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親の死に目に会うとか会えないとか

※この記事は 2020.07.25 に公開されたものです。









今、同居は夫のみだけれど、私の立場は両親も夫も子供もいる環境にいる。






娘として。妻として。母として。




またカフェのオーナーとしての顔を持つ。






最近そのそれぞれの役目が濃くなってきていて、それを感じる自分自身の一人の時間を大切にしている。




感じる事は都度、学びとなり、いつ何があっても良いように、人に伝えておく事も大切だと思っている。






この前、珍しく体調を壊した時に、娘が毎日来て看病してくれてね。




娘に対しては甘えてしまう気持ちが生まれ、よそゆきの外の顔が多分、一切なくなるんですね。




どうしても、人って外に出るともちろん洋服着替えたりするみたいに心も外用に変わるでしょう。




体調が悪い時だから尚更、娘には一切取り払っつていられた。




そんな時に、あぁ、自分があの世に行く瞬間や苦しむような時、この子が側にいてくれたら、楽にすんなり、旅立てるだろうなぁって思ったの。




そう思ったら、最近、茨城に移転した母から最近似たような感覚を感じて、それはこんな言葉を言われる時に。




『恭子と暮したいなぁ。』




『1週間に3日位は恭子と一緒にいたいなぁ』




と私の仕事を応援してくれている中でも、こう言って、私に甘える。




母→私→娘への甘えの連鎖〜。




でもどちらの気持ちも理解しやすい状況。






長い期間には母に真っ直ぐ向き合えなかった時期もあったけれど、今、生きているうちに心が通い合えるようになり、なかなか希望通りには行ってはあげられないけれど、毎日の電話は欠かせない。




そして、私が娘に感じた気持ちのように、出来れば母の苦しさ、痛みが少しでも和らぐようにしてあげたいと思うのです。






子供でなくても、家族でなくても、そんな風に思える人がいたら良いよね。




愛だね。




愛する仲間でも良いね。








『親の死に目に会えなかった』と言う言葉があり、亡くなる瞬間に立ち合えるとかではなく、親より先に亡くなりなさんな。と言う意味だとか書かれていたけど、それぞれの捉え方もある。






私は、『死に目に会えなかった』って自分が 会えなかった事を引きずる自分目線はどうでも良く、これからは、生きているうちに、少しでも安らげるように、心の手を繋いで、いつでも飛んで行けるように自分の羽を磨いておこう。






そして、やっぱり家族や仲間が少しでも居心地が良くいられるように、こんな制約の多くなった今だけど、前と空を見て、時々振り返りながら、そして自分を大事にしながら、歩こうと思うの de R

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