溝口彰子×やまじえびね「エンタメ作品のマイノリティ表象を考える」レポート
溝口彰子×やまじえびね「エンタメ作品のマイノリティ表象を考える」『BL研究者によるジェンダー批評入門』(笠間書院)刊行記念
2023年7月29日(土) 19:00~21:00
本屋B&B
やまじえびね先生が登壇するイベントはレア!と思ったので、行ってみました。私は下北沢の駅近だった本屋B&Bにコロナ前に行ったきりなので、移転後は初でした。Bonus Trackも初です。B&Bの中の雰囲気はあまり変わってない感じで、変わらずおもしろい本が並んでいました。
やまじえびね先生のトークショーはこれが3回目だそうです。「LOVE MY LIFE」が映画化されたときに呼ばれたりしたことはあったけれど、というお話。やっぱりレアでした。会場は20名くらい、Zoom配信で30名くらいで、参加者は50名以上とのことでした。
最初に溝口先生のクィア・ビジュアル・カルチュラル・セオリストとしての活動の歴史を、オープンリー・レズビアンになった流れも含めてお話してくださり、その後やまじ先生の経歴について語り、その後お二人の出会いと関係についてという流れでした。
次に、やまじえびね先生の「LOVE MY LIFE」についておふたりでお話され、その後はやまじえびね先生が「女の子のいる場所は」についてネームを見せてくださったりして、詳しくお話されました。
最後に溝口先生の本からの影響でやまじ先生が動いたお話、ということで「his」という映画について語られていました。
「BL研究者によるジェンダー批評入門」の出版記念イベントなので溝口先生がもっとお話されるかと思っていましたが、やまじ先生のお話をもり立てられていて、ファンとしては感謝しています。
LOVE MY LIFE
〔初出:『FELL YOUNG』2000年7月号~2001年7月号。12話〕
この作品の溝口先生の論説は「BL研究者によるジェンダー批評入門」の最初の方にもあります。
『アニース』2002年夏号(p18~23)天宮沙江さんとの対談の中で、天宮さんが、この「いちこの意識の変化がリアルである」というお話をされています。やまじ先生から「当事者と思われる可能性もあるということは考えていました」という言葉が出たのはこの対談の中で、溝口先生も、やまじ先生が「当事者じゃない」ということに気づき、当事者でなくてもこういう作品が描けるのだということを知って反省したとお話されました。
溝口先生は女性マンガにレズビアンが登場することはあっても「たまたま今回は同性だっただけ」という作品しかそれまではなかったとおっしゃいました。私もそう思います。そうではないと否定した作品は初めて見たので驚いたとお話されています。
そして、この作品の制作の過程がやまじ先生ご本人から語られます。こんな感じだったと思いますが記憶とメモなのでご容赦ください。
『FEEL YOUNG』の編集さんに「女の子の恋愛ものを描いてみては」と言われてやってみようと思った。プロットとか考えずに、とりあえず1話分だけ考えて連載を始めてしまった。毎回前に描いたものを踏まえて考えて描く、ということを繰り返した。また、全体のプロットは決めていないので、パターンを決めると描きやすいと考え、冒頭の見開きはいちこのモノローグというスタイルにした。
自分にとってはこれがストーリーマンガの連載としては初めての作品(注:この直前が「お天気といっしょ」)。ほのぼのショート作家で終わるのがイヤだと思い、ストーリーマンガをちゃんと描けるマンガ家になりたい。それにはいい作品を描かなければ認められないだろうと思った。この場合でいういい作品とは、当事者じゃないと描けないような作品。そこを目標にしていた。
参考にしようにも当事者の友人もいなかったし、まだSNSも発達していなかった。わずかに当事者の方が書いた日記のようなものがインターネットにあったが、アクセス方法も回り道で探し出すのもたいへんだった。それでレズビアンが10人いたら、全員違う。私が「自分はレズビアンだ」と思い、描いても間違いではないのではと思った。編集部で「全部想像で描いた」と言ったら「うそでしょう?」と言われたときは「やった!」と思った。真剣に「自分がレズビアンだったら」と考えて描いた。
少しでも参考にしようと、アメリカからレズビアンが描かれた映画のビデオを取り寄せて見たが、レズビアンの二人が一時の関係のように描かれているのは不思議だった。どうしてこの関係が継続していくことがダメなのか。異性愛に戻れる余地を残しているのはなぜなのか。そういう疑問が起きたので、それとは反対のものを描こうと思った。
“別に男嫌いなわけじゃないよ”という台詞は「男性も大丈夫」という意味に捉えられるという指摘があったが、自分は「男が嫌いだから女に行ったわけじゃない」というつもりで書いた。“女の子でなきゃだめってわけでもない”は「いちこは性別にこだわっていない」ということが言いたかった。でもこれだけを見ると溝口さんのいうような解釈も出来るなと思った。それで次の章で、男の子のエリーなんていないし、性別が関係ないなんてあり得ないと思い、いちこのモノローグを入れた。
この作品では、いちこ=私。
父親がゲイで母親がレズビアンだけれど、結婚して子供をもうける。でも二人にはそれぞれに同性の恋人がいる。これは作品の設定を考えているときに瞬間的に思い浮かんだアイディアで、ピースとしてぴったりはまった。どんな人もいる可能性はあるだろうと。あり得ないよ、こんな人、と思っても1人くらいはいるのではないかと思う。
ノリで描いて後から考える、そういうことがマンガというのは許される。マンガというのはそういう“なんでもあり”なところが愛すべきところ、楽しいところだと思う。マンガにはつくりものっぽいところが欲しい。エリーがいきなり文学賞を受賞するとか、あり得ないだろうけれども、現実にありそうなところだけ、リアルにあるものだけで描くのは私のやり方ではない。
女の子がいる場所は
編集さんから「女性差別のある国の女の子たちの日常」というお題が出て、それなら描けるかなと思った。単行本が出てからtwitterで1話流したらすごい反響があって驚いた。
表紙画像はデザイナーさんからラフが送られてきて、このあたりにこの作品からという指定があったので、線画だけ描いて送った。デザインも着彩もデザイナーさん。
おばあさんの顔はなかなか思い浮かばないので、写真を見て描いたりした。通常は自分でポージングしたものを自分で三脚立ててデジカメで撮影して、それを見ながら描いたりしている。「LOVE MY LIFE」の頃はデジカメがなくて、鏡を見て描いた。鏡では難しいときはポージングの写真集を見ていた。
サウジアラビア-サッカーボールを蹴飛ばす日
(ここでネームと実際の絵の比較が出ます。ネームは完成度が非常に高く「下書き」に近いもので、そして手書きの台詞ではなくちゃんと打ってある文字です。ちょっと驚きました。)
A4を見開きに見立て、フリーハンドでコマを割って、そこに台詞だけ入れる。絵が浮かんだら入れる、という形。言葉だけのネームや絵も○とかくらいのものを描くケースは多いけれど、自分は絵も一緒に考えるので、こういうネームになる。どんなにいい言葉でも絵が浮かばなかったらボツ。
ネームをスキャンして拡大し、あたりにする。クリスタでネームも管理する。この時にテキストを入れるのは、自分の手書き文字の状態よりクリヤになるから。それで推敲する。
①プロット
②ネーム
③下絵
④ペン入れ
の流れ。「サウジアラビア編」はものすごく時間がかかった。
ネームを編集さんに見せて修正が入るときもある。このサウジアラビア編は2回で終わったが、3回も4回もになるときもある。
④アナログでペンの線だけを入れる
⑤スキャン
⑥クリスタでベタを入れてトーンを貼る
線をきれいにすることにはまってしまうと、すごく時間がかかる。これまでのアナログだと見えないものが、デジタルになり拡大するといくらでも見えてしまうため、はまると抜け出せなくて時間がかかってしょうがない。時間を短縮するためにデジタル化したのに。ベタとトーンの手前までアナログでやって、線はデジタルで修正しないことにしないと。
(やまじ先生の絵は線にこだわりがあるのはわかる‥という絵ですよね。この後、モロッコ「しかめっつらとメガネ」、インド「大きな家のお嬢さん」も見せてお話してくださいました。)
日本-おばあちゃんとママとパパ
twitter等で見ると、他の作品は概ね好評だったが、日本編だけちょっと評価が分かれていた。今時の60代はこんなに古い考えの人はいないのでは?というのを見かけたが、このおばあちゃんは娘(お母さん)が勉強したり仕事をするのを応援していたけれど、結局離婚してしまって、それを「失敗」と考え、古い考えに戻ってしまった人。
1ページ丸々風景が入っていたり、人物の顔を見開きページで大きく四分割して入れたりしているが、こういうことは自分は思いつかない。編集さんの提案で入れた。こういうのが作品として「盛り上がる」のではないかと思う。
「BL研究者によるジェンダー批評入門」を読んでやまじ先生がしたこと
「BL研究者によるジェンダー批評入門」の中で「his」という映画が絶賛されていたので見てみた。公開当時、ポスターが若い男性二人が顔をつきあわせてるところで、BLかなと思って避けていたが、見てからこれはそういうものではないと思った。
「LOVE MY LIFE」のような作品を描いて欲しいと言われることがあるが、今の時代にああいう作品を描くことはできない。生きづらさを抱えた人がいる中でどう描くか。「his」を見て、今はこういう描き方が望ましいのではないか?と思えた。社会から切り離されていない、社会に溶け込んでいるものとして描かないと。「レズビアンやゲイは」“こういうものです”ではなく、“いて当然”なものとして描かないといけないのではないか。
同性愛者はまっとうに生きている。すぐ近くにいる、どこででも生きている人たちなんだということを描いていかないとダメだろうと思う。
会場からの質問
Q「「レズビアンと思われてもかまわない」というお話があったけれど、どうしてかまわないと思えたのか」
A「男女の恋愛を描くと対等な感じがしなくて違和感があった。女同士の恋愛なら対等に向き合ってる感じがした。これが描きたいと思った。当事者と思われるかどうかということはまったく気にしてなくて、それよりも「いい作品が描けるかどうか」しか考えていなかった。」
Q「やまじ先生の描く男性が大人で日本にはいない感じがする。モデルはいますか?」
A「モデルはいません。男性はやはり少女マンガ出身なので、自分の考える理想の男性というか、大人の男性です。美しいものが好きなので、美しくないものは描きたくありません。」
トークショー終了後のサイン会
「女の子がいる場所は」にサインしていただきました。
なんと!初めてのサイン会だったそうで。ものすごいレアな機会を得られて感謝です。この時、やまじ先生と少しだけお話させていただくこともできました。
※「BL研究者によるジェンダー批評入門」の方は私、電子書籍なもので、サインしていただくことはできませんでした。残念だし、申し訳ありません‥という気持ちでひっそり帰りました。
全体の感想
やまじ先生のクリエイター魂に圧倒されました。とても強い意志をもって作品をつくりあげておられることがビリビリと伝わってきました。綿密な下調べ、ディティールへのこだわりをもって作品をつくられていることも併せて伝わりました。
作品を読んでいると、私には、破綻のないよう、嘘をつかないように細心の注意を払われているように感じられました。たとえば「LOVE MY LIFE」だと肉体に嘘がないし(身体のよじれとか胸がぺたんとか)、エロティックなシーンで直接描かれていないところで何をしているかわかります。でもシャープで、いやらしい感じがしません。
一方、「マンガならでは」のエンターテイメント性を失わないように描かれています。マンガって、リアルさとエンタメ性のバランスって本当に大事だと感じています。
私がやまじ先生の作品が好きな一番の理由は「静かさ」です。動きが少ないと思われるかもしれませんが、そこが魅力です。そして何を描かれても後味が悪くない。希望がもてます。
レズビアンものを描いていた『FEEL YOUNG』時代からずっと連載で追っていました。やまじ先生は今の百合の活況とは離れた存在だと感じています。やまじ先生のような百合作品は今は読むことができない。先駆的と言っていいと思います。
また『コミックビーム』に移られてからは、心理的に怖い作品、レイプを取り上げた作品なども描かれているのですが、本来は私はそういうタイプのものは苦手なのですが、やまじえびね先生の絵だとドロドロとした感じがなく、怖いけれど惹かれてやめられないところがあります。
「女の子がいる場所は」でブレイクされ、手塚治虫文化賞短編賞を受賞されて、長年のファンとしてはたいへん嬉しかったのですが、同時にこれからどんな作品を描かれるのだろうと思いました。今回「今、同性愛者が登場する作品を描くなら」という前提でお話をされていて、それは「もう描けない」「描かない」という意味ではなく「描くとしたら」というハードルの高さや気をつけなくてはならないことについて語られていたのだろうと思います。
次回作をお待ちしています。
溝口先生、ありがとうございました。
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