プリズムの虹を語らう者たち
今回は「飲み友達」の話をしたい。いきなりこのような書き口で切り出してみたが、別に私には1人たりとも飲み友達はいない。では「飲み友達」とは誰なのか。ここで言及する「飲み友達」とは父の飲み友達である。そしてこの記事は、全くもって「臭い」話である「人のあり方」といったカテゴリーの話をするものである。
父には飲み友達が多くいる。約20年ほど前から某駅飲み屋街を出歩き始めた。以来、約5年ほど前まで、深夜1時まで飲み、タクシーにて2時に帰宅して3時間睡眠をとった後、5時に起床して出社、という狂気に満ちあふれた生活を父は送っていた。到底真似できる生活ではない。どう考えても平日3時間睡眠は身体がもたない。常軌を逸した生活を彼は53歳まで続けた。ある種の尊敬の念を私は覚えている。
最近は郊外に転居したこともあり頻繁には飲み歩かなくなった。加えて年齢的にも遅くまで飲むことができなくなったようで、60手前にして健康的な生活と睡眠時間を確保した。曰く、肝機能の数値が大幅に改善したとのことだ。
父はこの20年間様々な飲み友達をつくってきた。もちろん、飲み友達というのは薄情なもので、特に関係を繋ぎ止めるギリもなく「出会いと別れ」がある。それをもってしても、あまり顔を出せなくなってもなお、仲良くしている飲み友達が存在するらしい。少し楽しそうな話である。
今まで父が出会ってきた飲み友達は数多くいるが、その中でも父にとって忘れられない飲み友達がいる。その彼がこの記事の中核となる人物である。
父は音楽が大好きで、人生の大半は音楽に注ぎ込んできたような、音楽なしでは生きていけない男である。そしてその飲み友達もまた、音楽なしでは己の人生を構築することのできない男だった。
控えめに言って父は音楽に詳しい。長年のバンド生活の成果があって和音レベルで絶対音感がある。彼はしばしばコード理論的に音楽の魅力を語った。同時に、ある程度の音楽史に精通していて、今でも話を聞く度に勉強になる。加えて、父が音楽を積極的に聴いていた時期であれば大半の楽曲を知っている。飲み仲間の中ではちょっとした「音楽博士」のように扱われている。
ところが、父は確かに自らを音楽をよく知る人物だと認識している一方で、父が実際に「音楽博士」だと認めているのは、ただひとり、ある飲み友達だけだった。
彼はおそろしいほどの音楽ライブラリを所有していた。古今東西、どんな音楽であっても収集する、言ってしまえば重度の音楽コレクターである。データ総量はハードディスク単位だ。
父が音楽をよく聴いていた時代は、カフェの有線放送だとかラジオ放送が今よりも一般的な時代だった。昔は有線放送の会社に「〇月〇日〇時〇分に流れていたのはなんて曲ですか?」と電話で問い合わせられる時代で、今とは違って中々多くの音楽を「dig」りにくい。だからこそ、有線放送やラジオ放送をしっかり聴いて新曲リサーチをする。現代よりも音楽を能動的に聴いていた時代と言えるだろう。
その中で、アーティスト・曲名情報をリサーチできなかった楽曲というのも自然に生じる。それらの楽曲は父の中で「数十年探しているが見つからない曲」となって沈殿していく。
そこに現れた「音楽博士」こと飲み友達は圧倒的なライブラリを持ってして「ズバッと」解決してくれたのである。たとえば、次のような楽曲がある(私はnoteの機能をよく使いこなせていないので、もしかすると文末にYouTubeの動画が添付されているかもしれない)。
父が軽くメロディを口ずさんだだけで瞬時に楽曲情報を言い当てたらしい。父が未解決であった楽曲は十数曲あったが、この音楽博士のおかげで半分ほどは具体的な曲名を知ることができたとのことだ。ゆえに、父は尊敬の年を込めて「博士」と長年呼んでいた。
父も「博士」も同じミュージックバーに通っていたが、「博士」はある時期を境に店に来なくなる。父が寂しがっていたところ、ある音楽が店に流れた。「博士」しかリクエストしないようなマニアックな楽曲である。
父は思わず店内を見回した。楽曲が流れ終わるのと同時に見慣れない男が退店するのを目にした。その直後にマスターが「"博士"は亡くなったらしい」と父に告げる。
父はかなり憤激した。「あの男を引き止めてさえいれば"博士"の詳細な話を聞けたのに」。父は「博士」のいない店内で不自然に流れた楽曲を耳にした時、薄ら悟っていたのである。ここしばらく顔を見せない「博士」を知る唯一の手がかりを失ったことに父は怒りを隠せなかった。
その後、父は奮闘したらしい。「博士」の関係者と飲み会を開くまで漕ぎ着けた。「博士」を中心に、会社の知り合い、飲み仲間、親族の三者が集った。三者が各々「博士」の人物像を語ると他の者が驚いたらしい。各々が知らぬ「博士」の一面に驚いたのであった。
この話を聞いて私が思ったことはふたつある。ひとつは、羨ましいという感情である。自分が死んだ後、こうして各コミュニティの知り合いが集うことは誰しも嬉しいことではないだろうか。様々なコミュニティから集まった人たちによって、それぞれのコミュニティへのキャラクターについて驚きや意外性を見出しながら思い出話に花を咲かせてもらえるのは、至上の死後の世界なのではないかと思う。
そして、人はみな、その場ごとにキャラクターを切り分けていることが興味深く思った。当たり前と言えば当たり前であるし、確か心理学上でも通説になっていると思う。人はその時々に多様なキャラクターを無意識に演じる。親、兄弟姉妹、従兄弟・伯父叔母、友人、上司同僚部下、先輩同期後輩。誰もが相手ごとにキャラクターを多少なりとも区別している。私はこの話を聞いて、私が親しくしている人たちもどこかでは私の知らないキャラクターを無意識的に演じていることを意識した。私は親しくしている彼・彼女たちをより詳しく知りたい。ゆえに、私が知らない複数のキャラクターについてももっと深く知りたい。
「博士」の話は、死後、誰かが弔ってくれるような人間に私はなりたいと思ったきっかけとなった。人の価値は記憶に立脚するのではないか。私が五感で蓄積してきた記憶こそが私を私であると同定するし、他方で多くの人々が蓄積している私の姿・記憶が私を同定する。だからこそ死後、友人たちが何でもいいから追憶しながら静かに酒でも1杯飲んでくれるのであれば、私の死はかなり報われるのではないかと思う。それほどまでに、「博士」の話は私にとって強く記憶に残っている。
そして誰しもキャラクターを無自覚に切り分けていることを明白に意識させる今回の事例は、友人や家族、恋人のことを今以上に知りたいと思わせるきっかけになった。もちろん、誰しも1から100まで知られたくないだろうから、あまり踏み込んで尋ねることはない。ただ、相手の中に私の知らない側面があることに趣き深さを感じたのであった。
私は今よりもっと人を大事にしなければならないという教訓を得た。死後、彼・彼女らに弔ってほしいという私自身のエゴはもちろんある。しかしそれだけに留まらず、日頃から親しくしている人たちへの関心と、彼・彼女らが私にとって大切な存在であることを再認識した。当然ながら、一度獲得した交流を容易に手離したくない。だからこそ、より丁寧に、親身に接して長く交流を深めていきたい。