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雲外蒼天(未完)

Who was peace?
Who was justice?
The Hope, She was go over from the sky.
……あちこちに転がるさまざまな文献を読んでみると、人類が最後に体験した世界戦争は、それはそれはひどいものだったらしい。
例えば地球は、とりあえず今はまだ『球』という形を守って未だグルグルしてはいたが、地球表土は昔のそれとほとんど違っていて、土は超高温兵器のおかげでほとんどが硬質ガラス化していたり、また海も、一部は完全に干上がって海底が露出していたり、もしくは大陸そのものがなくなったり、また別の場所では、新しい大陸ができたりしていた。
雨もなく、風もなく。
広大な荒れ地を覆うのは、放射能を帯びた真っ暗な雷雲と、成層圏のはるか上を覆う、白いぼんやりとした霞だけ。
太陽が雲に隠れてから、もう百年は経っていると思うが。
雲は、いつ晴れるのだろうか?
 それを観察できる人間は、今はもういない。
「……あー。オッドボールツー、助けてくれ。暇すぎて死んじまう……」
でも人間はいた。
干上がった海から遥かに離れたガラスの荒野の奥の麓に、巨大な地下核シェルターを利用した巨大地下世界を築いていて。
地下深くで、未だどこかの誰かと戦争を継続しながら、人類最後の楽園を楽しんでいる。
『……』
「だーれかいないのかーぁ……」
外部との通信が途絶えて、もうずいぶんと久しい。
外部に生やした通信アンテナから外に向かって『誰かいますか』の通信を打ち続けても、誰からも何も返ってくる訳でもなく、人類は見えない絶望と共に地の底に向かって繁栄の矛先を向けているわけだが。
でもそれは、いつも地表を駆け回っている磁気嵐のせいでもあって。
人類は、自分たちが地球に遺された最後の人類である事を、未だ知らないまま休戦状態を継続しているわけだが。
「ホントにこんな空に誰かいるのかよー。ええー? カズマーぁ」
―他の土地に存在する『敵性地下コロニー群』は、実はずっと前に消滅してしまったらしい―
まことしやかな噂が、もうずっと前から町に流れてもいる。
『……』
敵のない戦争を続けることに、何か意味なんてあるのだろうか。
経済は停滞し、スラム化した闇区画は増えていく一方。
地球最期の人類達は、暗い地下世界の閉ざされた世界で、未だ見えない敵との戦いを繰り広げていた。

「……あれ、カズマ死んだ?」
『生ーきーてーまーすーっ』
弱い日の光に照らされながら、今日も乳白色の超最先鋭戦闘機が空を飛んでいた。
アークエンジェル。
人類最後の人工地下都市群が持つ、世界最強の戦闘機。
そしてアークエンジェルを地球で唯一保持する、世界最強の軍事組織ジオノーティラス軍所属の、オッドボール飛行小隊。
同じく世界最高峰の偵察機であるデュアルファングと混成運用される、ジオノーティラス軍隷下の実戦部隊の一つ。
―異常ナシ―
 ハヤミは幾度目かの……もう数なんて数えていないが……大きなあくびをして、小さくうなる。
 地下要塞都市ジオノーティラスのセントラルコンピュータの端末でもある、アークエンジェルのマザーコンピュータはいつも同じ言葉しか提示してくれなかった。
「カズマ。緊急事態だ。暇すぎてマジで死んじまう。小隊長として緊急事態を宣言したい」
 レーダー表示もかねるディスプレイには、いつも通りの表示が緑色で点滅しているだけ。
マザーコンピュータの端末の一つ、アークエンジェルは今日も正確な飛行ルートをたどっている。
他の分隊も、この空のどこかをハヤミたちと同じように飛んでいるのだろうか。
……世界は、レーダーで全てを見るにはあまりにも広すぎる。
ハヤミはふと、高々度を飛ぶアークエンジェルの窓ガラスをぶち破りたい衝動にかられた。
『オッドボールツー、宣言を拒否します。なあハヤミ、お前、今俺たちがどこで何してる人間か知ってっか?』
無線から、いつものカズマのカリカリ感が聞こえる。
空はいつも、異常なし。
ハヤミはコクピットを破壊しようと腕に込めていた力をフニャッと抜いた。
「暇っ! あーうーあーうーあー、暇すぎる……カズマぁ、きっとアレだ、俺たちは間違ってたんだ」
『うるっせーなー。お前は壊れたレコードか何かか』
「だァっ……なあー、この俺に、この何もない空で、何をどうしろと? ええ? 俺たちゃこんな世界で、いったい何をすりゃいーんだー」
『それを探すのが、俺たちの仕事だろーが』
コクピットに吊るされたハヤミのお守り……二つのサイコロは、いつまでも目を定める事がない。
今回ハヤミたちが司令を受けたミッションは “休戦中の敵国が支配する空域を、偵察機と護衛機で強行偵察する”……だったが。
まあ、任務だけイッチョマエなので。
「へーへ。カズマ様は相変わらず真面目なこって」
ハヤミは脱いだ裸足をズボッとブーツに突っ込むと、ブーツの空洞の中で指をピロピロと動かした。
腕はすでに頭の後ろ。
アークエンジェルの操縦桿が自動で動く。
「あー。暇すぎる」
アークエンジェルは、ハヤミたちの母国を統べる超ハイテクノロジー人工知能の末端、半人工知能搭載形の空飛ぶ棺桶。
『……そうか?』
そんな『超』がいくつもついていそうな最強の組み合わせでも、さすがにいない敵を撃つ事はできない。
ハヤミとカズマの共有しているレーダー画面には、いつも『no objective(敵影探知せず)』の文字だけが表示されたまま。
機体が偏り……ついでに、ハヤミの体も偏る。
「あー……っふう」
サインランプが点滅をはじめ、窓の外に見覚えのある雲が見えてきた。
大きな嵐の目。
本日の任務ポイントらしい。
 ハヤミはふたたび、大きくあくびをした。
「着いたおーぉ」
『おう。んじゃー、ちょっくら仕事してくるわー』
ハヤミがイヤイヤ今の時刻を行動予定表に書き込んでいると、その向こうからカズマ機のエンジン音が聞こえてきた。
 次いで視線の隅に、ゴテゴテとアンテナを生やした黒い偵察機の影が飛び込んできて。
黒くて尖った翼の先に、白い空気の渦が二つ…いや、二筋が渦を巻く。
ハヤミはそんな後ろ姿を見ながら、報告書の隅にチョチョイと落書きしてまたポケットの中に押し込んだ。
「無事に帰ってくんじゃねーぞー」
『お前こそ、そのままフラーっとどっかに行っちまえ』
「ンーフーフー、そんな無茶な話はー、俺じゃなくてこの戦闘機様に言ってくれっての」
『おーたーがーいー様ー、だな。じゃ、大人しくしてろよハヤミ』
カズマの機体が嵐の中にと飛び込んでいくと、その後ろに、翼端に生じた飛行機雲がひらりと舞った。
その筋も、すぐにはるか後方に飛んで見えなくなってしまう。
見えてきたのは、大きだけの台風の目。
目は雲の渦の中心に、赤茶けた地上を唯一空からのぞける世界唯一の非移動性低気圧だった。
しかもそのポイントの直下には、ちょうど墜落した巨大な飛行空母の残骸が転がっている。
……それだけ。
本当にそれだけ。
ハヤミはまた大きくあくびをすると、ふたたび足の指をピロピロと動かした。
「……あーあ」
動かしたって何かあるわけでもない。
……本当に、何も無い。
とその時。
『…………ちらテトラ小隊! オッドボール小隊応答せよ』
「んあ?」
静かだった空に、突如聞き慣れない女の声が響いてきた。
『こちらテトラ小隊。オッドボール! こちらが見えるか? 任務中にダラけてるんじゃないよ!』
「あー……なんだミラちゃんか」
声の主は、ハヤミの元同期のミラ・エル・チャンドラー中尉だった。
見れば遠くに、わずかに三機編隊の飛行機雲が見える。
 ハヤミは目を細めて呟いた。
「いっぱしに三機編隊なんか持っちゃってまぁ」
『なにか言った?』
「べっつにー」
かすれた無線の中で、ハヤミの呟きに対して怒ったような声が聞こえてくる。
 というか、ミラ中尉の声はいつも怒ったような声だ。
『まったく。それに、目上の者に向かってちゃん付け?』
「じゃあ中尉殿」
『キミはどうして空なんか飛んでるんだ? 少なくともその態度、とうてい軍人には見えないけど』
ハヤミはシートに倒れたまま、気だるそうに腕を頭の後ろに組んだ。
「前に進んで飛んでなきゃ、飛行機は墜ちちまうもんなあ。航空力学的に」
『まったく。そんな屁理屈ばっかり言ってるから、そうやっていつまでも少尉のままなんだよ。こちらには、こんなものがある』
ハヤミがダレていると、スピーカーからカチャカチャと何かを叩く音が聞こえてきた。
「?」
それでもハヤミがボオッとしていると、今度は正面ディスプレイにポンと見覚えのある画像が送られてきた。
数秒前に撮られたらしい、ハヤミの遠望写真だった。
半分死んでいるような目。
涎を垂らした半開きの口。
 十字の薄い線と距離計が描かれているのを見ると、写真はどうやら敵機撮影用のカメラで撮ったものらしい。
「ほおーお、なかなかいい画じゃん。いつからミラちゃんは盗撮の趣味ができたのさ?」
スピーカーから、数人分の忍び笑いが聞こえてきた。
『自業自得。そんなだらしの無い顔して空なんか飛んでるから』
「へん、なかなかなインファイトですな。ドッグファイトなら、いつでも受けて立つ所存でありますぞっ」
『バカ』
『アッハッハッハ。すまんなぁハヤミ少尉、それは中尉じゃないよ、俺だ』
 ミラ中尉の声におぶさる形で、今度は低く野太い男の声が聞こえてきた。
 レーダーに映る光点の一つが、ゆっくりと左右にブレる。
『久しぶりだなァ、ハヤミ少尉。元気にしてたか?』
 ディスプレイに表示される新しい通信名に、見覚えのある名前が表示されてきた。
アトス・ノア少佐。
部隊中でも古参中の古参で、まだハヤミとミラが同期だったころの二人の教官役でもある。
今はミラ中尉の三機編隊で、初隊長役のミラを後見役として部隊を補佐しているとの話だったが。
「……ああ、アトスさんか。子守役お疲れさまです」
『フフフ。どうだい、そっちの空は』
「特に何も。無さ過ぎて疲れるくらいですよハファ……」
『まあ、そうだろうなぁ』
 ハヤミは通信中に、たまらずでてきたあくびを両手で抑えた。
 それでもあくびが指の間から漏れだすが、アトス少佐も特にハヤミをとがめる事は無い。
『……』
「何かあったんですか?」
『いやなに、俺たちも暇だったんでね。ミッションが終わったんで、帰投のついでに君たちが近場にいるって知ったんで、こうやってわざわざ近くまで見に来てみてただけなんだ』
「そりゃご苦労さまです。おかげで自分も、眠気がバッチリ醒めました」
『そうかそうか、ハッハッハ』
窓に映る互いの飛行機雲が、少しずつ前後に進んでいった。
昔はそれでもだいぶキツい教官だったが、最近はハヤミの暴言にもまったく怒る事はなくなった。
『……フーム』
「少佐、今日はなんだかため息が多いですな。なんかあったんスか?」
『んー? ふふ、いやなに、大したことない、小さな悩みだよ』
「またミラちゃんが何か悪いことをしたとか?』
『まあ、そんなとこだなぁ』
アトス少佐の小さなため息がまた聞こえ、しばらく無線は静かになる。
そこに、どこかで誰かが、コホンと咳払いをした。
『そんな世間話は、基地に帰ってからでよろしい』
「だ、そうですアトス少佐」
『ハッハッハ、いやいやそうだったそうだった』
『まったく』
無線の後ろで、ふたたび笑い声が聞こえてきた。
 無線の声は、どうももう一人分いるらしい。
 レーダーにも、二機に少し後れをとる形で空を飛んでいる、もう一機分の光点も光っている。
『私のテトラ小隊に、この前入った新兵がいる。兵練維持、異種間格闘空戦の演習と小隊間オリエンテーションも兼ねて、オッドボール小隊との模擬空戦を提案したいと思っているんだ』
「提案? それは俺じゃなくてオペレーションに言う事だろ?」
『うん、まあね』
少し無線が静かになり、ミラ中尉の声が「おい」と誰かを促すと、今度は聞いた事のない若い男の声が聞こえてきた。
『先日テトラ小隊に配置されました、テス・ヴァニエフス曹長であります! よろしく、お願いします!』
「……おおー? なんだお前テトラ小隊に配属されてたんだ?」
『えっ』
『んー? なんだ、お前ら知り合いか?』
「いや知り合ってはいないけどねー」
ハヤミは狭いコクピットの中で、ドスッと足を組んだ。
ジッパーを緩めたフライトブーツが、足の先で軽く揺れる。
「新兵訓練で、いきなり教習機のエンジン吹っ飛ばした奴。けっこうな噂だぜ?」
『……!!』
『ん? あの事件、テス曹長だったのか?』
「リサーチ不足だな、新米中尉さん」
『うるさいなー』
いつも通り、無線からは強気と言うか……なんだかよく分からない『ミラの負けん気』が飛んでくる。
ハヤミはシートの上でゴロゴロしていたが、なにを思ったか突然、横に置いてあるヘルメットをガバリと腕に抱え、そのまま自身の頭に素早く被せた。
ゴーグルの中には、いつも現実世界と連動した空間が広がっていた。
ゴーグル内では、空間に浮かぶ形で様々な大気諸元データがデジタル記号で表示されているが。
ハヤミはそれらをアイセンサーを使って、MC……マザーコンピュータに一つの命令を出した。
後ろから、フオンと排熱ファンが回る音が聞こえてくる。
いくつかのプログラム起動の確認が表示されると、今度はハヤミの前に現実空間と瓜二つの『拡張空間』が広がった。
次いでハヤミは、教練実習プログラムの“プログラム・フォックスハウント”を起動する。
『フーン。なるほど、あの話は曹長だったのか』
ヘッドフォンからミラ中尉の声が聞こえてきたが、ハヤミはミラの声を無視して更にいくつかの指令をMCに送った。
次いで疑似空間がリアルタイムで更新されていき、表示と同時にダミーターゲットが再現されてくる。
徐々に疑似空間が構築されていくと、ハヤミの目の前にはいつもの空が、まるで本当の空のように次々と広がっていった。
構築された疑似敵機が自由自在に仮想空間の中を空を飛びはじめ、と同時にヘッドホンからはいつものミラの声が、紙をペラペラとめくる音と一緒に聞こえてきた。
 当たり前だが、仮想空間と疑似敵機……ダミープログラムが見えているのは、バイザーを被っているハヤミだけだ。
「そ。コイツはこの前の演習で、我が軍でも超珍しい実機墜落をしてくれた、超々問題児様だぜ」
『フォックスを落とそうとして?』
「それは本人に聞いてみればいいじゃないかー。なあ、テス曹長?」
『……』
『でもキミは、曹長より先にもうちょっと酷い事故を起こしてる先輩さんだから、じゃあ超々々問題児って所かな?』
 目の前の仮想敵機……フォックスがグルリと機体を一回転させる。
グラフィックの中で、まるで本物のパイロットがいるように頭を動かすフォックスの、仮想データ。
ハヤミはフンと鼻を鳴らした。
「じゃあミラ中尉は、その超々々問題児のお友達って事で」
『……いい迷惑だ』
「わーはーはーっ」
フォックスは空の中で、何かを捜しているようだった。
コクピットの中の頭も、辺りを見ながらグルグルと頭を揺らしている。
ひっきりなしに動き続ける補助翼。
戦時を生き、いつまでも敵を追い続けた伝説のパイロット。
今はもう空を飛んではいないが、データとなった影だけは、未だに「無いはずの空」で「いないはずの敵」を捜し続けているわけだ。
ちなみにハヤミの遺伝子も、半分このエースパイロットからできていた。
……いたが。
「なあ曹長。お前さん、フォックスを仕留められたか?」
『えっ!?』
 新米パイロットは、本能と言うか、伝統と言うか、教習の中で一度以上はフォックスと対戦する事になっていた。
 疑似空間内で。
 そして、一度は全員地面にたたき落とされる事になっている。
「仕留める前に、いつの間にかエンジンを吹っ飛ばされてたんじゃないのか?」
新米が最初に体験する試練は、まずフォックスに追い付く事からだった。
『いや……た、たまたまですよ! 追いかけてたら、先にエンジンが限界に達したんです! あともう少しだったんですよ!』
「で、いつの間にかエンジンが吹っ飛んでいた」
 空を飛ぶフォックスが、太陽の片鱗でキラリと輝く。
 遥かに上空で索敵機動に入るフォックスは、すでに白い靄の一部と同化していた。
いるべき敵の上を行くために、敢えて高度をとっているのだろう。
敵はもう、どこにもいないのに。
『……でっ、でも弾は全部避けられました!』
「フォックスは一発も撃ってないだろう?」
『……はい』
遥か上空でピタリと動きを止めるフォックスを見ながら、ハヤミはボオっと過去の自分を思い出してみた。
ほんの少し流れる沈黙。
いろんな事があった。
機内にまた、いつもの静かなエンジンと呼吸音が響き始める。
「……だ、そうです。懐かしい話なんじゃない? ミラ中尉・ど・の?」
『フン』
「アトスさんは?」
『んー? ああ……そうだな。とてもとても、懐かしい話だ』
『でもそんな文学を始末書に書いて本当に降格されてる様なバカじゃ、ない』
「そう言うなよミラちゃーん」
『しっしっ』
『ううううううー……』
今度は無線から、犬か何かが唸るような声が聞こえてきた。
『悔しいんです。俺は、めっちゃ悔しいんです!』
唸り声は、テス曹長のものだった。
『訓練ではちゃんと数字は出てたのに、墜とせると思って実際に戦ってみたら、戦うどころか何もしない内に勝手に落ちてて。何もしなかった同期達が昇進してるのに、自分だけまだ訓練生で空を飛ぶ事になるなんて……』
「うーむ……まあ……なあ」
 無線から聞こえる嗚咽と涙声を聞いて、ハヤミもつい黙り込んでしまった。
 たしか、昔の自分にもそんな時期があった。
あまり思い出したくないが。
ハヤミがパイロットを目指した理由だって、テス少尉とそんなに変わらない。
『空で一番になる!』そう、盲目的に信じていた。
だから入隊して。
フォックスがいて。
ハヤミはフォックスを追いかけて、戦いを挑んで、負けた。
ハヤミも一度、地上に落とされた。
そこまでは皆と同じだったが。
 そういえばフォックスは、最初からどこの空も飛んでいなかった。
『ハヤミ少尉は、なんで空を飛んでるんですか?』
「……んー?」
 どこかで聞いたことのあるような質問だ。
『また、何かで一番になるためでしょう?』
「おいおい、俺はそんなことはこれっぽっちも……」
『えっ違うんですか?』
「いや、えーっと……」
 ハヤミはポリポリと顔を搔いた。
 昔は、ハヤミにもそんな事を言っていた時期があったから。
『曹長、あんまりハヤミをいじめるなよ。少尉は、墜ちるために空を飛んでるようなものなんだから』
「……ほっほーお。なかなかウマい事言うねミラちゅあーん? 帰ったらちょっと、酒でも飲みながらゆっくりお話ししようか」
『……それ、デートの誘いのつもり?』
「それも、あるかも」
『じゃあ却下』
「あっはっは」
 ハヤミの今までの話は、すでに町では軽い伝説と化している。
ハヤミに言わせれば「そんな昔のこと」といって苦笑いするだけのことなのだが。
「……もしかして」
『……』
ふとハヤミはある事を思いつき、バイザーを持ち上げて、脇にあるキーをたたいて過去の戦歴を確認してみる事にした。
いくつか指令を送ると、MCを管理するアークエンジェルの下部廃熱ファンが静かに回りだす。
「おおー、なーんか知らないデータがたくさん増えてらぁ。なあミラちゃん、そんなに俺に勝ちたいのか? ドッグファイトじゃ勝てねーからって、今度は集団戦か? 大人げねーぞぉー」
『んなっ!?』
「ふぉーふぉーふぉー、なんかミラちゃんの脈拍が……」
訓練当時のハヤミは、対フォックスのデータとしてはそれなりの成果を出していた。
代償として“ジオノーティラス軍初の実機墜落事件”の歴史を残しているが。
この件も、ハヤミの伝説の一つとして未だに多くの人間に語られている。
 当時も今も、ハヤミは「伝説なんて作る気はなかった」話なのだが、ジオノーティラスでは起こる事件は元々何もないも同然の世界なので、ほんの少し目立つような事件があるとそれは本人の意志に介さず、すぐに伝説と化してマザーコンピュータに記録されていった。
 ……と、「伝説」と言うとまるで何か偉いことのようだが。
『こ、こいつっ……』
「ふははー、同期の目をごまかす事はできないぜぇー」
伝説と伝聞は、この世界では大した違いはない。
だからジオノーティラスでは生きた伝説が大量に存在していたし、またその伝説の多くは、伝説を作った本人がまだ存命の内に『伝説化』させられた物が大半だったりする。
ハヤミの伝説もその一つ。
マザーコンピュータのデータベースの一つにその『伝説』の一部として記録され、一部の熱狂的なファンの間ではハヤミのこの戦果も一種の「エンターテイメントの一つ」としてなんども空戦を再生再現する者がいた。
だが、正しくはハヤミのデータも、フォックスのデータと同じ『パイロット育成のために一部都合良く改変されたコピーデータ』なのだ。
プログラムそのものは一般公開されてはいるが、本来はこちらの使い方が正しい。
 のだが。
『ハッハッハ、相変わらず仲がいいな二人とも。まあまあ少尉。まあ、ちょっと待ってくれ。実はこの模擬空戦なんだけどな、提案者は実はオレなんだよ』
「……んええっ? アトス少佐が?」
『そう。実は俺もハヤミ少尉の戦歴を見てきてるんだが。……ハヤミ少尉、どうも君は、単機同士での乱戦よりも小隊単位の空戦が圧倒的に苦手なんじゃないかなと見てね。後衛のカズマ少尉の事もある、チーム戦で何かあるなら、それを使って君たちが新しい技術を見つけてくれるんじゃないかと期待してみたんだ。どうだろう?』
「はあ……そう、なんスか」
『単機とはいえ、フォックスにあそこまで迫れるパイロットは君くらいしかいない。カズマ少尉もほぼ互角の腕を持っている。だが、二機での模擬空戦だとあの結果だ。あれからだいぶ時間も経っているが……二人とも、もうあれから充分成長してきてるんだろう?』
「えっ……えっ?」
『君たちが少尉の位に甘んじている状況は非常に勿体ない。そこで、我々が当時のフォックスの代わりとなって、仮想敵となって君たち二人と戦ってみたいと考えた』
「ええっ!? 我々が叩く? って事は新米も含めてエート……」
『三対二、だな。フォックスよりは弱いかもしれんが、今までずっと私が手塩をかけて育ててきた小隊だ、そうそう簡単には負けはしないつもりだよ』
「ええええっ!!??」
『こちらは新人のテス少尉とミラ中尉がアタッカーで、バックアップには私が着く。そちらはハヤミ少尉とカズマ少尉か』
「ちょ、ちょっと待ってください!! でもそれって、自分じゃなくて空域を担当するオペレーションに相談しないと……」
ハヤミはコクピットの中で前のめりになった。
『んふふ。中隊長も基地司令も、この話をしたらずいぶんと喜んでおられた。小隊単位の空戦は軍でも久しぶりだからな。当日のギャラリーは期待してもいいと思うぞ、ハヤミ少尉』
「ええええええええええ!!!!????」
『ハッハッハ。じゃあ、そういう事で。後の事は私がしておくよ。君たちはミッションが終わったら、まあゆっくり飛んで帰ってきたまえ。ハッハッハ』
 アトス少佐の笑い声が無線から聞こえてくると、さっきとは違う雰囲気の笑いが混ざってきた。
『フフン。自業自得だ、バカハヤミ』
「あっき……み、ミラぁぁぁぁ…………この裏切り者ォ!!」
『敬称は?』
「ちゅ、中尉……ぃぃぃぃめぇぇぇぇ……」
『バーカ』
『ハヤミ少尉! 今度は自分も一緒に戦わせていただきます!』
「かっ、勝手にしやがれ新入りっ!!」
『へへへっ』
 遠くを飛んでいる飛行機雲が、だんだんハヤミとの距離を開けてきた。
 だんだん、無線の中にもノイズが混ざるようになってくる。
そろそろカズマが雲の下から戻ってくる頃なので、ハヤミはこの会話が聞かれていないかと気を揉みながら周囲を見回してみたが。
 だが、カズマの影はまだ見えていない。
『当日を楽しみにしているぞ、居眠り少尉君。じゃあ、グッドラック!』
『いいかいバカハヤミ! 兄さんにも伝えておいて! アンタたちも、そうやっていつまでもず……』
ガッ!
だんだん大きくなってきた雑音が急に大きくなり、ミラ中尉の無線を激しくつん裂いて、突然無線は切れた。
「あっ! もしもし! もしもし! ミラぁ!!」
無線はまた、いつもの微弱電波を拾うだけになった。
大気中のわずかな静電気達が、微量のノイズとなってふたたび無線を鳴らしはじめる。
「あぐ……くそっ」
いつも通りの、白い世界。
何も聞こえない無線。
―no objective(敵影 ナシ)―
会話が始まった時とまったく同じ言葉が、マザーコンピュータの意思として正面ディスプレイで明滅している。
ハヤミは歯ぎしりした。
「くっそ! あいつら言いたい事だけ言ってまた逃げて行きやがった!」
 だが……気がつくと、どこかから呼吸音が聞こえていた。
 どこかで誰かが聞いている?
『聞ーいーてーおーりーまーしーたーよーっ、ハヤミ少尉さーん』
正体はカズマだった。
突然近くの雲が大きく盛り上がり、雲の中から黒い飛行機がゆっくりと浮かび上がってくる。
ハヤミの戦闘機のすぐ近くまで機体を寄せてくると、そのまますぐ後ろにピタリと翼を納めた。
『人のいない所でー、君はどうも大変面白そうな話をしておりましたなあー』
「おっ、俺じゃない! 誤解だカズマ!」
『どの話か分かってるー?』
振り向くと黒い偵察機のコクピットに、カズマの恨めしそうな顔が見えた。
ガラス越しなのに、なぜか視線がとても痛い。
確か、カズマには目が無いはずだが。
『いい加減にしろよハヤミ? 殺されたいのか?』
「えっ、うー……あー……」
『ったく、お前のそのおチャラけた性格、早く何とかしろよ。早く彼女でも作るなりなんなりして、自由にすればいいじゃないか』
「いっ、いや! 俺は何もしてないんだ! 誤解だって!!」
『なーんーのー話ーだ?』
「うっ……ごめん。よく分からんが」
『ったく。お前はいつか殺されるぞ? 俺とか、俺じゃない奴に』
「そりゃどー言う事だよ」
『いや、分からないんなら分からないで。はわーぁ……はーあーあ』
「……ん。そういや、地上はどんなだったんだ?」
『んー、特に何もなし。ハヤミじゃねーけど、地球はいつも平和すぎる。誰も何も反応しやしねぇ』
「ふーん……」
『うん。……そう、それはそれ、さっきのアトス教官の話なんだけどな、俺は正しいと思うぞ』
「ん? さっきって、どれ?」
『お前は鳥頭かよ。アトス少佐の、チーム戦の話の事だよっ』
カズマの怒ったような声がして、一緒に紙束が投げられる様な音も聞こえてきた。
『さっき教官が言ってたろ。お前らが話をしてるときに、暇だったからデータベースに照会してお前の戦歴を調べてみてたんだよ。確かにお前、一対一ではけっこう強いのに、団体戦になると途端に負け数が増えてるなってね』
「えー、俺ってそんなにヒドい?」
『酷い。あの時の反省が、今も、まっっっったく活用されてる形跡がない』
キーボードを叩く音が聞こえ、同時にペラペラと紙を擦るような音も聞こえてくる。
ハヤミはブウと頬を膨らませた。
「あんだとー、なんか文句でもあんのかよー」
『……無いとでも思ってんのかコラ。お前は、誰が、誰のおかげで、なぜ一緒に謹慎処分されてたのか、なーんにも覚えてござらんのか』
「えー。うーん……でもほら、過去は過去の話じゃーん」
『コロスゾ』
「むう」
ハヤミの機体が操縦桿を動かし、ふたたび機体が大きく偏りはじめた。
ハヤミは腕を組んで正面のディスプレイを睨みながら、体ごとシートで偏る。
『お前はいつもそうだ。そうやって、いつも目先のことしか見てないし考えてない。お前は何か、自分が今まで落とされてきた状況を一つでも覚えてるのか?』
すぐ隣を並走する形で、カズマの機体も旋回運動に入った。
そういえば、カズマも手放し操縦なのだろうか。
 アークエンジェルの自動操縦は、いつまでも正常らしい。
「ウーン。後ろから撃たれてた」
『バカ、そりゃ当たり前だっつの。戦闘機が前からミサイル撃たれてどうするんだよ』
「……横?」
『あー。もういいもういい』
カズマの無線が一瞬静かになり、次に激しいタイプ音が聞こえてくる。
何か必死に作っているのだろうか。
しばらくハヤミがボオッしていると、今度は無線越しに何かの音楽が聞こえ出してきた。
聞こえてきたのは……これは、教育番組のテーマだ!
『よぅし! いいかいハヤミちゃん。今から君に、とっておきの魔法の言葉を教えて上げよう』
「おー! カズマおにーちゃんだ!」
『いいか、バカは黙って人の話を聞け』
「ブフッ! クスクスクス……はぁーい」
教育番組の音楽は流れたまま、今度は正面ディスプレイに手書きの画像が送信されてくる。
ハヤミは早速、目をキラキラさせて正面ディスプレイに見入った。
『いいか、あの時のおさらいだぞハヤミ。ここにターゲットAがいる。お前はこの後方に位置し、ターゲットをレーザー照射でロックオンし、ミサイルを撃つ。この飛行機がお前だ。いいな?』
「ぶふふッ! はーい」
『ターゲットAは回避機動を繰り返しながら、ハヤミ機のロックオンを外そうとする。その時間を約十秒と設定しよう』
ハヤミのディスプレイに、「A」と大きく書かれたクマさんがやってくる。
コクピットの中で、わざわざ台紙に書いた物なのだろうか。
その後ろから、ハヤミがずっと前にオペレーションからかっぱらってきた飛行機の人形が静かに近づいてきた。
 あまりの用意周到さに、ハヤミはクックックと声を殺して笑った。
『その間に、ハヤミ機の後方に、レーダー無照射のターゲットBがステルス状態で近づいてくる。これがお前。こっちのは新しいターゲットB……ってお前、話聞いてる?』
一度飛行機人形がピョンと跳ね、次にその後ろからキリンさん人形がやってきて、ハヤミの飛行機にキリンがガブッと襲いかかる。
 ハヤミは大爆笑した。
「ブッククク……ブァーッハッハッハッハッハ!!!!」
『要は! お前はいつも前しか見てないから! こうやって……』
「後ろから撃たれるで合ってるじゃないかー!」
『……いやいやそうじゃなくて。あのな?』
無線のカズマの声がふたたびイライラしだした。
『お前はいつも前しか見ないで空を飛んでるから、ここでお前がターゲットAを仕留めようとしているときにィ……いいか、この時間! この十秒の間で! 後ろから別の敵がやってきて、お前を撃……』
「なるほど!」
ハヤミは両手を打った。
「つまりもっと速く、このクマさんを落とせば良いわけだ!」
『……いやいやいや、それもそうなんだけど』
「もっと速く飛んで、クマさんもキリンさんも落とす!」
『いやいやいやいや、だから待てハヤミ、ちょっと待』
「ミラ達に負けない! 新米にも、教官にも! もっと速く! よし、今から特訓だ!」
『待てっつってんだろバカハヤミ!! ああん!?』
無線からカズマの怒声が聞こえてきて、同時にディスプレイからクマさんを乗り越える形でカズマの顔がドアップで映されてきた。
カズマの顔は怒っていた。
というか、いつも不機嫌なような顔をしていた。
背景の音楽は、まだ教育番組のテーマのままだ。
『人が言いたい事があるから、こうやって教えてやってるんだ! お前はいつもそうだ! いいから黙って人の話を聞け!』
「……でもようカズマ?」
『だァーッッッッ!!!! お前には日本語というものが通』
「いやいや違うんだカズマ。俺には難しい事なんて分からんさ。だからさ、今回も、またいつも通りの各個撃破でいいんじゃねーのかってゆーの」
『それを毎回繰り返してるからお前はいつまでたっても進歩がないんじゃないのかっ!? アアン!?』
「いやそんな事ねーぞ?」
ハヤミはバイザーを降ろし、足を組んで、ふたたびシートに転がりつつ空を見上げた。
上では、相変わらずフォックスが白い空を飛び続けている。
「あれから俺も、だいぶ強くなった」
『ほう! 聞き捨てならねェ! ……何にも成長してねー証拠じゃねーかゴルァ!!』
「いやいやいやいや違うぞ? 信用しない?」
『信用できない! 教官も騙されてるようだがな、こっちにはデータがある!』
 バシッバシッと、無線から紙束を弾く音が聞こえてくる。
「えーそれはそれだよ」
ヘッドアップディスプレイに表示された疑似空間をグルリと見回してみる。
リアルタイムで更新される疑似空間は、嵐のポイントからだいぶ離れたようだった。
「俺は、機械なんか信用してないぜ?」
そういうと、ハヤミはキーボードをタッチして素早く秘密のコードを入力した。
アークエンジェルのマザーコンピュータがあらゆる不正を感知し、バイザー内に様々な警告を表示してくる。
と、同時に操縦系の何かのロックが解除された。
僅かに自由の利きはじめた操縦桿を握りしめ、ハヤミはさらに色々なコードを入力していく。
 むかーし昔、とある墜落事件を起こした時と同じやり方で。
 当時の事を思い出し、ハヤミは少しだけ、小さく笑った。
『信用するかしないかは、そりゃお前の勝手だがな』
「じゃあデータ上の俺と、実際の俺とでどっちが強いか試してみる?」
最後のキーを入力すると、一瞬サイドパネルの電源が切れて、ふたたび復活した。
見ればパネルを照らす照明が、通常運航の青から非常用の赤に変更されている。
ディスプレイの表示が一切消えていた。
「データ上の俺と、実際の俺がどれだけ違うか、お前と一緒に試してやろうじゃないか」
『はァー? どうやって?』
「演習」
『は?』
「さっきミラちゃん達がやってるって言った演習データも利用して、俺対俺対カズマ、で、いっちょ戦ってみようてんだ」
『ん……おれたいおれたいかずま……ん? お前が二人? どこでどうやって戦うって?』
「ここで! データの俺様とリアルの俺様と! どっちが強いか勝負してやろうっての! データの俺のバックアップにお前が付く! で、インファイト! もしお前たちが勝ったら、俺もその弱さを認めるよ! けどな、俺様は絶対負けねェんだぜ! カズマ、コード七で機体相互リンクをかけてみろ!」
『ななな、何を言ってるんだハヤミ……』
「相互リンクかけて、バイザー覗いて見ろっつの!」
『んむむ』
無線がまた静かになり、そこから微かにカズマがヘルメットのバイザーを下ろす音が聞こえる。
ハヤミはカズマがバイザーをかけるのを確認すると、そっと操縦桿とフットペダルを動かし、機体をカズマの偵察機の真上に移動させ、グルリと機体を反転、カズマを逆さまに見下ろした。
『ふん、なんにもねーじゃねー……うわうわわわわぁぁぁーっ!?!?』
「ばあ!」
向こうで、逆さまのカズマが大慌てしはじめた。
『お、お前が二人いる!?』
「ばか、それ俺のダミープログラムだっつの」
『!?』
逆さまのカズマが、今度はせわしなくバイザーを上げたり下げたりしながらハヤミと誰もいない空を見比べる。
そして、今度はバイザーを上げながら生身のハヤミを見上げた。
『お前も器用なことするねぇ』
「で、これにフォックスを混ぜて一対一対二の巴戦をしてやろうと考えたわけだ。なんか懐かしいと思わない?」
『懐かしくなんか、ないッ! っつかさ、なんでまたフォックスなんか介入させるんだ? 俺とお前だけの対一で充分じゃないか』
ハヤミはまたグルリと機体を一回転させて、背面飛行から通常姿勢に戻った。
空の上では、相変わらずフォックスが高々度で飛んでいた。
敵なんて、どこにもいるわけ無いのに。
「お前が俺と普通に戦ったって、どうせお前は勝てねーだろ?」
『ムカッ! 人のコード勝手に使ってる分際で!!』
「データの俺はハンデだ。で、それにフォックスを第三勢力として介入させる。これくらいだったら、俺とお前でも、まあ楽しい戦いはできそうだわな」
ハヤミは素早くキーボードを叩いて、空を飛ぶフォックスプログラムにニューオーダーを出した。
『ターゲット、オッドボールワン及びツー、ダミーターゲット「ハヤミ」を撃破せよ』
キーを打ち終わってからハヤミが上を見ると、ちょうどフォックスの機影が太陽の光りを反射させている所だった。
「これでどっちが勝つか勝負だ。どうせ暇だろ? 模擬空戦エリアはここ一帯、“嵐の中も含む”で行こう」
『くっそー言いたい放題言ってくれやがって! よーし! じゃあこっちからもだ! もし俺が勝ったら、これからはお前も俺の言う事聞けよ? いいな!?』
「ふっふっふ、ついでにオメーの新しいバイクも買ってやるよ!」
『言ったな!? 上等だコラァ!!』
無線が乱暴に切られると、四筋の飛行機雲が互いに絡み合うようにして雲の中に飛び込んだ。
見える敵と、見えない敵。
それぞれがそれぞれの思いを持って、自由気ままに空を飛ぶ。
ハヤミは雲の中を飛びながらふと思った。
……この戦いだって、端から見たらなんてくだらない戦いなんだと。
この世界も、全ては幻なのだろうか?
思ったが、ハヤミは軽く首を横に振って、ヘルメットのバイザーを深く降ろして軽く嘲った。

雲の中に入ると、ハヤミはすぐにアクティブレーダーをオフにした。
強力なレーダー波を空に照射し続ける事は、カズマの乗る偵察機に向かって「私はここにいますよ」とずっと言い続けているのと同じだからだ。
だがレーダーを切って雲の中を飛ぶ事は、目隠しで何も見えない空をどこかに向かって飛んでいるのも同じ。
簡単な高度計と、機首に取り付けられた風見糸と勘だけが頼りだ。
コクピットにぶら下げられたサイコロが、意味ありげにコロコロ廻り続ける。
ハヤミは大きく息を吸い込んだ。
「……さァって、どうするか」
計器が僅かずつ高度を下げていく。
すぐ直近を、真っ白な稲妻がかすめていった。
バイザーの中は疑似空間だが、現実世界も同時進行だ。
何も変わらない。
ハヤミは操縦桿を少し動かしながら、バイザーを掛けたり外したりをしばらく繰り返してみた。
スロットルを絞り、気流の乱れを極力消しつつ空を飛ぶ。
指先で感じる、風の群れ。
衝撃波の重み。
強さ。弱さ。それらが群れて空を飛ぶ、気流の乱れ。
……何かがいる。
バイザー上では確かにいるのに、外してみると何もない、変な空気と乱れ。
ハヤミは静かにバイザーを掛け直すと、パネルのレーダースイッチをオンにした。
発見。あれはダミーターゲットだ。
「……ぃよしもらったぁ!!」
間髪入れずにトレーニング用ミサイルターレットをオンにする。
ハヤミはダミーターゲットに一気に照準を合わせた。
が……
「クソ! そううまくはいかないか!」
ダミーターゲットはハヤミのレーザー照射を一瞬でかいくぐり、アフターバーナーを吹かして雲の闇の中にふたたび逃げていった。
さすがハヤミのダミー。機体反応が、普通のダミーターゲットに比べて格段に早い。
「ちっくしょー! おのれ、さすがオレ様のダミーだな!」
……だが、何か妙だ。
ハヤミのダミーとは言え、同じくレーダーを全く使っていない状況でハヤミの照準を逃げられるとは?
ハヤミは再び自分のアクティブレーダーをオフにすると、ふたたび暗闇の中を気流の乱れを捜して飛ぶ事にした。
暗闇を、ふたたび雷が大きく照らす。
雷が走る度に、イヤホンにも強烈な雑音が唸る。
「妙、だな。ダミーとは言え、なんで俺を追いかけてこないんだ?」
高度計が、さっきよりも確実に高度を落としていた。
どうやら自分は少しずつ下へ向かって飛んでいるらしい。
ハヤミは操縦桿をほんの少し上に引き上げようとすると、突然ディスプレイに微弱なノイズが走った。
「……おん?」
操縦桿が、わずかに跳ねあげられる感覚も覚える。
胴体が柔らかい何かに接触したような……いや違う。これは何か、外部から操縦系をいじられている……感じか?
お守りのサイコロが、一つの目を示して水平に揺れた。
これは……何だろう?
『……チャラ…………チャランカチャンチャ…………ンチャ…………』
「?」
どこからか、変な音楽が聞こえてきた。
というか、さっきカズマが流していた教育番組のテーマだ。
電波と一緒にカズマの音楽が流れてきている。
その音楽がヘッドセットに響くと……ディスプレイのノイズも一段と酷くなった。
「くっそ、何なんだこれ……」
ディスプレイを拭ったって何かいい事があるわけでもない。
それに、雲の中で黒い偵察機を見つけるのは至難の業だった。
それを見越してカズマも無線を切っていないのだろうか。
余裕な自分を見せつけているのか。それとも単に、機械のスイッチを切り忘れているのか……いや待てよ?
ハヤミは試しに、周辺空域に熱源探査をかけてみた。
熱源あり。前方、これはダミーターゲットの方だ。
 相変わらずハヤミから一定の距離をとって飛んでいる。
「うーん。先にダミーの方を殺るか?」
ハヤミはゆっくりとスロットルを押し上げると、速度を徐々にあげつつダミーターゲットの背後に忍び寄った。
熱源探知だけでもロックオンはできる。
『チャーンチャー……ラチャンカ………………リン……』
ディスプレイに小さくノイズが走る。
今度はスロットルが動きづらくなった。
それにあわせるように、カズマの教育番組のテーマもだんだんはっきりとハヤミのスピーカーに聞こえてくる。
無線を切り忘れているとはいえ、真剣勝負時にこうも耳に触るものはない。
ハヤミはダミーターゲットにロックを合わせると、ゆっくり引き金を引……
……。
違う、これはもしかして!?
『も……ったあ!!!!』
突然無線から、雑音まじりのカズマの声が聞こえてきた。
同時に後方からの強いレーダー照射も始まる。
「あっ!? っくそ!!」
ハヤミは反射的に操縦桿を右に切った。
 だが、ハヤミの操縦桿はビクとも動かなかった。
「な、何だ!?」
『バカめ!! お前には逃げる自由なんて無い!!』
 断続的に聞こえてくるカズマの声と共に、レーダー照射もまったく止まらない。
「このまま落ちろ!」
「くっそォー!!」
ミサイル被弾の秒読みが始まる。
ハヤミは我武者羅に操縦系の再起動を試みていると、その拍子に何かのスイッチが入って、ディスプレイに新しい何かが表示された。
「……!? なんだこれ!?」
表示されたのは、いつもなら使わないはずの磁気探査画面。
探査範囲が、なぜかいつもの五倍ほどに広がっている。
 ハヤミは一瞬自分の目を疑ったが、間断なく続くレーダー照射とその警告音にハッとしてレーダーに映されている新しい敵機マーカーを見つけた。
今までみえなかったカズマの影……
という事は、ここは磁気干渉帯か!
「そういうことか! 読めたぞクソカズマ!!」
ハヤミは力を入れていた操縦桿の手を離し、マザーコンピュータそのものの再起動を試みた。
 一瞬にしてアークエンジェルの翼が解放され、急速に高度を落としてゆく。
「そうと分かりゃこっちのもんだ! 見てろカズマァ!!」
ハヤミはいったん切ったスイッチを、ふたたび入れた。
動かなかったスロットルと操縦桿が、今度は嘘のように自由に動くようになる。
ハヤミはスロットルを一気にフルオープンにした。
『こいつ!? 逃ガーッ……ハヤミ!!』
「うるせえバカヤローッ!!」
ハヤミは操縦桿を握りしめると、台風の目に向かって全速力で飛んだ。
カズマに近づいたら操縦系を奪われる。
カズマは情報戦のプロだ。
でも近づかなければ、敵は落とせない。
どうするか?
ハヤミは、台風の目にらせん状に吸い込まれている風に翼を乗せて、通常では考えられない機速を出した。
飛び交う氷の塊をアフターバーナーを使って飛び越し、上空に出て反転する。
「隠れるのなんて性に合わねぇ! オレ様は天才なんだッ!! 見てろクソカズマ!!」
レーダーのスイッチを入れた。
前方、確認。
カズマも、ハヤミのダミーもいない。
台風から吐き出されるまた別の流れに乗り、さらに機速を上げていく。
アフターバーナーを吹かし加速を続ける途中でダミーターゲットがハヤミの後ろについてきたが、ハヤミのアークエンジェルはすでに勢いが十分についている。
加速の遅れたダミーはすぐに空に置いて行かれた。
 ターゲットロック、オッドボールツー、カズマ!
「もぉらったぁぁぁぁぁ!!!!」
『…………上から……!?!?』
ハヤミは一瞬でカズマガトリングガンで掃射した。
カズマの抜きがけに強い衝撃波がハヤミ機を襲い、と同時に大気中に大小のカズマ機の破片が飛び散る。
それら大小の破片がハヤミの後ろでさらに爆発を繰り返し、すぐ後ろを飛んでいたハヤミのダミーターゲットは破片に巻き込まれる形で誘爆、煙を吹きながら地上に墜ちていった。
……が、それはバイザーに広がる疑似空間内での出来事。
「ぃやっほぉう!! やったぜカズマ! どうだぁ!!」
『ックソ、やら…………た』
ハヤミは無線先に流れる微弱電波を聞きながら、勝利の余韻に浸りつつスロットルを徐々に戻していった。
先程まで戦っていた空域を、緩やかな風に翼を乗せつつ静かに減速していく。
「へへん! 言っただろ? オレ様は機械なんか信用しない、データ上のオレなんかよりも、本物の方が数倍強いって事よ!」
『負け……めるよ、バ………………でデータを修……………………』
「おいカズマ? 無線機の調子が悪いぞ、どうした?」
『………………………………』
ちょっと離れ過ぎたか?
風に乗りすぎて、機速を上げ過ぎていたか。
ハヤミは空中ブレーキを使わないまま、ゆっくりと旋回しつつカズマのいる空域に機首を合わせる。
「もしもーし! カズマ、いるかぁー?」
 カズマがいるであろうはずの空域に突入する。
―You belong airway(あなたは規定航路内にいます).―
 いつもの帰投航路に辿り着くと、マザーはいつもの言葉を繰り返した。
 カズマは、どこにも無かった。
「あれ? もしもしーぃ?」
どこからもあるべき応答もない。
真っ暗な雲の中、ハヤミ自身の声が小さなエコーとなってイヤホンに返ってくるだけ。
「おかしいな? 周波数は……いやあってるな。あれ、カズマー?」
―return to your motherbase(直ちに帰投してください)―
マザー……アークエンジェルはいつも通りの言葉しか繰り返しない。
カズマがいない事が分からないのだろうか。
 ハヤミは同じ言葉しか繰り返さないディスプレイのスイッチを切った。
「あっれ、おかしいな。……はぐれちゃった、かな?」
アークエンジェルの自動航行は完璧のはず。
いったん切っているとはいえ、自動航行でカズマと自分がはぐれる事なんてないはずなのだが。
試しにハヤミは操縦系統をマニュアルに切り換え、雲の上に出てみる事にした。
真っ白な、雲の平原だけが広がっているだけ。
カズマは、どこにもいなかった。
「……もしもーし!?」
ハヤミは無線に向かって、少々強めに問いかけてみた。
 切れた半透明のディスプレイに、太陽の淡い光が映る。
『……』
どこかで雷が鳴った。
「……やばい、マジではぐれたか!?」
けどあれからそんなに時間は経っていないはずだ、近くでカズマも自分を捜して飛んでいるはず……んん?
ハヤミが周囲を見回していると突然ディスプレイが再起動し、正体不明の機影をレーダーが表示しはじめた。
「これはカズ……いや、なんだ、フォックスか。あーもう、なんだよこんな時に!」
フォックスの機影は、正面からまっすぐハヤミに近づいてきていた。
正面から撃ち合うつもりなのだろうか。
さっきの模擬空戦のプログラムがまだ起動したままだったらしい。
ハヤミはキーをたたいてプログラムを強制終了すると、今目の前で仮想空間を映し出しているバイザーゴーグルをグイッと持ち上げ……
「ん?」
バイザーは、すでに頭の上に持ち上げられていた。
「……なにこれ? えっなんで?」
 今映されている……というよりも、今起こっている事は現実での話なのか?
試しにゆっくりとディスプレイを目で見て、確認し、頬をつねって、今自分がどの空間を見ているのかを、もう一度ゆっくりと確認してみた。
レーダー上の機影は、確かにハヤミに近づいてきている。
見間違えではない。
「……本物のフォックス? まさか?」
直線距離とは言え、回避はまだ可能のようだった。
 だがレーダーに表示されている表記は、相変わらず『code name FOX』のまま。
ハヤミは震える指先を動かして、機体の通常航行モードを空戦モードに切り換えてみた。
このまま飛び続けると、三十秒後にはフォックスの幻影とすれ違う事になる。
「……」
レーダーは何をとらえているのだろうか?
ハヤミは汗ばむ掌を、操縦桿を、ギュッと握りしめた。
雲の平原から軽く飛び出していた小さな雲が、一瞬だけハヤミの機体を包みこむ。
その瞬間。
―areat! nodata object approaching!(警告 未確認の何かが接近中)―
無機質な女性の声が、警告音としてハヤミのヘッドセットに流れてきた。
―we have no finded enemies.(新しい敵機を捕捉)―
僅かに聞こえてくる、何かの轟音。
妙なプレッシャー。
小さな影が見えてきた。
「ええっ!?」
次の瞬間、ハヤミのすぐ隣を何かが高速で通り過ぎていった。
白い靄に隠れてよく見れなかったが、でもそれは確かに何かの翼だった。
一瞬の出来事なのに、所々がスローモーションのようにハヤミの頭の中で再生される。
「フォックス!?」
急いで振り返ったがもう遅い。
見えたはずのエンブレムマークも、見覚えのある翼も、もしくはこちらを見て笑っていたように見えたヘルメットも、すべてはずっと後ろに見えなくなっていた。
今見えるのは、いつもの真っ白な雲だけ。
―WARNING! pull up! pull up!(機首を上げろ)―
別の警告が間髪入れず響く。
ハヤミが急いで前を見ると
「うげッ!!?? ななんだありゃあ!?」
今度は別の、全然違う巨大な飛行物体が目の前を飛んでいた。
しかもそれは、何かの巨大な翼を羽ばたかせていて。
巨大な飛行物体? 航空機とは明らかに違う、全然別の何かの生き物だった。
「ぐっ、ダメだ間に合わねェ!!?? うぉぉぉぉぉ!!!!」
ハヤミは羽ばたく翼を見て、直感的に操縦桿を下に向けた。
持ち上がる巨大な翼の真下をハヤミの翼がかいくぐり、どこかで何かが気落ち悪い音を発する。
次の瞬間、風景がグルグルと回りだした。
「あぐっふ!?」
 操縦桿が急に軽くなり、同時にディスプレイに大量の警告表示が点滅し始めた。
―WARNING! WARNING! we lost controll,(警告 警告 機体制御不能)―
「くそっ! ダメだ、操縦不能!!」
電圧低下。
残燃料低下。
油圧低下。
様々な警告が赤い明滅となって、ディスプレイに大量に表示される。
―you have lost PW and your way. System shutdown. you are free. I am sleeping. Good luck hayami.―
「!?」
ディスプレイに立ち上がっている大小様々な警告表示を押し退けるように、突然アークエンジェルが何かのメッセージボックスをポップアップさせてきた。
「うわわわわ!? ええーと!? えっうわっ!!!!」
急いでるときに、訳の分からない表示を突然映すアークエンジェル。
―Play the newgame...―
ハヤミがメッセージを読みきれない内にアークエンジェルは動作を停止、機体は一瞬にして航行不能に陥り、地面に向かって緩やかな滑空をはじめ、次いで急速に高度を落としはじめた。

……………………
………………
…………
どこだここは?
ハヤミは、真っ暗などこかにいた。
いた、と言うよりは、真っ暗な世界に、飛行機そのものが突っ込んでいると言うような。
小さなコクピットランプが、弱々しくハヤミの足元を照らしては消え。
それと同じ間隔で、尾翼にある航空灯もゆっくりと明滅している。
光が灯るたびに周囲の世界が広がって、狭くなり、僅かにその全容を把握することができそうだったが。
「……ここは、どこ、なんだ?」
ハヤミが僅かに腕を動かそうとすると、腕から何かの衝撃が全身に流れ、その衝撃が脳にも走り、忘れていた激痛が瞬時に体中に広がった。
「う……」
痛みが酷すぎて、唸る事すらまともにできない。
ハヤミは動かない腕を懸命に動かし、肩をシートにくくりつけていたハーネスロックをゆっくりと解除した。
ガクリと体に衝撃が走る。
縛りつけられていた全身が自由になった。
だが……体は木の棒になったままだ。
霞む視界を懸命に開くが、何かが邪魔で前が見えない。
ハヤミは軽く首を動かすと……今度はヘルメットを被っていることに気がついた。
バイザーが目の前まで落ちていて、視界を塞いでいるらしい。
息苦しかった。
ハヤミは動かない腕をふたたび動かし、なんとかしてヘルメットを脱ぎ去った。
重いヘルメットが頭から手を介して床に落ちる。
一息つくと、今度は本当に体が自由になった。
でも、いい事は何もない。
「い、つつ……」
……
……
あの時、空中で操縦系統を失った止めたアークエンジェルは、風に流されながら急速に高度を下げていった。
元々機体の設計が空中滑降に向いていない戦闘機だったので、考えれば当たり前の事なのだが。
それでもハヤミは操縦を『電動』から『手動』に切り換えて、流される風の中、必死に機体の操縦を続行しようとした。
だが、マッハで滑空する手動機体制御は、全力で操縦桿を押しても翼が重すぎてピクリとも動かないまま。
動かない操縦桿に必死になってしがみつき、力任せで動かそうとし続けていると……と、そこまでは覚えているのだが、そこから先は、どうして自分が地上に降りられたのか、まだ生きているのかはさっぱり思い出せなかった。
本当に、あの時なにがあったんだ?
一息つき、ハヤミは改めて周囲を見回してみる。
白く光っては消える、弱々しい航空灯を頼りに周囲を見回してみても、分かるのは『世界は広かった』としか思えない闇ばかり。
コクピットは墜落の衝撃で完全に散らかっており、ディスプレイにはヒビが、もしくは今まで自由だった操縦桿は、あらぬ方向へ傾いて固まっていた。
紐でぶら下げられているサイコロが、なんとなく斜めに偏っていた。
そういえば、ハヤミの体も少し偏っていた。
「何が……あったんだい、ハヤミちゃん、よ」
正体不明の何か……フォックスみたいなものと遭遇し、次はすぐに、なんだか変なものにも遭遇したし。
ハヤミはゆっくりと、重くなった腕をキーボードの上に這いずらせ、いくつかのボタンを押してみた。
いつもなら即答してくれるはずのマザーコンピュータは、今はもうウンともスンとも言ってくれない。
「へへ……壊れてやがる。当たり、前、か」
重い腕をドサリと落とした。
自虐的に笑い、透き通ったガラスに自分の弱々しい笑顔が映されると、透かしたように濃い闇が淡い航空灯とともにゆっくりと、行ったり来たりを繰り返す。
「墜ちたのか……」
何があったんだろう。
まるであの時と、何もかもが同じだ。
ハヤミはフウとため息をついた。
「ホント、なんも変わってねーな……へっ、なんも、変わって……ねーじゃねーか」
前に墜ちた時と違う事と言えば、近くに誰かがいたか、いないか。
そんな感じかもしれない。
 あの時は
「いない狐と一人相撲、か。バカだなぁ」
どうして地上に墜ちたのだろう?
ハヤミは、ズキズキする頭をさすりながら考えてみた。
遠い過去を思い出して、今を思い出して、ふとあの時のことを思い出して自虐的に笑った。
そういえば。
フォックスは、笑っていた。
フォックスもハヤミと同じように、こうやって地上世界を見たことがあるんだとか。
非公式だが、フォックスは何度か地上に墜落したことがあるらしい。
いつも鮮やかなディスプレイは、いつもは静かにピントをあわせてハヤミを監視しているカメラアイと共に、電源と一緒に落ちて消えている。
フォックスは生きていた。
生きて、どこかでひっそりと酒を飲んで暮らしているんだとか。
虚空を覗くガラスの表面に、宙に揺れるサイコロが静かに映る。
「……」
と、サイコロを吊るしていた紐の一つがプッツリ切れて、無音の闇の中に、澄んだガラスの音がキーンと響いた。
小さく、遠くまで響くような、音。
開いては閉じる航空灯の灯火に合わせ、遥か遠くの闇の中に小さな灯火が映りはじめる。
「あれ、は?」
陽炎のように、暗闇の中でボオッと光りはじめる小さな明かり。
風が吹いている。
灯は揺れていなかった。
「誰か……いるのか?」
地上に集落があるなんて話は聞いた事がない。
それとも……何かの幻覚なのだろうか?
ハヤミは自分の目を疑ってみた。
航路図の在り処を捜してゴソゴソとサイドポケットに手を突っ込んでみる。
今度はハヤミの指先が、何かビニール袋に触れて引っ込んだ。
「な、何だ? ああ、なんだ……これか」
袋は緊急時用サバイバルパックだった。
 不時着時にパイロットが延命用に利用する、様々なサバイバルキットが収納されているビニール袋。
 ハヤミが袋を持ち上げてみると、袋は何の重みもなくスカッと持ち上げられた。
「……中身が空っぽじゃねーか」
文句を言いながら、ふとハヤミは過去の自分がやってきた悪戯を思い出す。
いや……思い出した。
中身を持ち出していたのは、どうやらいつかの自分だった事を。
『どうせ何にも役にたたんだろう』とたかを括って。
非常用乾パンは、酒のツマミとして拝借。
ハニークラッカーは甘すぎてタイプじゃないので、大人な味の微糖チョコレートに換装済み。
チョコレートは古くなりすぎて溶けていた。
水分生成器……は、賭けの担保で出張中。
『有事の際の暇つぶし』のために入れられたらしい古エロ本も入っている。
あとは、カズマが造ったお手製ゲーム(拝借品)と、専用コントローラー。
でも何かないかとハヤミが袋の奥にゴソゴソ手を突っ込んでいくと……奥の奥から、ペラペラの耐熱アルミシートが一枚出てきた。

「ぐッ! ……なんぞ!! ……さっ、さささ寒いっ!!!」
アークエンジェルの墜落現場は、想像以上に悲惨だった。
暗闇の中とは言え、おおよそ見ただけでも主翼がどこにも見当たらない。
やはり飛行機の中で友軍の救出を待っていた方がよかったか?
振り返ってみても、後ろに見えるのは茶色に溶けかけた異様な物体と、妙に盛り上がった航空機胴体に似た物体のみ。
下部胴体も、機体が地上に胴体着陸した形で地表のガラス質を突き破って鎮座。
たぶん全部削れて無くなっているのだろう。
ハヤミの座っているコクピット部だけは強化フレームで守られていたが、それ以外はほとんど原型を留めているものはなかった。
歪んだ尾翼上部では航空灯が弱々しく明滅している。
 無残な姿に成り果てた陰を見上げている内に、ハヤミは強い風にあおられて、つい握りしめた耐熱シートを宙に飛ばされてしまった。
……
……
『すべての道は、自らが決めた自らの自由なのです』
いつかのハヤミは、学校でこんな言葉を習っていた。
 ハヤミがまだずっと小さかった頃、小学生だった時の事だ。
『世界で起こっているすべての事は、時間に捉われない形で、自分達が想う理想の世界が現実となって再現されているだけなのです』
画面に表示されている映像と共に、目の前をふよふよと浮いている教育AIのカメラが、小さい頃のハヤミに話しかける。
 教科書は動く三次元動画。
 様々な時間を分け隔てなく、人間の過去、現在、未来を、自分たちの姿を投影しつつ、分かりやすい形で幼いハヤミ達に教えてくれた。
 クラスメイトは他に誰もいなかった。
教師役一つに、生徒が一名。
完全な個人授業ではあるが、別にハヤミだけがこんな特別な授業を受けているわけではなかった。
「じゃあ、どうして僕はこの学校でこんなことをしているのですか?」
人化された高性能AIの疑似映像と、対象者しかいない、仮想空間での完全個別授業。
この世界でできないことは何もない。
何だってできるこの世界では。
可能性を秘める存在で、かつ元々の絶対数が少ない『子供』たちは、ジオノーティラスでは宝物と同じ価値の存在だった。
『それは、貴方の親御さんが、貴方のためを思ってこの学校に通わせているからです』
「僕はこれっぽっちも、こんな所にいたいなんて思っていません」
『未来の貴方は、確かにこの場所と時間を望んでいます』
「今の僕は思っていない! 外で遊びたいんだ!」
『それは許されません。ルールです』
ハヤミが騒ぐ事によって、仮想空間が停止する事はよくある話だった。
その度にハヤミの両親が学校……プログラム実行塔に呼ばれ、ハヤミは両親や教師役のAIと共に校長先生……校長役の教育AIと複数面談をする事になる。
AIには、直接的に人間を管理する権限は無い。
だから親が一方的にハヤミの教育方針の主張、要望を説明し、それに対して機械側である学校は選択的に『選べる教育方針』、『ハヤミの過去のデータ』と、『現状の問題点とその克服法』を羅列していく。
整然と並ぶ様々なデータを、両親がタッチパネルで選択していき、最終的にハヤミは『二度目三度目になる、理想的な授業』を選ばされることになった。
選ばされることになったのだが。
自分の未来の方針を他人事として見ていたハヤミには、それらの両親の選択ですら、まるで誰かが予め敷いていたレールの上のように見えていた。
『自由』という選択肢が、予め誰かによって決められている不思議、というような。
ハヤミの親、もしくは『同級生』『ともだち』『まちのひと』も、自分で選んでいる道のはずなのに、なにか画一的な『変なもの』を感じてしまう。
……とまあ色々な事を考えていると、ハヤミはつい何もしないでボオっとしてしまうのだが。
その度に鳴らされる、教育AIの警告音。
『次に進みましょう』
ハヤミは、AIのアイセンサーが嫌いだった。
後になって知ったのだが、ジオノーティラスにあるアイセンサー……コンピュータ達は、すべてセントラルコンピュータであるコアが管理運営しているらしかった。
カメラが見ているこの世界は、すべてがデータとして保存されているものなのだろうか。
たとえばハヤミが、学校をサボるために窓から飛び出し頭を打って痛い思いをするのも、もしくは家が嫌になって一週間以上町をうろついていたのも、何もかもが嫌になって地下世界の非公式チューブレースに参加して死ぬ思いをしたのも、ドラッグに溺れたりしたのも、かけがえのない友人達に出会えたのも、軍に入って空を飛んでいるのも、絶望を味わって空を飛ぶことすら諦めかけたのも、すべては「ただのデータ」であって、すべては「自分がそれを望み、無意識に自分を導かせていた、一つの確かなルート」なのだろうか。
自分が軍に入ったのも?
これが、こんなクソむかつくこの世界が、ただの確率とデータの話だと?
『すべては、自らに導かれた結果なのです』
こんな酷い現実を、誰が率先して自分を導くものかよ。
……
……
「こんな酷い事を、自分で望んでてたまるか……よッ! さささささ寒い」
今、現実空間では、ハヤミは氷の粒の飛び交う嵐の中を一人で歩いているのだが。
平らなガラスの平原では、ハヤミがいくら身を屈めても嵐はまったく凌げそうになかった。
「うううううう……寒い。凍える。うう……本当に人家まで着ける……のか?」
ハヤミは強くなる風を凌ごうと、反射的に近くにあった何かの影に身を投げた。
「くっそ……あのまま飛行機の中にいた方が良かったかな。あの光が本当に人家なのか……分からん。ハァーっ……寒い!」
ハヤミはグルッと周囲を見回して、光があったであろう方向を捜してみた。
光はもう見えなかった。
「……見失ったかな。参ったな、このままだと俺は完全な迷子だぜ。俺は今どこにいるんだ?」
ふたたび周囲を見回し、アークエンジェルの光を捜してみる。
墜落の衝撃なんて、大量の氷の粒に比べれば全然いたくなかった。
……と、ふとハヤミは今自分が隠れている「何か」が、小さな木である事に気がついた。
小さな木が枝を広げ、嵐の中で数少ない葉をざわめかせている。
そのすぐ隣には、何かの十字架のオブジェ。
そして……よく闇に目を凝らして見てみれば、すぐ近くにも同じような木と十字架が生えているのも分かった。
ざわざわと、それらから同じような樹木達のざわめきも聞こえてくる。
 ここはどこなのだろうか?
「森? 墓? やっぱりここには、人か何かが住んでる……ハァーッ……の、か?」
自然の森がこの地上世界にあるはずがない。
かといって、誰かがまだこの地球上に生きているという情報も得ているわけでもなく。
でももしかしてそれは、自分たちが何も知らないだけなのかもしれないし。
やはり地上には、自分たちが知らない『何か』があるのだろうか。
ハヤミは風に飛ばされないよう注意しながら背を伸ばすと、ふたたびどこかにあるはずの光を捜してみた。
妙な暗闇が、すぐ目の前に広がっているのに気がついた。
暗闇の中に、巨大な何かが影となって立ちはだかっているらしい。
嵐が一瞬弱まったので、瞬間を突いてハヤミが暗闇に近づいてみると、今度は闇の中から巨大な『壁のようなもの』が浮かび上がってきた。
「これは……なん、だ?」
地上に墜ちた巨大飛行空母の残骸らしかった。

大きなきしみ音を上げながら、巨大な空母の残骸はひっそりとガラスの平原に溶け込んでいた。
……というよりも、『潜り込んでいる』といった方が正解なのだろうか。
根元は暗すぎてよく見えない。
手さぐりで装甲板沿いに歩いていると、ちょうど階段のようになった残骸の段差と丁度いい大きさの穴がある。
風が弱まるのを見計らい、ハヤミはその隙間から機内に侵入することにした。
「おうふ!?」
内部は、巨大な空洞だった。
侵入、というより潜り込むという感じだろうか。
穴があまりにも小さくて、屈んだハヤミの頭がどこかにぶつかってしまう。
ぶつかった拍子のハヤミの声が、何も見えない暗闇の中で様々なエコーと共に周囲に広がっていった。
「何も……見えないな」
なにもみえんななにもみえんななにもみえんな……
穴の外では相変わらず風の音だけが聞こえているが、空洞ではハヤミの声だけが永遠に思えるエコーと共にゆっくりと闇の中に広がり続けた。
「ふーぅ……でも、風が凌げるだけ……いいか。んしょっ。しっかし、ここはどこなんだ? 倉庫か? あいイテテテテ」
空母の外は凍えるほど寒かったのに、いったん中に入ると空母の中は意外とあたたかかった。
だが、今度は忘れていた痛みを体が思い出し、だんだんとあちこちが痛くなってくる。
ハヤミは暗闇の中で座るべく、足元を確認しながら腰を下ろした。
「あっつ、あだだっ……った!?」
座ろうとして屈んだ瞬間、足腰から突然力が抜けて。
重力がハヤミの体をビタン! と床に打ちつけさせる。
「うっつつつ……お、ん……ん?」
衝撃だか何だか分からないが、どこかで何かがコトコトと音を鳴らしながらハヤミの周囲を取り囲みはじめた。
音は次第にハヤミの周りをグルッと一周し、その内の一部がやや大きめのゴチリという音を鳴らして何かのスイッチがブォン! と鳴った。
庫内の照明が淡く光りはじめてきた。
水銀灯のような、柔らかい白い光。
真っ黒だった庫内が、だんだんと淡い橙色に染まっていく。
 だが全部ではなかった。
「むっ!? んんんっ!?!?」
床に広がっていたのは、巨大なドミノの集団だった。
未だコトコトとどこかで音を鳴らし続けているが、ドミノの全容は未だ広がりきっていない橙色では全部を見ることはできない。
その内別のスイッチも入って、今度は新しい光が新しい点滅をはじめる。
もしくはどこかからバケツが落ちてきて、新しいドミノがバラバラと散らばって、また新しいドミノ倒しがどこかで始まっていく。
今度はスポットライトのような光が。
一瞬眩しすぎてハヤミは掌をかざしたが、よく見ると倉庫内の床は、全てドミノで溢れかえっていた。
当事者のハヤミは、庫内のドミノの城の、ど真ん中にあぐらをかいていた。
「……なにこれ?」
突然のドミノの出現に、ハヤミは開いた口が塞がらない。
だがドミノはそんなハヤミの事など一切構わず、次々と定められた道順に倒れていく。
その内、ドミノの一群が斜めに倒れかけている螺旋階段を器用に昇りはじめた。
ハヤミがそっと螺旋階段に近づいてみると、ドミノが登っている階段の上には……上には、どうやらこの飛行空母の上層階が続いているらしい。
ハヤミは一瞬眉毛をひそめたが、引いた気力をもう一度入れて、ドミノの列が登る螺旋階段を静かに登ってみることにした。
崩さないようにしながら、斜めになった螺旋階段を、ゆっくりと。
 このドミノたちが、まさか自然現象でできた物のはずはない。
 明かりのあふれる下部とは違い、ドミノの登る飛行空母上層階は、未だまっくらなままだった。

まだ電源が生きていることにも驚いたが、今目の前でどこかに向かって倒れ続けているドミノの群れは、一筋の列を途切らすことなく、永遠と空母の廊下を進み続けていた。
ハヤミもドミノの列を追って、ゆっくりと通路を前進する。
所々半壊のドアがあり、中を覗いてみると、中は大量のゴミが詰まった居住区だった。
まあ、だいぶ風化した箇所も多かったが。
それら廃墟と化した居室とそのドアが、廊下一面にパックリと口を開けながら並んでいる。
ドミノは、それらを全て素通りして前に進み続けていた。
ドミノはどこまで行くつもりなのだろう。
ハヤミはしばらくドミノと並んで通路を歩いていたが、突然現れたT字路を左にドミノが曲がると、通路は突然いやに明るい部屋の中に入っていった。
ドミノの吸い込まれた隙間は、半壊した防火壁が居室と通路を遮断してできている物らしい。
やや狭いドアの隙間を、二度と動きそうにない防火壁がたたずんで邪魔をする。
中をのぞいてみると……部屋のには、大きなテーブルと、いくつかの皿が置いてあった。
隅に巨大な発光ランプ……ランタンも置いてある。
見る限り、発電機は置いていない。
誰かがここに住んでいるのだろうか?
「こ、これは……」
テーブルの上、皿からは小さな湯気がでていた。
いい匂いもする。
ハヤミは隙間に沿えた両手にすこし力を入れてみたが、防火壁はまったく動きそうにないが。
と、突然ハヤミの腹が空腹を思い出して鳴りはじめた。
「う。ハラ、ヘッタ……。けどこれっていったい何なんだ? 誰かいるのか?」
ハヤミは動かない防火壁を強引に横に押しのけてみようともがいた。
やはり、防火壁はぴくりとも動きそうにない。
隙間はだいぶ狭そうだったが……いや、がんばれば何とか人一人くらいは通れるか?
ハヤミはすきっ腹をさらにへこませると、ソロリソロリと防火壁の隙間に自分の体を潜り込ませてみた。
「う……やっぱ狭ぇ」
そしてかなり凹凸があって、出っ張ったり凹んだりしたドアロックが、ハヤミの出っ張ってもなく凹んでもいない体を押しつぶす。
「うあイテテテテテ」
ついでに言うと、防火壁の断面はかなり傷ついていた。
なんとか体の凹凸をドアの凹凸にあわせて潜らせようとしてみるも……合わない所は合わないし、狭い所は狭い。
痛い。
ハヤミは頑張って自分の出っ張っている箇所を、空いてる手で縮ませつつ、もう片方の手で無理やり押し込んだりポンポンと叩いてみ……
「あがっ!?」
突然体が抜けて、ハヤミはドシャリと音を立てて部屋の中に倒れ込んだ。
 部屋にはすでに倒れきったドミノの列が並んでいたが、ハヤミが倒れるとそのドミノのピースたちが一斉に部屋中に飛び散り、そのいくつかが机の上に乗ってコロコロと音を出した。
「いっつつつつつ……」
打った頭を抱えつつハヤミは立ち上がると、どこかを進んでいたドミノが終点を迎えたのだろうか、ハヤミのちょうど顔の前をポーンと何かが飛んで行った。
コロコロコロ……
「ん」
一と一。
ゾロ目。
というか、サイコロだった。
ハヤミの持っていたサイコロと同じ物だが……というか、白くて四角いあの形の物が目の前に二つ転がっている。
そういえば、ハヤミはサイコロは飛行機の中に置いてきたままだ。
「んー、なかなか……うまそうな匂いだな。……これ、食っていいのかな?」
転がるサイコロを横目に見つつ。
机の上に置いてある三つの小さな皿には、それぞれ温かそうな湯気を出していた。
対して、置いてあるスプーンとイスは一つだけ。
スプーンはだいぶ使い古された金属製で、イスも木製でニスが剥げているが、でもいい感じに古びていた。
手の凝った銀細工だ。
時価いくら、という感じだろうか。ずいぶんとアンティークな趣味にも思える。
「ハラ、減ったナ……。ああもう! ……いやでも誰もいないじゃないか。いやいやでもきっとどこかにいる……ん」
ハヤミは周りを見回してみた。
「いない、よな?」
見えるのは、散らばったドミノだけ。
こうこうと光を照らし続ける大きな電気ランタンと、巨大な何かの操舵棒、周辺が一望できる強化ガラス面には小さくひびが入っている。
後ろには半開きの防火壁、別の出入り口にはドミノが倒れた列がわずかに残っていたが、その先はうっすらと影がみえるだけで、特に誰かいる感じはしない。
きっと倉庫か何かなんだろう。
 そういうことにしとこう。
「誰も……いない、よな。いないよな? いない……よね。うん。いない。なのでちょ、ちょっとだけ味見を……」
誰に言い訳をしているのか。
ハヤミは独り言を自分に言い聞かせるおと、指先をちょっとだけおかゆに突っ込んで、そのままぱくりと口の中に指を入れた。
……うまい。
が、すでにだいぶ温くなっているようだ。
「ん、ンメぇ! こんなにウマイのを食わないなんて、こりゃここの主はひねくれ者だな? 食わない奴が悪いんだ。うん。俺は悪くない。ンマイ! ……もうちょっと、食べてみたい……かも」
おかゆは、ほんのりと塩の味がした。
おかゆに突っ込んだ指を、次はもう少し大胆に突っ込み、その次は指の腹で擦って、あらかた舐めとり食べ終わると、ハヤミは皿の隅にこびりついているおかゆも丁寧に舌ですくって食べてしまった。
「くっそうめぇ! ……けど、ぜんぜん足んねぇ」
ハヤミの視線が、次なる小皿を捉える。
「そ、そうだよ食べないやつが悪いんだ。俺は……俺は何も悪くないんだ、よな?」
ハヤミは小皿を持つと、直接すすっておかゆを食べた。
「う、うめぇ……この世の物とは思えん! なにこれ毒入りか何かなのか!?」
ハヤミは三秒で小皿を舐めきった。
チュウチュウ啜っても啜り切れない。
「こりゃあすきっ腹に堪えるな! ……俺は森のクマさんか何かか?」
次の小皿はかなり小さかった。
というか、何かの古い缶詰だった。
「これは……どっかで読んだことがあるぞ。森をさまよっていたお姫さまの前に、親切なクマさんとズル賢いキツネさんが現れた。親切なクマさんはお姫さまのために自分のおかゆを少し分けてくれたが、キツネさんは多いけど何の肉か分からない物を持ってきた。お腹をすかせていたお姫さまは、たしかどっちを食べるかで悩んでたよな……」
ハヤミはイスに自身の腰を落ち着かせると、スプーンを持って唸った。
「その肉は確か、お姫さまのお母さんの肉だったような気もするけれど……」
言いつつ、ハヤミはゆっくりと缶詰の肉をすくう。
「だが、お腹をすかせたハヤミちゃんは、おかゆもお肉も、両方いただくのだ。俺は悪くない、食わない奴が悪いんだ」
スプーンを口の中に、一気に頬張る!
程よいとろみと深い味わいが、一瞬にしてハヤミの口中に広がった。
「天っ、国……!!」
缶にこびりついている残りをズズっと啜りとると、ハヤミは両手をあげてイスの背もたれにもたれかかった。
「いやー、うまかった! ……うーん」
おかゆを全部食べてしまったハヤミ。
おかゆの代わりに、後で殺されて釜ゆでになるかもしれない。
と、漠然と考えながら椅子の背もたれにもたれかかっていると、ランタンから発せられる熱がほんのり部屋を温めて、ハヤミはふと猛烈な眠気に襲われ始めた。
「うーん……眠い、ぞ」
寝たらきっと、すぐにここの主に何かされるだろう。
改めて部屋中を見てみると、奥の倉庫らしき小部屋にちょうどいい大きさのベッドが置いてあった。
ハヤミは、疲労と眠気から、すでに本能に抗えるだけの理性は持ち合わせていない。
のたのたと床を鳴らしてベッドに近づく。
「うわぁ……これが、本物の羽毛布団って、奴なのか……」
ベッドの大きさは、キングサイズだった。
元々はただの本棚だった様だが、今は本棚も中身と棚を抜かれ、代わりに中に敷きつめられているのは大量の白い羽毛。
 ハヤミは軽くジャンプすると、本棚の中に勢いよく身を投じた。
「ぼふっ……あー。一度やってみたかったんだあ」
大量の羽毛に囲まれて、ハヤミの意識は眠気と共に急速に夢の中へと落ちてゆく。
これで、次に起きた時に自分が鍋の中にいても、たぶん後悔はしないんだろうな。
するんだろうけど。
主は……小人なんだろうか。
それとも大きな菜っ切り包丁を持った熊?
荒野の魔女、とか。
ここはどこなのだろう。
そんな事を漫然と考えていると、次の瞬間ハヤミの意識は軽くて真っ白な何かに包み込まれて、最後は遠くどこかの世界で自分のいびきが「グウ」と聞こえて、ハヤミは完全に眠りの世界に飛び込んでいった。

「……フゴ」
どこかから急速に意識が戻ってきて、ハヤミはふと、自分の口が涎を垂らしているのに気がついた。
「んー……ムニャムニャ」
寝返りをうちながら、ハヤミはズズッと右手で涎を拭う。
「……」
「……」
うっすらと目を開くと、なぜか目の前に中華鍋がいた。
中華鍋が逆さまになって、上からハヤミを覗き込んでいる。
その隣には、なぜか料理に使うオタマと巨大な肉切り包丁が持たれていて。
「!?」
「!?」
ハヤミがカッと目を見開くと、目の前の中華鍋も目を……いや、中華鍋はどうやら本体ではないらしい。
中華鍋を被った、驚いた表情の少女が、寝ているハヤミの顔をのぞき込んでいた。
「ギャァーッ!?」
「フギャー!?」
ハヤミが飛び起きると、目の前の少女も一緒に飛びのいた。
慌ててハヤミが本棚から飛び出し、振り返って見る。
と、振り返ると少女の姿はすでに見えなくなっていた。
カラン……と、代わりにひっくり返った中華鍋が床に転がっているのだが。
「はぁっ、はぁっ……何だ今の!?」
壁に、寝る時には無かった新しい包丁がグサリと刺さっている。
隣の部屋にあるランタンの光を受けて、やけに白く、大きく、包丁の歯の部分がギラリと光った。
謎の少女が驚いた拍子に投げた物だろうか。
ハヤミはゾッとした。
「誰だ!? 熊か!! 人食いか!?」
戸口を見ると誰かの影と共に山姥……少女の顔が、こちらを覗いていた。
「むっ!!」
そんなにシワクチャな顔には見えないが。
どちらかと言うと、幼いような顔。
という事は、熊でも山姥でもないらしい。
「こっ、ここ、小人かっ!?」
世界にはこんな奴がいたりするのか。
ハヤミは腰の後ろに手を廻しながら、思い切って少女に問いかけてみた。
「……」
少女の顔は何も答えない。
壁の向こうからハヤミをのぞく目と顔が、若干斜めになるが。
上目遣いの目がパチクリと瞬きをし、その拍子に軽くカールした少女の赤い髪がサラリと空中に流れる。
「お、おおおお……いや、落ち着けー、落ち着け俺ー」
落ち着いてよく見たら、顔は、やっぱり少女の顔をしていた。
……女? という事は、人間?
目だけを出して、不思議そうな顔つきでハヤミを見ている、少女の顔。
小人とか、熊とかには見えそうにないが?
いや、だが相手が人間だと判断するのはまだ早い。
「……しょ……うじょ?」
の、顔をしているが、実は人間じゃないのかもしれない。
 となると。
「……ユーマ」
ハヤミはボソッと、少女に対する感想を、そのまま口に出してみた。
目の前の少女の顔と目が、さらに斜めになった。
 と、ふと床を見ると、さきほどハヤミが食べたおかゆの小皿が空のまま転がっていた。
 少女の目も、小皿とハヤミの間を行ったり来たりしている。
 どうも、この飛行空母とおかゆの主は、今目の前で目をパチパチしている少女(UMA)の物だったらしい。
「……いや、すまなかった。つい腹が減ってて。別にお前の飯を横取りするつもりはなかったんだ」
「……?」
少女の顔が、さらに斜めになる。
というか、ほぼ真横になっていた。
少女の不思議そうな顔の横から新しい人間の部位……少女の細い腕が出てきて、少女は不思議そうに自身の顔を指さした。
「ユマ?」
「ん?」
「ヌェボ ロゥミーィ……ユマ?」
「しゃべれるのか?」
「ノゥート ヴェ ナ フマ」
少女の腕が、今度はハヤミをビシッと指さす。
お互いの、間断ない緊張の視線が交差した。
「なん……だと?」
「……」
なにを言っているのか分からないが。
異国語か。
とりあえず、ハヤミは腰の後ろに廻している腕を下げて、ニッコリと笑いかけいてみることにした。
「あー。うん」
「……」
ハヤミは改めて、敵意がない証明としてニッコリ少女に笑いかけてみた。
すると、顔から目だけ出していた少女の目もニッコリ笑い、次いで顔が出て、ピョンと本体が壁の向こうから飛び出てきた。
「ノヴェ ロゥスィーナ ベテェーロッセ!」
少女はまくし立てるように、空になった小皿と缶詰の空き缶を手に持ち、ハヤミに突きつけてきた。
どうやら、さっきハヤミが食べたのを怒っているらしい。
 さっきのおかゆは、もしかして少女の残り少ない贅沢品か何かだったのだろうか。
 おかゆは、確かにとても美味しかった。
「ん!?」
薄くて白い生地に身を包んだ、白く透き通るような肌の少女。
軽い天然パーマの少女の髪は、やっぱり微妙に赤く染まったまま。
見間違えでも何でもなければ、この地上世界に住み着いてるにしては、少女は不自然なほどに軽装な格好だが。
ハヤミの目が少女の背中に生えている、有り得ない「翼」を発見して点になった。
「げっ!? おおおお、おま、おま……ッ!!!!」
「ン?」
ふたたび叫んで後ずさりをするハヤミに、少女は小皿を持ちながら怪訝な顔つきでハヤミを見る。
「ほほほ、本物のユーマ!? ユーマ、だっ……ゆ……かはっ」
と、突然ハヤミの頭の中で何かのスイッチが入り、睡魔とも気絶とも言えない真っ黒なものがハヤミの意識を奪っていった。
世界のどこかで、ハヤミの体がドウと音を立ててくずれていく。
『ゆーまだゆーまだゆーまだゆーまだゆーまだ……』
脳内にまだ疲れと睡魔とあと色々なものがあったのだろうか。
意識が混在している中、脳のどこかで起こった何かが妙にリフレインを繰り返し、同じフレーズの言葉を、永遠にエコーを響かせて鳴り続けた。
 柔らかい何かが体中を覆う。
 意識の彼方で、ハヤミの声ではない何かがエコーと共に不思議な音色で響いた。
「ミラ ヴォ ヤネヴユマ」
 それからのハヤミは意識を完璧にどこかに落として、世界はふたたび静かになって消えていった。

夢だったのか、なんだったのか。
「……ふご」
もう一度、つかみ所の無い真っ白な至福からハヤミの意識が徐々に起き上がってくる。
どれくらい意識を失っていたのだろうか?
自分の寝言が妙に耳に残って、ふとハヤミは、鼻に何か柔らかいものが触れているのに気がついた。
「うー……ムニャムニャ」
そっと手で払いのけても、鼻の前にある柔らかいものはぜんぜんどいてくれない。
ゆっくり目を開けてみると、ぼやけたハヤミの目は何か、目の前に広がる大量の白い羽を見つけた。
というか……自分の体が白い羽で覆い囲まれている。
「う……ん?」
ハヤミはグルグルと目を回すと、自分の身に今起こっている事を思い出してハッとした。
腕が、柔らかい羽毛の塊に沈みこむ。
「……ここ……どこ、だっけ」
壁を見上げると見慣れない壁タイルと、床に置かれた巨大な肉切り包丁と、見覚えのある……傷跡。
ハヤミは一瞬で昨晩の戦慄を思い出した。
「ここここはっ……人食いの家っ!!」
と、思いながら更なる新しい記憶がよみがえってきた。
「いや……たしか、なんかの人畜無害なユーマの家だっけか、な?」
周りを見渡してみても、少女……いや、ユーマ……少女の姿はどこにも見えない。
すでに起きてどこかに行ってしまったのだろうか。
「夢じゃ……無いのかー。そうだよな。これは、夢じゃないよ、な……」
 自分に今起こっている事を頭の中で整理しつつ、今の自分の状況を思い出す。
いったい自分は何度飛行機を壊せば気が済むのだろう?
ハヤミは一度シュンとしたが、『でもこれは、もしかしたら自分は色々面白い体験をしているんじゃないのか?』と思いなおし、ハヤミは小さく「ぃよし!」と気合を入れて深呼吸した。
本棚ベッドを飛び出て、改めてテーブルのある部屋に出てみる。
と、よく見ればテーブルの置いてある部屋はこの航空母艦の操舵室のようだった。
壊れた操舵棒は、すでに取り外されてどこかに保管されているのだろうか。
部屋の隅には、大きな木箱が置いてあった。
中を覗くと、古びたおもちゃが大量に入っている。
 昨日ハヤミが崩したドミノや、得体の知れないものすごく古そうな何かのカセット……と一緒に、どこかで見たことある様なとても古い兵士人形も入っていた。
「なんだこれ。あいつはこんな物と一緒に地上世界に住んでたのか?」
ハヤミが人形を持ち上げると、人形はだらしなく、ブランと重力に任せて手足を揺らした。
ひっくり返してみても、人形はぶらぶらと手足首を揺れて場を留めない。
ほかにも幾つか……普通に、女の子がよく遊んでそうな着せ変え人形もあった。
服の隅が所々焼けている以外は、まだまだ新しそうだ。
ハヤミはそれらを抱えて椅子に座ると、二つをテーブルの上にそっと置いてみた。
昨日ハヤミが食べた二枚と一つの皿が綺麗に積まれ、その横には見覚えのあるサイコロが静かに並んでいる。
窓の向こうには、何百年も前から変わらないであろう荒廃した大地が、雲の上から僅かに漏れる太陽光に照らされていた。
変わらない赤の風景を後ろに、姿の揃わない二つの人形がチョコンとテーブルの上に並ぶ。
ハヤミはそれらを、イスの上からボオッと見つめた。
「……変な世界だ」
銃をどこかに置いてきたらしい、ぐにゃぐにゃ兵士人形。
片やあちこち黒ずんでいる、ボタンも顔の刺繍もほつれかけている着せ変え人形。
……どこからか、聞き覚えのある轟音が聞こえてきた。
「!?」
ハヤミは急いでイスから立ち上がり、ひび割れた展望ガラスから空を覗いてみると……たしかに、雲の隙間に二筋の飛行機雲が飛んでいた。
「あれは!! 友軍か!? よし助かったかっ!! おーい!!!!」
ハヤミはガラス越しに、空に向かって大きな声で叫んだ。
操縦台を乗り越え、ガラスに手を沿えて大声を出す。
だが、空の飛行機雲はまっすぐ空を飛び続けるだけ。
ハヤミは大声と一緒に、大きく自分の両手を振った。
「おーい!! おい! お前らどこ行くんだっ!! おい!! 俺はここだーっ!!! 俺を、助けろ!!! おーい!!!! 俺はここだーっ!!! おーい!!!!!」
小さく飛び跳ねつつ、両手を振り、ハヤミはありったけの声を出して空の飛行機雲に叫んだ。
だが、空の飛行機雲は静かにまっすぐ飛び続けるだけ。
 次第に飛行機雲は空をおおう雲によって見えなくなっていくが、待てども待てども友軍の救助部隊は地上に降りてこなかった。
「くっそ!! 見殺しかよ!!!! 味方を助けないのかよ!? おい!! お前ら!! 何で無視すんだよチクショーっ!!!!」
見えない空と飛行機雲。
まるで地上を見ていないような友軍と、まっすぐ伸びる二筋の飛行機雲。
「クソッ!!!!!」
ハヤミはひび割れた強化ガラスを思い切り殴った。
ゴインと鈍い音が操舵室内に響き、握り拳はほんのり赤くなった。
 ただ、それだけ。
「なんでっ! だよ!! なんで来ないんだよ!! みんな俺が落ちてる事を知らないのか!? なんで俺を見つけないんだよ!!!」
強化ガラスを殴りつけながら、何もないガラスと荒野に向かって叫び続けた。
世界は何も答えない。
「クソッ!! ちくしょ、う……なんで!!!!!」
 ガンッ
「んー……」
……どこかで気の抜けたような声が聞こえてきた。
少女だろうか。
「……」
翼の生えた、あの人間じゃない少女の顔を思い出す。
ハヤミの後ろの、だいぶ離れた所から声は聞こえた気がするが。
ハヤミは急いで目元を拭うと、ゆっくりと後ろを振り返ってみた。
「……」
少女の姿はどこにも見えなかった。
改めて部屋中を見回してみても、部屋にはハヤミの影以外誰もいない。
「!?」
 と、本棚ベッドの中で、白い何かがモゾモゾと動くのを見つける。
「……ん」
「……なんだ。まだ起きてなかったのかよ」
驚く必要もない。
少女は、白い羽毛に隠れるようにして自分の翼で自分を包んで、まだベッドの中でくうくうとイビキをかいて眠っていた。
「ったく、無防備というか、寝坊助というか。こーゆーのは普通、客の俺より主の方が早起きだったりす……」
ハヤミは潤んだ目を拭い直すと、今度はだんだんと眉をしかめていった。
「ってか……添い寝だったのかよ。不用心というか、何というか」
無警戒。
こんなにうるさくしても起きないとは、とんだ不用心な奴だ。
ハヤミの顔が、怒りから、だんだん呆れ顔に変わっていった。
起こすか、起こさないでいるべきか。
むしろこんなにして起きないんだから……まあ、起こす必要は無いよな?
ハヤミは改めて、自分のいるこの地上世界を見回すことにする。
窓の外には暗いだけの荒涼としたガラスの世界が広がっていたが、だがよく見れば飛行空母の足元……窓際から少し身を伸ばして下を見ると、小さな十字架と木達が整然と並んでいる場所があるのに気がついた。
たぶん、あの翼の少女が植えたのだろう。
ガラスの大地に穴を掘って、どこかにあったであろう木の種を植えて、どこかにある水をやって、ずっとずっと長い時を経て育ててきたのだろうか。
「フン」
翼のある、あの少女はどうしても、ただの人間には思えない。
だが、いったい彼女はどこから生まれた種族なのだろう?
この地球がいかに先の世界大戦で壊滅していようが、有毒物質が地球上を覆っていようが、ああも分かりやすい突然変異(ミュータント)がこんな場所で生まれているはずが無いが。
ハヤミはグルリと飛行空母の操舵室を見回しながら、考えてみた。
「本当だな。ここはいったい、どこなんだ?」
真っ当な疑問。
机の上には、なんだか使い古されたような中華鍋が転がっている。
あとおたまも。
ジオノーティラスの領土ではない場所に墜ちている、旧世界大戦で戦っていたであろう所属不明の飛行空母の、残骸。
似合わないそれら。
あるはずの無い木が育っている場所。
ハヤミのジオノーティラス軍は、ここを偵察ポイントとしての最重要地点と決めていた。
という事は?
「まあ……敵地、だよな。普通に考えて。それ以外ありえないもんなあ」
でもまだ納得できない事がある。
少女は、敵なのだろうか?
敵は、もうどこにもいなくなっているはずだ。
それとも……
「あの少女が、実は敵の生き残り……人間以外の、だとか?」
後ろでは、少女の寝息がクウクウと聞こえてきている。
世界に対する疑問は沸き上がるばかり。
ハヤミは頭を抱えて小さく唸った。
「頭が爆発しそうだ。なんだよ人間以外の生き残りって。いるんならとっくの昔に俺たちが見つけてるはずだろ?」
空にも、自分を戦闘機ごと叩き落とせる超巨大生物がいた。
だがそもそも味方の偵察部隊は、墜ちているはずの地上のハヤミを見つけられなかった。
という事は、この飛行空母は誰にも見えない存在なのだろうか?
ここはいったい、何なんだろう?
イライラしたハヤミは、つい目の前にある机をガンッと蹴ってしまった。
「……っと」
その拍子に机の上に置いていた兵士人形が姿勢を崩し、いきおいよく床に落ちる。
 ガシャッとうるさい音が鳴り、兵士は力なく床の上に伸びた。
「おわととと、やべやべあの子の人形を……ん?」
床には、なんだか大きな切れ込みが入っていた。
切れ込みの形は四角形。
円形の、引っ込みノブ付き。
「……下? メンテナンス通路か?」
試しにハヤミが机をどけて、ノブを捻り引っ張ってみると。
「お、なんか階段が伸びてら……」
床下には、下に伸びる整備用ステップが伸びていた。
配管が通り、薄暗い迷路のような通路の奥から、微かに何かの音と振動が伝わってくる。
「この先に何かあるな。何だろ?」
ゆっくりとドアを開き、ドアのロックを確認すると、ハヤミはゆっくりとステップの上に足を乗せ通路の先に降りる。
身を屈めると、視界は操舵室の明かりから一気に暗がりの中に突入した。

暗い通路にはほぼ一定間隔で小さな照明灯が置いてあり、ハヤミはそれら照明灯を、通路を進む先々で一つずつスイッチを入れながら歩いた。
途中小さな瓦礫の山にぶちあたることもあったが、これはたぶん少女が作ったゴミの山だろう。
掃除は行き届いているが、どれも処分の行き場がないガラクタ。
むしろ、この飛行空母自体が世界に忘れられたごみ箱なのか。
まだ生きている電源と、わずかに震えている電源コード。
と、そうこうしている内にハヤミの通路は大きな格納庫に入っていった。
最後の大きめなパネルスイッチを入れると、今までの通路の証明が消えて、代わりに格納庫中のランプが点灯をはじめる。
「おお、こいつぁ……」
太い電源パイプはまだ暗い格納庫の奥に続いていたが、その足元には今まで見たこともない大量の人型兵器たちが、無人のままで庫内に立ち並んでいた。
装備されないままの巨大迫撃砲。
破棄され、半壊した大型ミサイルボックス。
それらが乱雑に、たぶん墜落した当時のままで、床に転がっている。
人型戦車たちは庫内にロックされたまま放置されていたが、ハヤミが通路上から下におりると、人型兵器の大きさを改めて実感した。
「こいつぁ、でけぇな。ウチらのと比べ物にならねぇ」
ジオノーティラスの戦車に比べて、今目の前に転がっている戦車たちはかなり大きかった。
それに、装甲の厚さも桁違いのようだ。
だが、タイプとしてはだいぶ旧式にも見える。
ハヤミは格納庫に転がっている人型兵器の一つによじ登ると、改めて格納庫の中を見回してみた。
「軍事用、だな。明らかにジオノーティラス軍のではない。けど……」
じゃあどこの所属なのだろう?
「ふーん……油圧式の対戦車パワードスーツか。まだ動くかな?」
ハヤミは試しに人型兵器の一つを選び、コクピットを覗いてみた。
人型兵器の内部はどれも埃だらけ、計器や配管はむき出しのままグチャグチャに壊れている。
とても再起動できそうにない。
「……動かねぇな。当たり前だわな。もう何十年も前のものがノーメンテナンスで動くはずもないし」
と……改めて他の人型兵器もグルリと見回してから、ハヤミはハッとした。
「違う。全部、コクピットだけ破壊されてるんだ?」
新旧問わず、兵器はだいたい人間の入る操縦部の装甲は、いくらか薄い事になっている。
車両型戦車なら出入り口のハッチ、戦艦なら艦橋、航空機は全体が薄いが、特に薄いのは強化ガラスでできたコクピット部だろう。
とは言えいくら装甲が薄い部分と言っても、パワードスーツのコクピット部は最低でも対戦車ライフルくらいは弾ける仕様になっているはずだ。
だが、今ハヤミの目の前で沈黙している人型はどれも装甲部の真ん中、コクピット部だけが黒く燃えてたたずんでいる。
「全部ミサイルが直撃した跡? んなバカな」
有り得るといえば有り得るが、でもなぜ空中を飛んでいたはずの空母の中なのに、全機ミサイルの直撃を受けているのだろう?
……と、ハヤミはある講習で学んだ内容を思い出した。
 ある小さな国は、航空機でも、車両でも艦船でもない不明の存在の開発に成功していたらしい。
「……生物兵器(キメラ)?」
資源もなく、軍隊も持たず、輸出と技術開発だけでなんとか国を保っていた弱小国。
手持ちの技術とある物だけを組み立てて、生物兵器を開発した悪魔の国。
銃を持つ、天使のような悪魔を造った、国。
構成物が百パーセントタンパク質だから、レーダーも磁気探査も効かない。
講習を受けた際、ハヤミは教官と一緒に「んなアホな」と言って笑っていたが。
「いや……たしか生物兵器は、条約で製造禁止だったはずだ」
だがあの少女には、明らかに背中に翼が生えている。
人間でない姿格好をしているはずなのに、まるで人間のように、たしかにハヤミの目の前でしゃべっていたと思う。
少女は異国語を話していた。
……あの少女が、人造兵器、キメラだと言うのか?
ハヤミは頭を振った。
「いやいやでも……いや、でもあれは、人間限定だった、ような?」
背中に翼のある、正体不明の、少女。
少女は人間か?
「にん、げん……???」
違う……?
わからない。
ガコン、とどこかで音がした。
慌ててハヤミが上を振り向くと、何かの太いパイプがハヤミの上でゆらゆらと揺れていた。
「な、なんだ? 誰か来たのか?」
周囲を見回してみても、ハヤミと闇以外は誰もいない。
格納庫の奥、暗くてよく見えないが、奥からは何か唸るように腹に響いてくる微振動が伝わってくる。
奥には何があるのだろうか?
壁伝いに配置されている電源ケーブルは、どれも奥に繋がっていた。
「……んばあ!」
「ふぎゃああああっ!!!???」
突然、ハヤミの目の前に変な何かが覆いかぶさってきた。
真っ白な布を逆三角形にした変なの……の中から、腕が伸びていて、それが布をガバリと上に押しのける。
出てきたのは昨日出会ったばかりのUMA……翼少女ユーマの闇に輝く笑顔と、細い体躯だった。
少女と少女の体は、電源ケーブルに足を絡ませ起用に上からぶらさがっている。
「お、おおおおお……お前はッ!!??」
「へっへっへー」
声にもならない驚きと、突然降って湧いた衝撃、怒りのようななんだか得体の知れない感情をすべて喉の奥に飲み込み、態勢を整えるために数歩後ろに引き下がってから、ハヤミは何回か深呼吸をして少女をビシッと指さした。
「な、ななな何だお前は!!」
「んー?」
ハヤミの指さしに対し、逆さまになりながら器用に首を傾げる少女。
わけがわからない、とでも言いたげな表情。
「お前は、いいい一体何者なんだ!?」
頭がパニックになり、何を言いたいのか分からくなる。
だが、本当に聞きたいのはそれじゃないんだ。
ハヤミは、自分でも分からないほどの意識の奥で微かに思った。
だが少女は、それを知ってか知らずか、ケーブルにぶら下がったまま腕を後ろに組んでハヤミを見下ろしている。
「ミ?」
そして、ゆっくりと自分の顔を指さした。
「ゆま」
「……いや。それは、俺が付けた名前だろう」
少女の、冗談ともなんとも言えない微笑みに、ハヤミはほっとした。
ど、同時に深呼吸もする。
「いひひー」
ハヤミの指摘に対し、少女はなぜか笑いながら自分のケーブルを揺らした。
ハヤミはだんだんイライラしてきた。
「お前は、いったい何者なんだ? どこの人……いや、所属だ。なぜ俺を捕まえない?」
ハヤミの問いに、少女はまるで「つまらない質問だなー」とでも言いたそうな顔でふたたびケーブルを揺らす。
言葉が通していないのか。
それとも、ただ答える気がないのか。
少女は逆さまになりながらケーブルを大きく揺らし、その勢いで近くにある人型戦車の肩にポーンと飛んでいった。
少女とハヤミの距離が、ふたたび離れる。
「ユ ヴェロトゥ ルチィ ヴェ ハヤミ!」
「な、何だって?」
「ユー ネィマ ハヤミ!」
「……」
少女の言葉は、明らかにジオノーティラスの言葉ではなかった。
やはりどこか外の人間なのだろうか。
しかし……たぶん少女の言葉は、外国語でもかなり訛っていそうな雰囲気だ。
ハヤミがしばらく黙っていると、少女はふたたび小さく笑い、それからゆっくりと自分の首元を指さした。
「ん、ん」
「……ん? 俺のこれ……タグ? タグを読んだのか?」
ハヤミは少女の手真似を見て、自分の首にかかっているプレートを取り出した。
そこには、ハヤミは初めてジオノーティラス軍に入ったときに渡された日にちと、名前、階級が、バーコードや剥げた亜鉛メッキと共に刻印されていた。
「お前、これが読めるのか」
「……」
 少女は一瞬考え、次いで大きく頷く。
「フン。おおお前、普通の人間じゃ、ないな?」
ハヤミは半歩下がって、僅かに腰をかがめた。
軍人のタグが読めるのは、軍人か、軍人に準ずる立場の人間だけだ。
暗闇の中、戦車の上に立つ少女の輪郭をできるだけはっきり見据えると、ハヤミは腕を構えて格闘戦の準備を整える。
「お前……キメラか」
「……」
一瞬、少女の瞳がキラリと輝いたように見えた。
瞳……にしては、だいぶ大きな光だったようだが。
光は大きくゆっくりと輝きを帯びており、だが少女自身は特に何かするでもなく、そのままプイと横を向いて戦車の上をテコテコと歩きはじめた。
「お前が……この戦車たちを殺ったのか?」
ハヤミの問いかけに、少女はピタリと足を止めた。
だが止まったままで、横を向いたままで、どこかを見据えたままで。
と、突然少女はクルリとハヤミに振り返り、戦車の上からハヤミに向かって指を構えてきた。
「……」
「……くっ」
ハヤミは丸腰だった。
もう半歩下がる。
すると
「……バンバン!」
「!?」
突然指先で銃の形を作り、少女はハヤミに向かって鉄砲を撃つマネをしてきた。
だがマネをするだけで、特になにかがどうなるわけでも無い。
庫内には、少女の無邪気な声が小さくエコーした。
「……にひひ」
「……戦争はもう終わった、ってか」
「んっ!」
ハヤミの問いかけに、少女はふたたび大きく頷いて見せる。
とびきりの笑顔で、身軽にトンッと戦車の上から飛び下りてきて、床の上でトン! と身軽な音を響かせた。
降りる拍子に少女は小さく翼を広げたが、その姿はまるで本物の天使のようだった。
 本当に、少女の姿はまるで天使のようだ。
「イストゥールィャ ナヴォ レダ ムタナク ラゾ」
風にめくれる少女の服。
覗く胸の谷間に、何かの人造クリスタルのような物が見える。
キメラを統制するコアか何かなのだろうか。
闇に少女の光がゆっくりと浮かび上がる中、少女はまるでハヤミには理解できない異国語で、少女はハヤミに小さく握手を求めてきた。
少女は笑っていた。
だがその笑顔には、暗闇に隠れた涙と、何かの覚悟が見え隠れしているような。
少女も、自分の立場が分かっているらしい。
人が戦う意味なんて、もう遙か昔にすべて消えて無くなっている。
ハヤミはえも言えない心を飲み込むと、少女の差し出してきた握手をギュッと握り返した。
自分たちだって、一応は休戦中している身……とハヤミは、自分のお腹が突然グウと闇の中で鳴り響き、僅かに顔を赤くした。
「むっ……」
この状況で、空気をまったく読めないのか自分の体は。
暗闇に自分の空腹をごまかして……いや、ごまかすことはできないか。
緊張した雰囲気の中で、まず最初に響いたのは少女の笑い声だった。
「アハ、アッハハハハハハッ!!」
「ぐっ、な、何だよ何がおかしいかよ」
「ぷぐっ、クッククククク……クスクスクスクス」
「し、仕方ないだろー、昨日のおかゆ以外まだ何も食べてないんだからー」
ハヤミは今言える限りの抗議を、体全体を使ってジェスチャーした。
だが、少女はハヤミのジェスチャーを見て頭を横に振るばかり、笑うのをまったく止めようとしない。
ハヤミの言葉が通じているんだか、通じていないんだか……
「イエヴォ ラノ ディ オーフェス! あー、んん……んー」
何か言いつつも途中で困ったような顔をし、次に何かを探し出す少女。
少女は手近にあったパイプの様なものを手にとり、ハヤミを指さして、今度はお腹をさするような手真似をしてきた。
「んっ!」
次は、手にとったパイプで地面を掘り起こすような素振りを見せてくる。
何かを掘るのだろうか?
「ん? どゆこと?」
「う……うーん。ンー」
やはり何かをハヤミに伝えたいらしい。
少女は必死に眉間に皺を寄せて考えはじめたが、何を思ったのか、少女は倉庫の暗闇の奥を指さし、急にハヤミの頭を両手でギュッと押さえ込んだ後、そのまま突然どこかに走り去ってしまった。
「……は?」
と、しばらくすると少女が何かを持って戻ってきたのだが。
手にはいくつか、二つのヘルメットと一つのスコップを持っている。
その内一つのヘルメットを少女が強制的にハヤミに被せると、気がついたら少女は倉庫の奥に向かって白い翼を揺らして走っていた。
「お、おい! どこに行くんだよ! これから何をするんだって!!」
「はーやみーっ! ネヴォ ロストヴ ィーリャ!」
少女が見えなくなった暗闇から、大きなエコーとともに少女の声が聞こえてくる。
どうやらハヤミを影の奥に誘っているらしい。
床に転がっているいくつもの残骸を避けながらハヤミが声の元に駆け寄ると、暗闇の中には少女の薄い輪郭とともに、床上に大きな縦穴があいていることに気がついた。
「こ、これは……」
この飛行空母は、どこかと繋がっているのか?
耳をすませば、穴の奥からは何かの微振動が響いてきている。
この空母に供給されているエネルギーは、縦穴の奥にある何かから引かれている、ということか。
船中に引かれた電源コードも、よく見ればすべてこの穴の中に伸びているらしかった。
「おい。これはどこまで通じてる穴なんだ? 何か変な所とかじゃないのか?」
「ヤッ ネズィル ヴォ ネッソ」
少女はなぜか、穴の脇でスコップを使って穴を掘るマネをした。
どうも、言葉が通じないコミュニケーションは難しい。
「掘る? この穴を掘るのか?」
「う、んー……んん、ンンッ! ン!」
暗闇の中で、少女は何かのジェスチャーを激しくする。
と、近くにあったらしいスイッチを動かして、少女は穴に引いている証明の電源を入れた。
バシッ! とどこかで電気がショートする音が聞こえ、次いで暗闇が一気に光に照らされる。
縄梯子が下ろされている土むき出しの縦穴は、奥までは全く見えないが、かなり深い所まで伸びているらしい。
「んー、んっ! んん、ん、んーっ、ん!」
言葉にできない言葉で、少女は穴の奥に降りたいという意思をハヤミに伝えてくる。
ハヤミは一言「はあ」と言って頷いたが、そこでハヤミは、ふとある事に気がついた。
「ちょっと待て、エート……んー、と。な、なんて言えば良いんだろう?」
少女の名前が分からない……を、言葉を使わないで、どうやって少女に聞けばいいのだろう?
ハヤミは両手で空を掴むようなマネ? をしつつ、ウーとか、エーなど、何とも言えない言葉をジェスチャーにして、少女にして見せた。
自分でもなんて言えばいいのか分からない。
少女も首を傾げるばかり。
なまえ……と、少女はポンと手を打って、ハヤミとハヤミのプレートを指さして「ハヤミ!」と叫んだ。
「い、いやいやそうなんだが。いや、違うんだ。いや俺はハヤミなんだが、それじゃなくてエート」
「……アン ユマ!」
次に少女は自分を指して、叫ぶ。
少女の名前。
が、ハヤミの命名した名前???
 ユーマ(未確認生命体)?
「……いや、それじゃないんだよユマちゃん。その名前じゃなくって、その……」
「?」
不思議そうな顔で自分のヘルメットを被り直す、翼の生えた少女、ユーマ。
「名前だよ名前、エート……」
「ミゼラ ナヴォ ド ナィム?」
「そ……うん、たぶんそれだ」
「……?」
「で、俺の名前は、ハヤミ・アツシって言うんだ。ユーマちゃんの名前は?」
「ミ?」
改めて首をかしげる、ヘルメットを被った翼の少女。
重力の角度が代わり、少女の亜麻色の巻き毛が、僅かに肩の上からハラリとする。
「……」
と、少女は微妙な笑顔になり、手を横にブンブンと振った。
「ミ ネヴォロ ドゥ ナ ユマ!」
元気な笑顔で少女の名前は、やはりユーマのままらしい。
言うと少女は慣れた風にスコップを肩に担ぎ、空いた片手と両足だけで器用に穴の中に降りていった。
ミシミシと縄梯子がきしむ。
ハヤミは、なんとなくはぐらかされたような気がしてその場でポカンとした。

 「黙って着いてこい」とでも言われているような、言われていないような。
 ハヤミはとりあえず少女が下った縄梯子を続いて下に降りていくことにしたのだが、降りて暫くたってから「これは大変なところに来た」と後悔することになった。
 まず一つ。
 下の果てが見えて来ない。
 所々岩から清水が染み出している所があったり、もしくは縄梯子の下る縦穴から少し外れた所に大きな地下の湖が広がっていたり。
 しかも、下れば下るほど縦穴に響く轟音がどんどん大きくなってくる。
 ハヤミは少し不安になってきた。
「おーい!」
 おーいおーいおーいおーいおー…………
 ハヤミの声はとどまる事なく、永遠のエコーとなって再びハヤミの耳に返ってくる。
 ギシギシと縄梯子はきしみ続けたが、ところで少女はどこにいるのだろう?
「ゆ、ユーマちゃんよぉッ!!」
 ゆーまちゃんよおっゆーまちゃんよおゆーまちゃんよおゆーまち…………
 こちらも、永遠のエコーとなって静かに返ってくる。
 少女の答えは無かった。
「どっ、どこまで降りるんだよ俺は……」
 地の奥底か。
 地球を突っ切るのか。
 手がしびれてきた。
 もしここで、ハヤミが手を離したら、世界はどうなるのだろうか?
「……」
 ハヤミはゆっくり周りを見回すと、体を軽く揺らしながら、梯子をきしませながら、ゆっくりと地球を下に降りていく。
 縦穴を仕切る岩の壁……ハヤミは縄梯子を降りる際に、よく背中をこすりつける風にしてしまう。
 梯子が揺れるから仕方がないのだが……でもその背中に触れる岩の感触が、ただの岩じゃないような気ががが……ガッ!
突然ハヤミが握りしめる縄梯子が左右に揺れはじめ、ハヤミは頭をゴッチンゴッチンと壁にたたきつけられた。
「ナヴォレゾゥト ナーレィ ハヤミー!」
 次いで下から……だいぶ下から、聞き覚えのあるような声も聞こえてくる。
「やかましい! ゆっ揺らすなバカァ!」
 ハヤミが下に向かって叫ぶと、今度は比較的小さく、ゆっくりと、縄梯子が揺らされて、ハヤミはふたたび頭を壁にぶち当てた。
「あがっ! あががっが……くっそー、ナメた真似しやがって……」
 先に下に着いた少女が、地上から梯子を揺らしているのだろうか。
 早く降りてこいと言う催促……下?
「地面か。ったく、あとどれくらいだ?」
 声の聞こえる下側をのぞくと、どうやら縦穴の底らしい場所で少女のコアの青白い光がわずかに光って見えている。
 ということは、そんなに離れていない場所に底があるのだろうか。
 ハヤミはまだ揺れている縄梯子を押さえつつ、何か少女のいたずらに仕返しできないだろうかと暫く考えた。
「……」
 下ではどうも、少女が退屈そうな声を出して立っているらしい。
 ……閃いた。
「ぃよし! 見てろよユーマめ! うーりゃっ!!」
 ハヤミは、勢いよく縄梯子をつかんでいた両手を離して宙に飛んだ。
 ほんのちょっとの無重力感と、次いで強い風が体を包み、強い衝撃がハヤミのブーツを伝って「ドン!」と大きな音を鳴らした。
「……うぐうっ!?」
 まだだいぶ高いところだったらしい。
 ジーンとしびれる感覚がハヤミの足を覆い、目から微妙に涙が出てくる。
 その目の前には、口をあんぐり開けて驚いている少女の顔があった。
「どっ、どうだ!」
「……ふあ」
 だいぶ驚いたらしい。
 それでもハヤミが黙ったまましびれる足を堪えていると、少女はふたたびクスクスと笑い出し、突然なぜかハヤミに抱きついてきた。
「のあ!? お……ぶふっ!!! な、なんでッ!!??」
 頭を撫でられ、抱き直され、ギューッと首を絞められ、なぜか頬にキスとキスとキスを繰り返しブチュブチュされる。
 突然の少女の乱心にハヤミが目を白黒させていると、少女はそんなハヤミの顔を見て再び「ひひひーっ」と笑って、今度は背中側に回り込んで後ろから抱きついてきた。
 胸にあるらしい少女のコアが、ハヤミの背中に押しつけられる。
 硬かった、まるで生きている人肌のようにほんのりと暖かかった。
 二人はしばらくそのままの形でじっとする事になったが、困ったハヤミはしずかに……んん?
 ここは、どこだ?
 ひっそりと静まりかえった巨大な地下洞窟……にしては、全体がほんのり輝きを帯びている。
 周りの雰囲気が明らかに、飛行空母とも地下坑道とも違う雰囲気だ。
 ハヤミ自身の胸に絡まる少女の腕をそっと外そうとしたが……少女はかたくなに、その細い腕に力を入れて離さなかった。
 ここは……どこかの地下都市の廃墟だ。
 しかもこれはハヤミの知るジオノーティラスとは違う、まったく別の国の。
 ハヤミの背中から、小さく少女の泣き声が聞こえてくる。
 ギュッと、ハヤミをつかむ腕にも力が入る。
「…………」
 少女は、ハヤミの背中で泣いていた。
 グリグリと背中に少女の頭がこすりつけられ、同時に冷たい何かがハヤミの服を濡らす。
「おまえ……」
 ここに、ずっといたのか。
 言おうとしたが、ハヤミは言葉を話すことが出来ず、息を飲んでそのまま黙りこんでしまった。
 地下世界は、見える限りではすべてが完璧に近い形で整理整頓されていた。
 整理整頓……と言うよりは、単に「綺麗にゴミがまとめられている」と言った方が正確かもしれない。
 元幾何学的だったであろう巨大高層ビル群たちは、砕け破れた場所以外はすべてピカピカに清掃されている。
 そこら中にあったであろうはずのゴミやガラクタも、見える範囲ではすべてが綺麗に収まり、まとまっていた。
「これ、お前が全部片付けたのか?」
 かなり長い時間がかかったはずだ。
ハヤミは背中で泣いている少女に問いかける。
 答えるのは、小さな嗚咽と、空洞に響く二人のこだまだけ。
「大変だったろう」
 ハヤミはポンポンと、体に廻されて動かない少女の腕をたたいた。
 少女は、腕にギュッと力を入れて無言で答えた。
「よく、頑張ったな」
 無言。
「……」
 答えはずっと、ない。
 答えは誰も、答えることができない。
「……」
二人は何も答えることが出来ないまま。
しばらくすると、ふたたび空気を読めないハヤミの腹が「ぐぐぐううううう」と鳴って、暗闇の中に大きなこだまをつくって静かになった。
「!」
「……」
 と、今度は背中の方からも「くきゅう」とかわいい音が聞こえてくる。
 ハヤミは一瞬ハッとしたが、次にその二重の音が何だったのかを理解すると、今度はなぜかハヤミはなんとなく笑いたくなってきた。
「ククッ、うははっ」
 別におもしろいことは何もないのだが。
「えへへっ」
 少女も一緒に、笑い出す。
 互いに、生まれも言葉も種族も違う間柄。
 だが、体だけはすべてに従順だった。
「腹、減ったな」
「……んっ」
 そこに、難しい言葉は必要ない。
「なんか食わんとなー」
「……」
 たとえ少女が人造兵器(キメラ)でも。
「おい。俺は腹が減ったぞ」
「むー?」
「ユーマちゃんも腹が減ってるんだろ? ほれ、昨日のあのンまかった奴みたいな。なんか食える飯、二人で一緒に探そうぜ」
「……ん! ヤナ レズォロルヴェヒニー!」
 言うと少女はハヤミの後ろでポーンとジャンプし、ハヤミの肩の上にドサリと座り込んできた。
「うっ!?」
 ……と思ったが、特に「重い」わけでもなく。
「お前、ずいぶんと軽いな」
「レノ! ダーツィェヴォナズーガ!」
 ハヤミの頭の上で、まるで操縦桿を握るような真似を見せる少女。
 少女のかぶるヘルメットの明かりを着けると、先ほどまでうっすら明るかっただけの地下都市がハッキリと見えるようになった。
「なるほどー。俺はお前の、パワードスーツって事だな? よーっし、分かった! ほいじゃーちょっくら、地下都市探検と行くか!」
「レノヴォア!」
 少女のかけ声、頭の上の感触にあわせてハヤミは足下の少女のスコップを拾うと、少女の灯す明かりをたよりに、元気よく、地下都市の中心部へと歩みを進めた。

 人類最後の戦争は、最後の最後まで、本当に何も生み出さないまま自然に終わっていたらしい。
 少女のいた地下世界は、無人のまま、本当に何十年も破棄保存されて今に至っているような不思議な雰囲気を醸し出している。
 闇に白い地肌をさらけ出す、真っ暗な超高層ビル群。
 水の枯れた噴水。
燃え残った車と、それを押しつぶす形で破棄された戦車。
それとは別に道ばたに所々置かれている国旗やさまざまな調度品の山は、これはどうも少女が町を片づけた後のものらしかったが。
淡い光に覆われた元超高度文明の廃墟は、あちこち無残に破壊された跡が残っている。
それ以外は、完全に当時のままで残っている様にも見える。
ここの住人達は、いったいどこに消えたのだろう?
地下都市を照らす光達は、どうやらこの地下都市国家特有の、何かの半永久端末の光らしかった。
「ん!」
ハヤミの肩に乗る少女が、そんな廃墟の一角を指さした。
 真っ暗な幾何学模様の世界に、所々闇の濃い部分があるが。
 ハヤミを挟み込む少女の太ももの温もりを感じながらノシノシと町を歩くと、ハヤミはふと自分の吐いている息が白いことに気がついた。
「へっ……へえっ……ど、どこだい?」
 当たり前だが、この地下都市もだいぶ大きく創られているらしい。
 自分がどこからどうやってこの地下世界に降りられたのかは……肩の上にいる、しゃべれない天使のような少女しか知らないのだが。
 ハヤミは、そんな少女の指さす場所に少女を担いで近づいてみた。
 バシャリ
 歩いていて突然、足下で音が鳴る。
 覗いてみると、いつのまにか下には水たまりが広がっていた。
「うっへ、冷てェ!」
 思わずハヤミは足を止めたが、その拍子に肩の上から少女がピョンと地面に飛び降りて、パシャパシャと音をたてながら暗闇の向こうに走って行ってしまった。
「お、おい!」
 咄嗟にハヤミは少女に声をかけるが、でも少女の白い姿はすぐに闇の中に消えてしまっている。
 しばらくしてから、今度は闇の向こうで水をかき混ぜるような音が聞こえてきた。
 バシャバシャと。
 何かを追いかけているような。
 細かい水しぶきもうっすらと飛んでくるが。
しばらくハヤミが水の上で待っていると、ふたたび少女は闇の中から走って戻ってきて。
「ん!」
「ん?」
 少女は闇の中で、二匹の巨大なエビ……エビ? 長い触角を生やした、何十本もの足をワキワキと動かしている、真っ白なシャコのような生き物を差し出してきた。
「……おお!?」
 見たこともない種の様だが。いや、なんとなく、ロブスターにも似ているかもしれない。
「ん、ん」
 言うと少女は、ロブスターをハヤミに押しつけ、手渡してくる。
「え、ええっ、あああう、う……」
 戸惑いながらも少女に手渡された白ロブスターを手に持ってみると、ロブスターは確かに、見た目と同じくらい重かった。
「ぎええ……」
 重いながらも緩慢な動きで、ハヤミの手の中で足を動かし続けているロブスター。
 見れば……なんだか、何かの深海生物みたいだ。
 しばらくハヤミは白いロブスターを持ったまま水の上に立ち尽くしていたが……いや待てよ?
 なんで、生き物がここにいるんだ?
 少女を見ると、まるで捕った獲物を自慢したくて枕元に来ている子猫のような顔の少女が、ロブスターを持って立っていた。
 足下を見ると……生き物だ。
 白いロブスターの幼生が、ハヤミの足下をふわふわと泳いでいる。
 掬うとロブスターの幼生はすぐに採れた。
「生き物だ。生物が生きて、るんだ……」
 窪みの水たまりは、まだまだ奥に広がりがあるらしい。
 波紋が広がる。
 真っ暗な闇の中では、白い服を着た、白い翼の少女が不思議そうな顔をして立っていた。
「ヤヴィ ネ ムローゥテゲ ゥハ?」
 言いながら手に持つロブスターの甲をツルツルとなぞり、ロブスターを開きにする真似をする。
 食べないのか? と言っているのだろうか。
「いや、うん。すまん、ちょっと考え事しててな」
「?」
「って、言っても分かんないよなあ……」
 そう言うと、ハヤミはワキワキと足を動かしているブロイラーを持ち上げてしげしげとその白い生物を眺めた。
「生きてる生命体が、まだ世界には普通にいるんだな、って」
 真っ白な眼に、異様に長く伸びた触角。
生まれてから一度も太陽に触れたことのなさそうな、白い甲羅。
 小さな蟹爪。
ロブスターの白い眼が、ハヤミの眼をゆっくり覗いてきたような錯覚を覚える。
このロブスターは、きっと目が見えないんじゃないだろうか。
で、今度はその盲目の眼が二つから四つに増えて、グジャっと上から新しいロブスターが覆い被さってきて、ハヤミのロブスターは重量を倍加させた。
「ネヴォロ ミ ナ メソ! ハヤミ!」
「ああすまんな。なんだって?」
 待ちきれないハヤミを、少女が何かと急かす。
少女のちんこい二つ目は、ハヤミの何かを見てキョロキョロと輝いていた。
「あー、ん。……んんん、んんっ! ん! んあー……んっ! んーん?」
少女は二匹のロブスターを両方ハヤミに押しつけると、何か言いたげに窪みの奥とハヤミを指さし、次いで自分を指さすと、今度は反対側の町の廃墟を指さした。
そしてふたたび、何かを掘る仕草を繰り返す。
「ははあ、俺にここでロブスターを採れと。その間にユーマちゃんは、向こうで何かをしてくるって訳だな」
「ん。……ろ、ろぶ、す、てーぃ?」
「これだよ、これ」
 そう言って二匹の白いエビみたいなものを持ち上げる。
「……んん!!」
 少女は満足げにうなずいた。

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