ともに夜を駆ける「快走」
前話で取り上げた芥川龍之介が35歳で自死を遂げた際、その一報を聞いたある女性作家が漏らしたとされる、こんな言葉があります。
「気の毒に。芥川も、私と遊んでれば死なずに済んだのにね」
現代なら大炎上間違いなし、といったところでしょうか。
発言者は、岡本かの子。
作家で、歌人、仏教研究者であり、夫の一平、息子の太郎ともに有名な芸術家です。
作家デビューのきっかけからして、芥川がモデルの『鶴は病みき』という小説であったため、ことさらその人への思いが強かったのかもしれません。
そこだけを取り上げれば、傲慢で鼻持ちならない人のようですが、当の芥川本人が「自分の知る限り最もやさしく聡明な女性」と書き、息子の太郎も「あれほど烈しく生々しい人間そのものといった女はいない」と語ったように、ともかく自由で型破り、封建的だった日本社会に大きなインパクトを与えた人でした。
富裕な家庭のお嬢様育ち、駆け落ち同然の新婚生活、夫の裏切り、貧困、子どもの度重なる死、精神病棟入院、夫公認による愛人達との同居、ヨーロッパ外遊、取り憑かれたような仕事ぶり、脳梗塞、夫と愛人からの献身的な看護、東京中の薔薇を集めての埋葬、など。
生涯のどの時期も、エピソードには事欠きません。
芸術家一家として有名だった岡本家、なかでもかの子は最も人目を集め、その奔放な生き方が物議を醸すなど、しばしば噂の的となりました。
彼女は外出先から戻っては、まだ小さい息子にしがみつき、大声で何時間も泣き喚くことが頻繁にあったといいます。
母親をこんなにも深く傷つける大人や社会に激しい憎悪が沸き起こったと、後に太郎が書いています。
世間のイメージと違い、かの子は繊細な感受性の持ち主であり、それは彼女を容赦なく内外から蝕むと同時に、優れた作品を生み出すよすがともなりました。
歌人や仏教研究者としての顔の方が有名で、小説の執筆は晩年の数年間に留まりますが、先ほどの『鶴は病みき』が川端康成や室生犀星からも絶賛されるなど、その作品の評価は非常に高いものでした。
そんな彼女の作品を取り上げようとするならば、おそらく『母子叙情』『金魚撩乱』『老妓抄』などの有名作あたりでしょうが、私は自分が読んで心から共感した
『快走』
(岡本かの子 1938年)
を最も好きな作品としてご紹介したいと思います。
女学校を卒業したばかりの主人公道子が、開戦前夜の閉塞感の中、身近なところに思わぬ生き甲斐を見つける、というお話です。
短くシンプルな筋立てながら、読む人は道子と焦燥や興奮を共にしつつ、最後まで物語に引っ張っぱられていきます。
軽やかかつ強いエネルギーに満ち、道子が「活きている感じ」と強い喜びをみなぎらせる堤防での疾走シーンなど、こちらも体の内に熱を感じるほど。
また、道子の両親の描写もユーモラスで、密かにお節介を焼きながら、娘のことが心配で可愛くて仕方がない、という心情が伝わり微笑ましい気分になります。
この作品は発表こそ1938年ながら、出版されたのは39年3月であり、同年の2月に亡くなったかの子は、本になったことを知りません。
歴史的には日中戦争から太平洋戦争へと、より底なしの争いに日本全体が飲み込まれていく、狭間のような時代でした。
そこで、一個人の感じる閉塞感と鬱屈、そこからのささやかな解放を描いた今作が、当時の人々からはどう受け取られたのか。
きっと、道子と共に夜を駆ける爽快さを味わった読者が多くいたことと思います。
それから数十年後の、当時よりずっと自由な社会に生きるはずの私ですら、身の内に同じ実感を得たのですから。
かの子が自らの生き辛さや苦しみを、主人公に投影したか否かは定かではありません。
ですが、道子は間違いなく血の通った人間の存在感を備えています。
だからこそ私も強い感動を受け取り、物語の中ならず、自分の内にもある力の萌芽を感じたのだと思います。
私たちにはやはり、どのような時代においても、他ならぬ自分のため、生の実感を得る「儀式」が必要なのかもしれないなどとも感じつつ。
それでは、また次のお話でお会いいたしましょう。