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「これでもうシャツを捨てずにすみますね」

私は安い靴を買うほど裕福ではない。
(イギリスのことわざ)


「最近何か面白いことがあった?」
いかにも話題切れの際に持ち出されそうな質問ですが、私ならこう答えるでしょうか。
「それはもう。面白いというか、びっくりしたんだけど」


それはつい先日のことで、SNSで流れてきたおすすめ動画のひとつに"プロのボタン付け"というものがありました。
私も洋服のボタン付けくらいは出来るものの、やはり専門職の方は違います。スピード、仕上がり、手さばきなど、全く惚れ惚れするほどなのです。

今度真似してみよう、と思う糸の始末なども紹介され、とてもためになる動画だったのですが、最後に画面の中の女性がにこやかに一言。

「これでもうシャツを捨てずにすみますね」

一瞬、頭の中が疑問符でいっぱいになり、次に感嘆符が踊ります。
"シャツを捨てるってどうして……???"
"ボタンが取れたから!!!"


ふだん私が着ている洋服は決して高価なものではないものの、それでも極端に安価なファストファッションのお店にはほぼ行きません。
いくら色やデザインが気に入っても、全体の状態がすぐに悪化し、来シーズンは着られなくなるだろうと感じさせるものが多いからです。

私は洋服や雑貨を買う際なども、よく吟味するため必ず一人で出かけるほどで、そうまでして選んだものが、早い段階で駄目になってしまうのはなかなかに悲しいものがあります。


そんな事態を避けるためにも、自分にとって無理のない範囲で、なるべく質の良いものを選び、メンテナンスをしながら長く着られる洋服を買うのが好みです。
その方が愛着が湧くばかりか、結局は経済的でもあるからです。

たとえば1万円で買ったカットソーは、10回着れば1回の着用料は1000円ですが、100回着れば100円です。
1万円のカットソーは100回の洗濯にも耐えるでしょうが、千円のものはきっと無理でしょう。風合いも劣化してしまっているに違いありません。


そんなことはどうでもいい、どうせ数回しか着ないのだから。深く考えずに安くてそこそこのものを手に入れて、飽きるか汚くなればまた別のものを買えばいい。

そう言われればそれまでですが、それは私にとって、贅沢というより浪費というべきお金の使い方です。
また、使い捨て感覚の洋服で構成されたワードローブを、決して美しいとは感じません。


ファッションと地球環境を巡る問題もあり、頻繁に買い物をしてはごみにするという行為にも罪悪感が伴います。

要らない洋服はリサイクルに出すから良い、というほど単純な話ではなく、ほとんどの古着が辿る末路は"洋服の墓場"であるアフリカのゴミ捨て場行きと決まっています。
そこに放置され、うず高く積まれた古着の山が腐乱している、というショッキングな映像もありました。


それでも街なかのファストファッションのお店はいつ通りかかっても盛況で、お店のロゴ入りバッグを提げた人を見ない日もありません。
そこで買える"気軽に短期間だけ楽しめる服"を、短いスパンで着倒しては手放すというのも、ひとつの現代的な文化ではあるでしょう。

それをくさすつもりはありませんが、ひどい破れやほつれで修繕できないわけでもないのに、ただボタンが取れてしまったからという理由でシャツごと捨ててしまおうというのは、受け入れ難い考え方です。

ボタン付けの労を厭うところからして、きっとそのシャツは使い捨てにしても惜しくない、プチプライスで、さして愛着もないものなのでしょう。
動画の女性がいかにも何の頓着もなく、明るく告げた様子からして、そんな人は意外に多いのかもしれません。


けれど考えれば考えるほど、それはあまりにもという気がしてきます。
お気に入りの洋服を必要に応じて手入れしながら使うのは、私の感覚ではとても豊かなあり方だからです。

少しくらいの瑕疵や経年変化も味わいであり、お直しをして身につけることも嬉しく思えてきます。
それは、そうまでして手元に置いておきたいと思える、素敵な洋服を持っている、ということでもあるのですから。


最近になって自炊を始めた知人がいるのですが、その人はこれまで料理をしないできたことを、深く後悔しているそうです。
おみそ汁が美味しく作れた、目玉焼きが上手に焼けた、たったそれだけのことが考えていたより気分を良くし、自己肯定感を上げてくれるという理由からです。

自分の身の回りのことが自分で出来る、それは確実な自信となり、生きる力にもつながっていると感じる、大げさだけど、と笑っていました。


シャツのボタン付けもきっと同じで、気に入って大切にしているもののほころびをつくろうことは、ある意味"育てる"ことそのものであり、それが自分だけのものになるということでもあります。

それらの手入れがただ面倒くさいだけのものでないと思えた時に、ものの買い方、捨て方、ひいてはライフスタイルの一部まで変わってしまうのかもしれません。
いわば、生活における小さな革命です。


どちらでも良いようなものを次々と手に入れては使い捨てるより、よく吟味されたお気に入りの品だけを持ち、それを愉しみ、活かしながら付き合う術を持っていれば、たとえどれだけささやかであれ、上質で豊かな生活を送れるように思えます。

そんな生活のきっかけとなるのは、さして難しいこともない、たとえばボタン付けなど、簡単なことからではないでしょうか。

幸い、その道のプロがわかりやすく教えてくれる親切な動画も存在します。
それを採用するならば、本当に、今度こそ「もうシャツを捨てずにすみますね」




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