
親と子供が思う「合格ライン」の違いは、子供の可能性の芽かもしれない話。
誰かの「出来ない」が「出来た」瞬間は、眩しい。
ましてやそれが、自分の子供だったら……
現在6歳、今年小学校にあがる息子の、幼稚園生活最後のイベント、「発表会」が終わった。
この発表会、年長の集大成ともいえるイベントで、グループごとにダンス・劇を披露し友達とひとつのことを成し遂げる喜びや達成感を醸成し、小学校以降の学びにつなげるというもの。
息子は8人組のダンスメンバーの1人。曲名などは伏せるが、某アイドルグループのノリノリの一曲。
この園では毎年、発表会のダンスに「側転」 の見せ場がある。スポーツに力を入れているだけあって、学年の8割がきれいに決める。(すごい)
でも、息子はその残りの2割だった。リズム感やダンスのキレは良いのだが、見せ場の側転になると足が上がりきらず腰曲がり状態になる。
発表会にはリハーサルと本番があり、どちらも親が同席して衣装や髪型のチェックをする。リハーサル後、撮ったダンス動画を息子に見せた時、側転の部分で「なんでオレは側転が出来ないんだ…バカだからだ!」と悔しそうにポツリ。
親としては、運動神経には個人差があるし、側転以外の部分がしっかり踊れていたのでそこまで気にすることはないのでは、と思っていた。むしろ側転の練習時に怪我をして本番に支障をきたすくらいなら、その部分は完璧を追求しなくてもいいのでは、と思っていた。
でも、息子は違った。側転の見せ場は運動会でもあった。でも、あの時はまだやる気スイッチが入っていなかった。
今回は動画にし、見える化されたことが大きいだろうと思う。自分を客観視した時、「こうあるべき」という息子の合格ラインからは離れていたのだ。
その後、家でも運動用マットを取り出して練習。出来ない出来ないと嘆き、父母がそれをサポート。もちろんずっと出来なかったものが出来るようになるのはそう簡単なことではない。本番の朝も練習したが、お世辞でも「上手」とは言えない状態だった。
それでも、私は息子にこう声をかけた。
「上手になったよ!本番頑張ろ。怪我だけはしないようにね」と。
親としては結果より過程が大事だし、自発的に練習しようと思った息子の主体性が嬉しく、それで十分だった。
想えば息子が自分から何かをとことん頑張るのは、これが初めてだったかもしれない。
何でも努力するタイプではあるが、
自転車の補助輪を外す際も、私から「そろそろ外す?練習しようか」と声掛け。毎日の朝活、公文も「そろそろ時間だよ〜今日の分(宿題)やっちゃって」と気づけば、いつも私が先に『やる?』と声をかけていた。
書いていて、そもそも私って、子供の自主性重んじてなくない?という自責の念に駆られたが(もちろん親の声がけがポジティブに働く時もあるけど)、今回の件はダンスパフォーマンスにおける
子供の中の合格ライン
≠
親の合格ライン
だったが故に、子供が自分から動き出さざる負えない状況が生まれたのだ。
そして迎えた本番。
導入はキレキレのダンス。チームで歌に合わせ円陣で手を合わせ「HEY!」と声を出すパートがあるのだが、ここでもうすでに泣きそうになる…(息子は友達とやりとりして遊ぶのが遅かったので、このような男子同士の絆シーンを見ると感極まる。)
そして本番の側転。「どうかな〜」と見ていると、
……!
足が上がっている!
きちんと他の7人とも見劣りがしない形で、「側転」になっていたのだ。リハーサルでも、本番の朝の時点でも苦戦していたのに、本番で過去最高の演技を見せてくれた。
その瞬間、母の涙腺は崩壊した。
親が子供に、「主体性を持った本気」と、その成果を見せつけられた瞬間だった。
誰かに言われたからやる。
それが必要なシーンも、大人になればより顕著に増える。もちろん、一定の秩序を保つ上で大切な社会適応力だ。
でも、それより大事なのは――
「自分がなりたい自分を見つけ、そこに向けて努力すること。」
6歳、年長の発表会。
息子が自分から願った「こうありたい」が、自身の努力で実った日。
母の心に、また小さな宝物をくれて、ありがとう。
親が「これくらいでいい」と思うことと、子供が「こうありたい」と思うことの違いが、子供の本当の「やりたいこと」を伸ばすきっかけ作りになるかもしれない。
これから先も、子供の「こうありたい」に気づけて、大切にできる親でありたいと思った。