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にほんのれきし②大化の改新

・大化の改新
618年、中国では隋に変わって唐がおこり律令制度による中央集権体制を完成させた上、その勢力を朝鮮半島にもたらした。645年、唐が高句麗に遠征すると朝鮮半島の情勢はいよいよ差し迫ったものになった。
このような国外情勢は日本国内の緊張も高め、蘇我氏はますます権力を高めた。蘇我馬子のあと蘇我蝦夷が大臣となり、皇極天皇の時には蘇我蝦夷の子、蘇我入鹿が対立していた厩戸皇子の子山背大兄王攻め滅ぼし政権の独占を図った。しかしかえって他の皇族や豪族の強い反発をまねき、これが後の政変の直接の原因となった。
そのころ、遣隋使に従って中国へ渡っていた留学生が相次いで帰国し唐の整った律令制度についての知識を持ち帰った。
豪族の中でも中臣鎌足(後の藤原鎌足)らは我が国を律令に基づく強力な統一国家にしようと、当時権力をふるっていた蘇我入鹿に反発していた中大兄皇子とはかり、ついに武力によるクーデターをおこし蘇我蝦夷、蘇我入鹿を倒した。
すぐに孝徳天皇を擁立して中大兄皇子が皇太子、中臣鎌足が内臣(うちつおみ)となり実権を握って中国にならってはじめて「大化」という年号を定めた。ここに「大化の改新」と呼ばれる一連の改革がはじまった。
646年、4ヶ条からなる改新の詔が出された。まず、皇族や豪族が個別に人民、土地を支配するのをやめ公地、公民とし(公地公民制)、豪族にはかわりに食封(じきふ)を与える。次に中央と地方の行政区画を定め、軍事交通の制度を整える。次に戸籍を作り人民を登録、班田収授法を行う。というような内容だったが実現にはなお数十年の年月を要した。
※大化の改新
上記のように大化の改新とは孝徳天皇時代の諸改革を表す概念と言える。
これに対し、蘇我氏打倒のクーデターについては「続日本紀」の藤原鎌足の関連記事に「藤原内大臣乙巳年功」とあることから、「乙巳(いっし)の変」という名称で呼ばれるようになった。
672年、天智天皇が亡くなりその子大友皇子と天皇の弟大海人皇子の間に後継者問題が勃発。畿内はもとより、美濃、尾張伊賀、伊勢の豪族らを巻き込む大きな内乱となった。これを「壬申の乱」という。壬申の乱は大海人皇子の勝利におわり、翌年大海人皇子は天武天皇となった。

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