「お客のいぬ間に」 #3
#3 缶コーヒーよりうまい
ある日、初めていらっしゃったお客さんがコーヒーを一口飲んで、
「あーうまいねぇ~ やっぱり違うもんだねぇ。オレ、長いことタクシー運転手やってるから、缶コーヒーを毎日飲んでるけど、全然違うね。このコーヒー、ほんとうまいよ」
と目を細めて褒めてくれた。
とても嬉しかったわたしは、そのことを別の人に話した。
すると、その人は、
「失礼だよね~ 缶コーヒーと比べるなんて」
と言った。
それはそれでわたしのコーヒーを擁護してくれてのことだったろうと思うが、わたしはとっさに
「いや、めっちゃ嬉しかった!」
と、運転手さんに褒められた時の素直な気持ちを言えなくなってしまった。
味覚は極めて個人的なものだ。
食べ物の好き嫌いにはじまり、食物アレルギーの有無など、まさに千差万別だ。
各人の遺伝的な体質や性質に加え、食の経験の蓄積、さらに食する時の体調や気分も影響するから、味覚を他者と共有するのは実に難しい。
しかし社会生活を送る中で、ある程度の部分で他の人との了解を得ようと、わたしたちは共通のコトバで通じ合おうとする。
では、問題です。
アナタは今、友人とラーメンを食べています。
アナタはその店のラーメンは、正直そんなに好みではありませんでした。
しかし、一緒に食べている友人に
「わっ、めっちゃ美味い!」
と、先手を打たれた場合、正直者のアナタはどう返しますか?
A「え、マジで?どこが?」
B「うん、カップラーメンよりうまいね」
C「うん、星3つかな」
D「・・・・・」
Aと答えたアナタは、ばか正直です。
同調なんてどこ吹く風、わたしもそのくらいの胆力を持ちたいものです。
Bと答えたアナタは、自分にウソをつきたくない性格ですね。
でも、周りをご覧ください。
友人、ラーメン店の店主、それに隣りの席に座ってるのはカップラーメンメーカーの営業マンです。この中に嬉しそうな顔をしてる人はいますか?
Cと答えたアナタは、策士です。
満点が星いくつかによって変わる玉虫色な答えです。
しかし「チューボーですよ!」の堺正章ならいざ知らず、友人から「星いくつ中?」と聞かれたら万事休す。店主がじっと聞き耳を立てていますよ。
Dと答えたアナタは、オトナですね。
沈黙は金なりとはよく言ったものです。
ラーメンが美味すぎてコトバが出ないように見えなくもありません。
しかし、周りのみんなは見抜いていますよ。
「あぁ、友人に同感していないんだな…」と。
この場合、正解は
「うん、よかったね!」
です。
「よかったね!」は、あなた自身の思いのようでもあり、友人に対する思いのようでもあり、絶妙なはぐらかしです。
ほんとは
「よかったじゃん(あんたが美味いならそれでいいいよ。あたしゃ違うけどさ…)」
と投げやりな思いだったとしても、友人はあなたの内心に気づかないでしょう。
さらにニコっと微笑みでもしたら、友人はあなたの包容力に失いかけていた肯定感や希望を取り戻すかもしれません。
「芸能人格付けチェック」というテレビ番組がある。
音楽、ダンス、ファッション、盆栽等々、色々な分野で、それが一流かそうでないものかを見極めるというものだ。
わたしも見ながら張り切って、「これ簡単。絶対A!」と言った途端にあっさり違ってシュンとなったり、悔しまぎれに「だいたい、ものの良し悪しをプロかアマかで決めようなんて了見がいけない…」などとおだをあげたりしている。
そんなお題の中でどうしたって共有できないのが、味覚の問題である。
シャトーブリアンだのシャトールパンだの言われてもちんぷんかんぷん、こちとら馴染みがあるのはシャトレーゼくらいだ。
いや、わたしが書きたいのはシャトーなんちゃらを見事に当てるGACKTについてではなく、以前出演したオズワルド伊藤俊介が放った一言である。
お題は餃子だった。
正解はミシュランガイドに掲載された京都祇園の名店、不正解は大阪王将の冷凍餃子、さらに「絶対アカン」枠で司会の浜田雅功の手作り餃子が加わった3択だった。
オズワルド伊藤は浜ちゃんの“絶対ありえない餃子”を揺るぎない自信で選び、見事に惨敗。
番組のルールで「映す価値なし」となった伊藤は、画面から姿が消えた状態で次の一言を放った。
「テレビに映らないでいいから、もう一口浜ちゃんの餃子食わせて~」
それはテレビ史…いや、世界史に残る名言と言って過言ではない。
テレビに映らなくてもいいけど、オレはもう一口あの餃子が食べたいのだ…という渾身の叫びは、格付けというものへの痛烈な批判、味覚は個人特有のものであるという変え難い真実、さらに「映す価値なし」のタレントとしての十分な笑いを持つ破壊力があった。
数十年後、格差社会を象徴するコトバとして
「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない」
と言った王妃マリー・アントワネットと共に、オズワルド伊藤が並び称される日が来るかもしれない(来ないかもしれない)。
わたしの舌は庶民のそれにほかならない。
子ども時代、母が作ったぼってりと分厚い衣の天ぷらがご馳走だった。
大学時代、かつお節とマヨネーズでご飯は何杯でもいけた。
今、日々の晩酌はワンコインのワインやパック酒だが、これがまた十分に美味い。
だから、さらに美味しい酒を飲んだ時は
「あーこの酒、本当に美味いな~ 毎日飲んでるのと全然違うよ」
と、目を細めることになる。
コーヒーもしかり。
どんな凝った表現よりも、タクシー運転手さんの
「あー、うまいね~ いつも飲んでる缶コーヒーとは全然違うね」
といったコトバの方が、実感がダイレクトに伝わることもあるのだ。
でも、缶コーヒーの方が断然美味い時があることを尾崎豊のファンは知っている。
15の夜、盗んだバイクでぶっ飛ばすなら、缶コーヒーだ。
夜の帳の中、覚えたてのタバコを吸いながら飲むなら、缶コーヒーだ。
こんな時、ハンドドリップで丁寧に淹れたコーヒーはいらない。
闇の中、100円玉で買えるぬくもりなら(※現在は120円~150円くらいする)、缶コーヒーだ。
その時に飲んだ缶コーヒーが何だったかを、アナタは一生思い出すことはないだろう。
しかしその味は忘れない、
それは自由……
あ、お客さんが来た。
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