そうはおっしゃいますが
「よし、君には期待してるからね!」
「はいっ、がんばります!」
テレビから聞こえてきたドラマの会話に、疑問が頭を駆け巡ります。
今って令和だったような?
それに、役柄の上とはいえ、人は期待をかけられるとそれほど嬉しく、発奮するものなのか?
答えはともかく、私にはおよそ縁のない世界であることは確かです。
これまでに一応の期待などかけてもらう機会はあったにせよ、わざわざ口に出して「あなたには期待してるんだから!」などと力強く宣言してもらったことも、その類の声掛けに「がんばります!」などと応えたことも皆無だからです。
私が天邪鬼なだけかもしれませんが、誰かから特別に期待をされる、という状況は大の苦手で、できれば避けたいところです。
せっかく目をかけてくれているのに、その何が気に入らないのか、と問われれば、その目をかけてくれているところが、と答えるよりありません。
自分に対するそんな評価は、私には重荷かつ不要でしかないからです。
だいたい"期待している"ということは、相手はその先にそれ相応の結果を求めていることを意味します。
それではこちらが相手の願い通りに動かなければならないばかりか、万が一そのルートから外れようものならば、たちまち裏切り者扱いです。
「えっ、嘘。そういう感じだったんだ」
「せっかく期待してたのに……」
一方的にこんなことを言われ、失望や嫌悪の表情を浮かべられるのは、たまったものではありません。
「ご期待ください!」
とこちらから明言したならまだしも、勝手に期待し、勝手に失望されるとは、いかにも理不尽な話です。
そもそも、期待はほとんど諸悪の根源である、というのが私の持論で、たとえば周りの誰も自分をわかってくれない、などという愚痴やひがみも、わかってくれて当然、という期待から起こります。
王族やトップスターでもない限り、周り中の誰もが自分の一挙一動に注目し、もれなく"お気持ち"を汲み取ってくれる、などということはあり得ません。
それを、とにかくもっとこっちを見て!言わなくても何でもわかって!は極めて幼児的な振る舞いであり、駄々をこねているだけで他人が理解と配慮を示してくれる、という考えはあまりに虫が良すぎます。
人生が二千年も続き、霞を食べて生きられるなら別ですが、いちいち自分以外の誰かのことを芯から気に掛けるには、皆あまりに時間がなさすぎるのです。
だから、誰もわかってくれないからと苛立つあまり、友人知人の連絡先を一斉消去する前に、淡い期待は捨て、わかってもらえなくて当たり前、潔く諦めるか努力しよう、と決意するのが良い気がします。
期待がなければ失望や怒りも起こりませんし、物事をあるがままに見られれば、人生はずいぶんと変わります。
それではあまりに虚しくないか、と問われても、そもそも期待は、望みや願いとは異なるものです。
これがこうなるといいな、できればこうしたい、というのは望みや願いで、こうなるはず、もっと言えば、こうあるべき、という思い込みは期待です。
期待は自己中心的に物事の行く末を決定づける考え方で、しばしば"こじらせ"にもつながるから厄介です。
望みや願いは儚いものとされているため、たとえそれが叶わなくても、甘酸っぱいものだけが残ります。
けれどあまりに度々裏切られ続けた期待は、次第に猛毒へと変わります。
"そうなるはず"だったことがいつもふいになることへの、虚しさや怒りが積み重なり溜まってゆく……これは危険で不幸です。
そこで、そんな期待からはあえて身を離し、何かを願い、望み、信じはしても、過度の期待はしないこと。何かの実現のために動きながらも、その成就にはこだわらず、結果はもっと大きな"何ものか"に任せること。
そんな生き方ができれば最高ですし、それは仏教やキリスト教の教典よりも古い聖典にも、人間が完全性に至るために必要な智慧として描かれている生き方です。
〈イシュワラ・プラニダーナ〉と名付けられたそのあり方は、それを本当に実践できた時、逆に叶わないものは何一つなくなるという、究極的なあり方です。
もちろん、それだけに最高難度の到達点ではありますし、いきなりそこに辿り着くのは無理だとしても、あらゆる可能性に心を開き、決してその結果には執着せず穏やかでいる、ということなら意識できそうです。
それは意義深い試みですし、柔軟でとらわれのないそんな姿勢は、人としての抗い難い魅力にも結びつきます。
私もいつかそんな境地に到達できるよう、心を明るい方に向け、余計な恐れを捨て去って、自我よりも素直さを選び取りたいと思っています。
もちろん、そのためにはそれなりの訓練も要りそうですが。
それでも、ぜひともそうなりたい、そこに届きたいと願います。ちなみにこれは、きっとなれます!がんばります!などという期待ではありませんが。念のため。
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