の驚嘆や失笑も目に入らず、ひたすら彼を追い、求め続けます。
そんなスカーレットが、自分は幻想に溺れ、実際には存在しない人を崇め続けていただけだったと気付いた時、彼女は初めて大人になります。
そしてようやく、ありのままに現実を見る冷静さを手に入れますが、それは大き過ぎる喪失と引き換えでした。
「私にはタラがある」
「明日は明日の風が吹く」
『風と共に去りぬ』といえば有名なこれらのフレーズがありますが、私が激しく胸を衝かれたのは、スカーレットの前から立ち去る際、夫のレット・バトラーが、最後に放った言葉です。
「スカーレット、君は、君を愛する人たちに残酷だったよ」
自分自身と、その望みにしか関心がなく、結果として周囲を蔑ろにし、顧みなかったスカーレットへの、静かな最後通知です。
目が醒めた時には全てが遅すぎ、自らの盲目的な熱情ゆえに周囲の人々に深傷を負わせ、本当に大切なものを失ってしまう、そんな苦さを、私も自分のもののように噛みしめました。
私がこの物語を読んでいたのは、中学校の教室でです。
持病で学校を休みがちの私には、親しく口をきける相手もおらず、クラスメイトとはいつまでも馴染めないままでした。
そんな私にとって、本の中の登場人物たちは、周りの誰よりも親しめる、良き友であり、仲間でした。
休み時間にはすぐさま本を開き、ひとり黙々と読書し続ける私は、さぞかし周囲から浮いていたに違いありません。
私の存在は皆にとっておそらく空気そのもので、あえて関わりを持とうとするような、物好きな人はそういませんでした。
ただ一度だけ、ろくに挨拶をしたこともないクラスメイトから唐突に声をかけられたのが、この『風と共に去りぬ』を読んでいた時のことです。
「何、その分厚い本?」
持ち重りのするハードカバーの小説本が、いかにも大仰に見えたのでしょう。
休み時間に立ち歩きもおしゃべりもせず、ひたすら活字に没頭する私が、不思議、いえ、不審に感じられたのかもしれません。
突然現実に引き戻された私は、戸惑いながら相手を見上げ、ぼんやりとした返答しか出来なかったはず。
体がそこにあるだけで、私の居場所は別のところにあったからです。
そこしかなかった、と言うべきか。
それでも、私はその場所を心から愛していました。
スカーレット・オハラは、いわば中学校時代の私の親しい友人であり、彼女の登場する物語が悪く言われるのが、私にはとても辛いのです。
アフリカ系アメリカ人の方が感じる、別の辛さに思いを馳せ、胸苦しい気分になりつつも。
私にとって今でも大きな意味を持つ、大好きな小説が、このような解決し難い矛盾をはらんでいるのは哀しいことです。
それでは、また次のお話でお会いいたしましょう。