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第三帝国の誕生 第1夜~終焉・思想・前史~

■はじめに

 本文はポッドキャスト『カエサルの休日』の第116回『第三帝国の誕生』全13夜の書き起こしとなります。

◇内容は──
・ナチズムとは
・19世紀末のドイツ史概観
・第一次世界大戦の終結とドイツ革命
・ヴァイマール共和政の成立とナチ党の誕生
・ナチ政権の成立
・ヒトラー独裁の確立
・参考文献の紹介

◇話し手は乃木【N】とダニエル【D】
 
◇所々挿入されているタイムコード([TIME]----00:00:00)は音声の該当箇所の時間を示し、ポッドキャストの目次と対応しています。

◇基本的に音声の文字起こしですが、文章は読み易さを優先し、ノリが変わらない程度に修正しています。

◇「※」に音声外の補足説明を追記しました。

◇それでは以下、本編となります。ごゆるりと~。

■音声リンク

『第三帝国の誕生 第1夜~終焉・思想・前史~』

■終焉----00:00:07

[TIME]----00:00:07 最初の言い訳
【N】ということで、今日は「第三帝国の誕生」という話をしようかと思います。
【D】はい(笑)──いいですね。こりゃあデカいですよ……皆さん。
【N】「第三帝国」──ご存知ですか?
【D】「第三帝国」というのはよく聞きますがね。
【N】いわゆるナチス・ドイツのことですね。
【D】はい。
【N】この「第三帝国」のお話をしようかと思うんだが、そもそも、なんで「第三」かってご存知ですか?
【D】いや、わかんないですね、そういえば。
【N】多分、なんとなく聞いたことがあるという人が多いと思うんだけれど。──あれ、3番目の帝国という意味なんですよ。まあ、そのままだね(笑)
【D】じゃ、1番と2番が何かという話ですな。
【N】そうそう。1番は「神聖ローマ帝国」。2番目はいわゆる「ドイツ帝国」──1871年にできた帝国で、第1次世界大戦が起きたときのドイツ。
【D】ムツゴロウ王国は入んないっすか?
【N】ムツゴロウ王国は入んないっすね。まだ建国されていない。
【D】そうっすか(笑)
【N】だからようは、神聖ローマ帝国もドイツ系の帝国と見なされているわけですよ。名前、「ローマ帝国」なんだけれどね。
【D】へー。
【N】一応あれ、ドイツ国家で。
【D】へえ、そうなん。
【N】まあ、国家といっても大きな連合体みたいなものなんだけれど、一応、ドイツの歴史の中における自分たちの帝国という意識があって、──それが1番目。で、2番目はさっき言った「ドイツ帝国」。第1次世界大戦の頃までのドイツ。そしてそれを引き継ぐ者として「俺たち第三の帝国!」ということで「第三帝国」
【D】ふむふむ、はい。
【N】ただこれ、正式な国号じゃないですよ。

※帝政ドイツ、ヴァイマール共和国、ナチ・ドイツ、いずれも正式な国号は「ドイツ国(Deutsches Reich)」です。

【D】うん。
【N】──なんだけれど、まあよくそういうふうに呼ばれていた。で、本人たちもそのように呼ぶことがあった。
 で、この「第三帝国」──ひとつ補足しておかないといけないところがあって……。これ、ドイツ語だと「Drittes Reich」。この「Reich(ライヒ)」を「帝国」と訳すのが適切かどうかというのは、実はかなり微妙だったりするんですけれど、──とりあえず今回は、一般的に使われている「第三帝国」でいきます。

※「Reich」は包括的な国家・政体を表す言葉であり、直訳ができない言葉です。帝政が廃されたヴァイマール期、ナチ・ドイツ期にも用いられており、少なくとも「帝国」に限定される名詞ではありません。

【D】はい。
【N】──ということで、第三帝国のお話なんだが、まず言い訳を済ませておきたい。
 この辺のお話というのは、とてもじゃないんだけれど、ここでは話しきれない(笑)
 なので、自分なりに大事かな、と思うあらすじを喋っていこうかと思うんだけれど、当然切ったり省いたりしまくるんで……。「あれ? あの出来事には触れないのかい?」とか「あの人物は出てこないのかい?」ということが多いと思うんだけれど、それを全部拾うのは無理なんで、ご容赦! と。
【D】はい。
【N】あと……ムズい!(笑)
【D】(笑)
【N】「ムズい」というのは、つまり自分自身も勉強中のことなんで、そこもご容赦くださいと。
【D】はい。
【N】特に、諸説ある事象──この番組を聴いてくれている人にはおなじみかもしれない「諸説」──が多いというのと、……あとやっぱり、どこまで最新研究に基づいて知識を更新できているかというのが、甚だ心もとないんですよ、自分自身でも。
 というのは、やっぱりこの分野って日本人の著作以外となると、私なんかはどうしても翻訳に頼らざるを得ないんだよ。けれどね、翻訳自体がどこまで間に合っているのかというところなので……。
 基本的に世界史って、それが宿命なんだけれど。

※膨大な研究があるので、「出来事」そのものの事実関係に関してはそれほど揺らぎはないかと思います。ここで言う「諸説」とは事象に対する「歴史的評価」や意味付けの議論になります。

【D】うん。
【N】たとえば、日本語のネットとかだと、やっぱり30~40年、下手したら50年前の書籍とかが参考になっていたりするわけさ。
 で、自分も取っかかりは、やっぱりジョン・トーランドという、ヒトラーの伝記を書いた人がいるんだけれど──、その辺から入って……。すごく古いんだけれど、これ。

※ジョン・トーランド『アドルフ・ヒトラー』(永井淳訳・集英社文庫)

【D】うん。
【N】──で、最近ではイアン・カーショーのヒトラー伝、あるいはリチャード・J・エヴァンズというような人たちを参考にすることが多いんだけれども、このカーショーのヒトラー伝もそれなりの歳月が経っているんですよ。
 そのあとから、また新しい本が出てきたりすると思うんでね。
 ただ、現時点で日本語で読めるものとしては、カーショーやエヴァンズはものすごくいいと思います。

※イアン・カーショー『ヒトラー 上 1889-1936 傲慢』『ヒトラー 下 1936-1945 天罰
※リチャード・J・エヴァンズ『第三帝国の到来(上)』『第三帝国の到来(下)

【D】うん。
【N】ということで──、自分の知識も古いところとか、あるいは誤りもあるだろうということで、むしろ「最近はこんな見方なんですよ」という、ドイツの歴史に明るい方がいれば、ぜひ教えていただきたい(笑)
【D】ほうほう。
【N】──という(笑)。で、参照している著者の名前とかはちょいちょい話にも出すと思うし、あと最後にはちゃんと主要な参考文献とか、オススメ書籍なんかも紹介しようかなと思っているんで。
【D】はい。……ただ、その「最後」がなかなか訪れないというね(笑)
【N】そうです……(笑)

[TIME]----00:04:55 第三帝国の終焉
【N】じゃ、いきなり入りますが……。
【D】はい。フル・マラソンがスタートするわけですね! ついに。
【N】入ります。
【D】はい。
【N】まあ、いきなりですが、ドイツが第2次世界大戦で負けたのはご存知だと思います。──が、どんな終わり方をしたかって、イメージあります?
【D】どんな終わり方をしたか……。やっぱり連合軍が来たんじゃないですか?
【N】まあ、そういう感じですよね(笑)
【D】そ、そういう感じです(笑)。なんか最後は連合軍が来て……。日本もだけれど。
【N】まあ、話は「第三帝国の滅亡」ということで、さっそく最終回です。
【D】(笑)──ああ、そういう映画、よくありますね。
【N】この終わりというのは、1945年4月30日の午後3時半頃。
 ベルリンの総統官邸の地下壕で、アドルフ・ヒトラーが自殺します。56歳。
【D】うん。
【N】28日の夜に急遽結婚式を挙げて、1日半だけ奥さんであったエーファ・ブラウンと一緒でした。一緒に死ぬと──。
【D】はい。有名な方ですね。
【N】そう。「エヴァ」・ブラウンって言ったほうが、たぶん通りはいいです。
【D】僕もよく聞くのは「エヴァ」・ブラウンですね。
【N】でも向こうの発音に近づけて、最近ではエーファ・ブラウンと言うほうが多いかなと。
【D】ふーん。
【N】で、そうやってヒトラーがお亡くなりになっちゃって最終回なんですが……。
 その後、ヒトラーの遺言で後継者に指名されたのは、プレーンという場所にいた海軍総司令官のカール・デーニッツ元帥──。彼が大統領兼国防軍最高司令官になった。
 なので実はこの時点でナチ・ドイツは終わっていないんです。
 でもベルリンでは総統亡き後、一度は「赤軍」──その頃ベルリンを包囲していたのは「赤軍」つまりソ連軍です──と講和交渉を持つんだけれども、これに失敗する。赤軍から拒否されるんです。
 これに失敗して、ナチ党の幹部たちは自決したり逃亡を図ったりと、指導部は崩壊するんですよ。
 で、5月2日早朝、そういった偉い人たちが責任を放棄する中、現場でギリギリまで踏ん張っていたベルリン防衛司令官のヘルムート・ヴァイトリング砲兵大将が、ソ連赤軍ワシーリィ・チュイコフに降伏を申し入れ、市街の麾下部隊に戦闘停止を命令するんですよ。
【D】ほうほう。

●プレーンとフレンスブルク

【N】そこで実質的な戦闘が終わり、その後、ベルリンの外側で、さっき後継者に指名されたデーニッツがこの第三帝国の後片付けをするため、臨時政府を樹立するんです。
 これを所在地の名前をとってフレンスブルク政府と言うんだけれど、デーニッツはこのフレンスブルク政府の首班として、連合国への降伏を決めるんです。
 そして5月7日、デーニッツ政府の認可を受けたドイツ国防軍のアルフレート・ヨードル上級大将が、4カ国代表の前で降伏文書に調印。翌8日に停戦が発効します。ここにナチ・ドイツ、第三帝国が1939年9月に始めた戦争は終わるんですよ。
 実はソ連なんかは5月9日を終わりの日としているんだけれども、まあ、概ね8日と説明されることが多いですね。
【D】うん。なるほど、なるほど。
【N】──という段取りがあった。
【D】まあでも、すぐですね。ヒトラーが自殺してから。
【N】まあね。ただ、ヒトラーの死後一週間ぐらいは粘るんだけれどね。デーニッツはソ連軍に降伏したくなかった。なので、どうにか西側に降伏できねえかということで、色々画策するんだけれど、拒否られてしまって、結局は受け入れるしかなかった。──というような状況だった。
 まあ、ここでいきなり第2次世界大戦を総括するという(笑)
【D】終わりましたね。最終回(笑)
【N】──ヨーロッパにおいては5千万人以上が死亡した戦争だった。ドイツは軍人が440万から530万くらい。民間人は150万から300万。これ、ちょっと色んな数字があるんだけれど……。

※戦闘員444万~531万8000、民間人150万ないし300万(大木毅『独ソ戦』ⅳ)

【N】特に独ソ戦、ドイツとソ連の戦い(東部戦線)においては最大の犠牲者を生みまして──。
【D】はいはい……。
【N】交戦国ソ連はトータルでおよそ2700万。
【D】すごいね……。すごいな……。
【N】これ、1つの統計によれば人口の13パーセントくらいだと言われている。

※ソ連総人口と犠牲者の割合に関して──。1939年時点で1億8879万3000(大木毅『独ソ戦』ⅳ)という数字に照らせば約14%。バルト三国含め、1940年時点で総人口およそ1億9600万、犠牲者2660万という推計もあり、これに従えば13~14%。

【D】そう……。
【N】で、その間にあったポーランド──最初に攻め込まれたところだけれど──ここが560万ぐらいと言われていますね。
 で、ここらへんの数字というのは、直接の戦闘行為以外での死者、つまり迫害、虐殺、あるいは収容所での死者、あるいは戦争に伴う飢餓、疫病なんかも含んでいる。特にポーランドなんかはホロコーストの割合が高いんじゃないかな。

※ポーランドの国家記銘院(IPN)は560万~580万としています。

【N】──などなど、これ以外の国もすごい破滅的な損害を被っているんだけれど、どれも隔絶した数字ですわな。
【D】そうですね。参考までに日本は?
【N】日本は310万人。
【D】日本で310万……。あの悲劇的と言われる戦争の犠牲者が310万ですよ。
【N】これだけでも恐るべき悲劇なのに、この東部戦線というのはもう桁が違う、というね。
【D】桁が違うんだ……すごいね。
【N】うん。だから、どっちが地獄かって、そういう問題ではないんだけれど、……逆に言うと、我々があれほどまでに悲劇だと思っていた自国の戦争……これの何個分だ? という話にもなってきちゃうわけ。数としてはね。
【D】はい。
【N】──で、さっき、直接の戦闘行為以外の死者という話をしたけれども、この時代は、国策による迫害・弾圧、大量虐殺も行われましたよね。
【D】はいはい。
【N】最も知られるのはドイツが行なった「ホロコースト」。これも推計には諸説あるけれど、概ね570万人のユダヤ人が殺害されたと言われている。
 また捕虜だけじゃなくて、劣等民族と見なされた、ソ連西部から中央ヨーロッパにかけてのスラブ系住民であるとか、あるいはシンティ・ロマ──昔ジプシーと呼ばれていた人たち──であるとか、あるいはドイツ国内の精神障害者とか、そういう人たちも殺害されまして……。ナチ・ドイツによるそういった犠牲者は一説に1100万人と言われていましてね。
【D】はいはい……。
【N】また、これはドイツだけじゃなく、ソ連も戦前から国策に基づく大量殺戮を行っていて……、ティモシー・スナイダーによれば、ナチ・ドイツとソ連両方の政権によって、(1933年から1945年までの間に)ソ連西部からベラルーシ、ポーランド、ウクライナといった地域で、戦闘ではなしに1400万人が殺害された。

※ドイツ及び同盟者によるいわゆる「ホロコースト」と、ソ連によるウクライナ等に対する人工的飢餓政策「ホロドモール」などを含んだ数字。

【D】戦闘ではなしに……。
【N】これは『ブラッドランド』という本になっていますので。皆さんどうぞ。

※ティモシー・スナイダー『ブラッドランド 上: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』『ブラッドランド 下: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実

【N】で、ことほどさように、我々の想像力を麻痺させる恐るべき数字なんだけれども、規模がちょっと巨大すぎて、実に様々な推計がある。なので今挙げた数字もあくまで1つの参考として考えてほしいです。実際に全容を把握するのは極めて困難。
 ただ、ヨーロッパでは5千万人以上というのがよく言われる数字。
【D】はい。
【N】ともかく、この人類史上最大規模の悲劇を地上に現出させた政権の1つが、ドイツ第三帝国、ナチ・ドイツであった。
 その中枢だったナチなんですけれど──。1945年10月10日に、連合軍管理理事会指令第2号(Control Council Law No 2)という命令によって廃止されます。連合国軍が発するわけ。これによって復活も禁じられ、ここに名実共に消滅するんですよ。
【D】ほうほう。
【N】もちろん、実態としてはもうほぼ機能していないんだけれど、一応は法的に葬り去られた。
 戦争が終わった時点、即ち1945年の時点で、党員は書類上約850万人いたと言われています。
【D】すごいね。
【N】そう。党員が、だからね。
 ──そして、この「ナチ」……何者でしょう。なぜ権力を握ったのか……。
【D】お、ここからやっとストーリーが始まるわけですね。
【N】──もちろん、今ちょっと軽く触れたけれど、戦った相手であるスターリンのソ連もすさまじい政権ではあった。が、今回は西側のナチ・ドイツに注目して、この第三帝国の誕生について話してみようと思うんだけれど、……すでに前置きがクソ長くなってしまった。
【D】うんうん。

■思想----00:13:53

[TIME]----00:13:53 党名
【N】まずね、名前なんですよ。「ナチ(Nazi)」
【D】うん。ナチ。
【N】これね、もちろん正式名称じゃないです。
【D】はい。
【N】正式名称は「Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei」(ナツィオナールゾツアリスティシェ・ドイチェ・アルバイターパルタイ)
 ……これ、発音はちょっと勘弁してください(笑)
【D】(笑)──ドイツ語ですね、これは。
【N】うん。この「Nationalsozialist」の略が「ナチ(Nazi)」
【D】「ナショナル・ソーシャリスト」みたいな?
【N】まさにそう。そうです。
【D】あ、ホント。
【N】で、それの複数形がナチス(Nazis)ということなんだけれど──。
【D】なるほど! うん。
【N】ちなみにこの「ナチス」という呼び方、蔑称というか、否定的なニュアンスで使われるものなんで、ご当人たちは自分たちを「ナチス」とは呼びません。
【D】あ、そうなんですね。
【N】そうそう。普通はね、頭文字の略称「NSDAP(エンエスデーアーペー)」と呼ぶ。
 ただ外国、特に日本なんかは当時から蔑称という訳ではなしに、普通に「ナチス」という表記はしていたらしいんですけれどね。
 けれど、もともとは正しい呼び方ではない。なので、ちゃんとした呼び方をする時は「NSDAP」と呼ぶべき。
【D】じゃあ、映画とかで「俺たちはナチスだ」と言う奴がいたら──。
【N】おかしい。
【D】おかしいってことですね(笑)。なるほど、なるほど。
【N】基本的にドイツってね、政党は頭文字で呼ぶんですよ。

※たとえばドイツ社会民主党→SPD、ドイツ国家人民党→DNVP

【N】なので、客観的な記述では本来適切とは言い難いんだけれど、今日はちょっとややこしくなるので基本「ナチ」と呼びます。なのでそこは、ご容赦いただきたい。
【D】うん。
【N】──で、ちなみにこの「ナチ」。日本語でなんて呼ぶかというと、概ね、「国民社会主義ドイツ労働者党」
【D】お、ほいほい。
【N】これね、「あれ? 『国家社会主義』じゃないの?」と思う人が多分いると思うんですよ。
【D】気づかなかったな(笑)
【N】確か我々が習った時は「国家社会主義ドイツ労働者党」だったと思います。
【D】「ドイツ労働者党」のところはよく覚えているんだけれどな、その前がなんだったか、わかんねえ。
【N】前が大事なんだけれどね(笑)
【D】うん、なるほど。
【N】だから今でも多分、「国家社会主義」の方が通じやすいかもしれないんだけれども、基本的にドイツ史研究者の多くは「国民」を使いますし、そういったプロパーによる著作とか、その監修を受けている翻訳なんかでも、ほぼほぼ「国民社会主義」と訳されています。
 あと、最近は教科書も多分「国民社会主義」になっているのが多いんじゃないかな……。
【D】ふーん。
【N】じゃ、これなんで「国家社会主義」じゃイカンのか、ということをまず話しておかねばならんのですが──。
 そもそもね、原語の「Nationalsozialismus」の訳語としては不適切だから、ってことらしいんですね。
 ちなみにこれ、さっきダニエルさんが言った通り、英語では「ナショナル・ソーシャリズム(National Socialism)」ですな。
【D】はいはい。
【N】で、実はこの「国家社会主義」という日本語は、そもそも複数の意味で使われているんですよ。
「National Socialism」とは別に「State Socialism」という政治思想があるんだけれど、これも国家社会主義と訳されてしまう。
【D】うーん。はいはい。
【N】で、「State Socialism」というのは国家主導による社会主義という意味で、一方のnationalというのは日本語では「国家」とも「国民」とも訳されるんですよ。でも、かたやstateがあるので、じゃあここは「国民」にしておこう──、ということなんですよ。
【D】はいはい、なるほど。
【N】stateと区別するために「国民社会主義」にしようと。……もっとも大昔は「国民社会主義」だったんだけれど、途中から「国家社会主義」になったんだよね。

※戦中戦前の用例として、たとえば東亜研究所版の『我が闘争』(昭和17-19)では「国民社会主義」となっています。そのほか──、
『国民社会主義独逸労働者党の綱領と其の世界観的根本思想』(内務省警保局)(1932)
『フアッシズムと其国家理論 特別付録・伊太利労働憲章/国民社会主義独逸労働者党の綱領』(五来欣造)(1935)
 ──等々。
 
【D】あ、そうなんだ。じゃ戻ったの?
【N】そうそう、先祖返りしたという。

[TIME]----00:17:37 国民社会主義と民族共同体
【D】なるほど。
【N】で、これ、日本語のノリでは「国民のための社会主義」という……。これ、どういうことでしょうか。
 さっき国家社会主義は国家主導による社会主義と言ったけれど、ナチスも国家が指導していたんじゃないの? と。
【D】うんうん。
【N】ナチスって、国家が一番で国民がそれに服従しているというイメージがありません?
【D】あー、はいはい。あります。
【N】でもね、実はナチってちょっと違うんだよ。
【D】ああ、そうなんですか?
【N】そう。ヒトラーのナチスは国家を至上のものとは捉えていなくて、至上は「民族」
【D】ああ、そうか、そうか。
【N】そして「民族共同体」。これが一番大事なものなんですよ。で、国家はそれのための「器」に過ぎないと見なしている。ヒトラー自身、彼の著作である『我が闘争』の中でも──。
【D】『マインカンプ』ですか?
【N】『マインカンプ』です。──その中でも「国家は手段であって目的ではない」とハッキリ書いています。(『我が闘争』2巻2章 国家)
【D】うん。
【N】なので、「国家社会主義」は適切ではないよ、というわけね。このあたりは日本の学者さんだと石田勇治さんとかが書かれていますね。

※長谷部恭男・石田勇治『ナチスの「手口」と緊急事態条項

【D】うん。
【N】ちなみに、さっき出てきた「民族共同体」──、これドイツ語で「フォルクスゲマインシャフト(Volksgemeinschaft)」というんですよ。
【D】はい。聞いたことがありますね。
【N】ちょっとカッコいいけどね。メカメカしい感じで。
 この「フォルクスゲマインシャフト」こそがナチがドイツ国民に掲げた理念なんですよ。
【D】うん。
【N】これは文字通り同じ民族で集まった共同体──。まんまですわな。
 しかし大事なのは、「その中では平等」「民族の前には階級も格差もないんだよ」という考え方なんですよ。
【D】ほうほう。
【N】だから「民族共同体」では、個人よりも民族の繁栄のための公共心、公益性が優先されるんです。
【D】うん。
【N】で、ヒトラー自身は「民族共同体」は国家と個人、民族と個人とが同化したもの、同じ状態になったものだと言っているんですよ。(田野大輔「第三帝国における「民族共同体」」p.42)
【D】──うん、はいはい。
【N】で、「国民社会主義」というのは、そうした「民族共同体」のための社会主義であるから、国家と訳してしまうとそこが見えてこない。
【D】なるほどね。はいはい。
【N】だからそこの考え方を踏まえて「民族社会主義」と呼ぶ人もいます。感覚としてはこっちの方がわかりやすいんですけれどね。
【D】うん、確かにこっちの方がわかりやすいですね。
【N】でも、書籍とかだと「国民社会主義」が多いかな。なので多分、「国民社会主義」と言っていった方がいいかなと。
【D】うん。

[TIME]----00:20:09 社会主義との違い
【N】で、あとはね、「社会主義」という言葉で、なんとなく「ソ連とかの社会主義みたいなものなわけ?」というふうに思ってしまい、「ナチって左翼なの?」と思われることが結構あるんですよ。
【D】はいはい。
【N】実際、冷戦中なんかは全体主義国家論というものがあって、その中でナチ政権も「ソ連と大して変わらんやんけ」と言われていたことがあるのよ。
 しかし、まずナチ党の「国民社会主義」というのは、社会主義の成分を含有しつつも違うものだと見なされています。社会主義ではなくて、あくまで「国民社会主義」──「Nationalsozialismus」という固有のイデオロギーと考えた方がいい。「国民・社会主義」と分けるんじゃなくて「国民社会主義」と。(田野大輔『ファシズムの教室』p.186)
【D】うーん。
【N】で、我々が普通想像する社会主義というのは、生産手段を公有化し、利益を平等に配分して格差をなくしましょうって考え方じゃないですか。「みんなで生産して、みんなで分け前を分配しましょう」という。能力とかではなくて。
【D】はいはい。いわゆる普通の社会主義でしょ? 学校で習う──。
【N】うん。ちなみにね、「共産主義」って言葉もありますけれど、まあ、普通は発展段階である「社会主義」の先にある完成形が「共産主義」──というふうに説明されることが多いかなと思う。
【D】そうですね。
【N】ほら、社会主義というのは公平な分配を達成するために計画経済なんかを仕切る権力が存在する。発展途中だから。けれども共産主義はそれすらねーよ、という状態。
 ──と、こういうふうに説明されることが多いんだけれど、ただ文脈によってはほぼ同じ意味として使うこともあるし、あるいは(従来通り)違うものとして扱うこともある。
【D】うん。
【N】ちなみに「マルクス主義」という言葉もあって、これはいま話したようなことを理論として体系化した思想。いわゆるマルクス・エンゲルスに連なる思想体系ですな。
 ただ、これもやはり文脈によっては同じような、単なる言い換えとして使っていることが多い。
【D】うん、ありますね。よく論法とかに使われるときはそんな感じしますね。
【N】まあ、なんなら、今日、僕もここら辺は同じ言葉として使っちゃうかもしれない。
【D】はい。
【N】で、特に今回のナチスというのは、そこらへんの言葉の定義のムズさを感じさせる格好のネタのひとつですよ(笑)
【D】うーん、ちょっと難しいですね。これは国家体制の話ですか? イデオロギーの話ですか?
【N】イデオロギーですね。もちろん国家体制にも繋がってくるんだけれど。
【D】うーん。
【N】まあ、ともかく、その一般的な定義での共産主義というと、階級を打破して平等を目指し、インターナショナル──国際主義的で、ようは「国や民族を超えて労働者の連帯を広げていく」という志向がある。「万国の労働者よ、団結せよ」という『共産党宣言』の有名な言葉があるんですよ。
 ──ただ、まあ「一国でも革命は可能だよ」というスターリンの「一国社会主義」みたいなものも出てくるんだけれどね。
 ただ、一応は基本的な理念としてそういうインターナショナリズム──国際主義があったとお考えください。
【D】はい。
【N】──と、まあそういう社会主義だけれども、ナチの国民社会主義も多少似ているところがあるんですね。
 それは「平等」。つまりは「階級格差の解消」
【D】うん。解消──。
【N】解消。で、ナチ政権は実際に社会政策──社会主義的な政策をいくつか実施はしている。そして初期は一応、反資本主義を謳っていた。
 じゃあ「あれ? 同じじゃん」と思うかもしれないんだけれど、違いはどこかというと、目指すべき平等というのが「民族共同体(フォルクスゲマインシャフト)」の中での平等だということ。
【D】ほう。ちょっと、よくわからねえな(笑)
【N】つまり平等なのは民族の中だけ。だから「民族の垣根を越えて連帯していこう」という国際主義なんていうのは最高にノーサンキューなわけ。
【D】──はいはい。
【N】ここが共産主義と一番違うところ。共産主義というのは、「平等になろう」という考えをどんどん広げていくんだよね。民族とかじゃなくて階級で団結しようという、横軸なんです。
【D】ああ、なるほど。はい、わかりました。
【N】ナチスの民族共同体は、あくまでその民族の中だけ。
【D】最終的な完成形が小さいんですね──。
【N】まあ、そうね、自分たちだけ。
【D】──規模が。うん。
【N】そもそもね、ヒトラー自身が『我が闘争』の中で、「国際主義が勢力を伸ばしたのはマルクス主義が党を作ったからであり、民族主義もこれに対抗するために党を作らねばならない。我々と国民社会主義ドイツ労働者党はそのための党だ」というふうに書いてある。(『我が闘争』2巻1章 世界観と党)
【D】ああ、はいはい。
【N】これ、つまりどういうことかというと、国際主義である「社会主義」──それに対立する自分たちは民族主義に発する「国民社会主義」だと言っているんですよ。
【D】あ、なるほど。明確に違いを謳っているわけですね。対立するものであると。それはわかります。わかりやすいですね。
【N】ご本人が「あいつらとは闘うんだぜ!」と言っている(笑)

[TIME]----00:25:21 平等と不平等、そして民族至上主義
【N】そういう「民族共同体」の安寧のための公益をのみ希求し、そのために国民は互いに奉仕する──。そういう意味で「社会主義」という言葉を使っている。
【D】うーん。
【N】で、それを実現させるために、平等どころか内では強い従属、外では強硬な排斥と収奪を伴う。
【D】うん……。
【N】というのも、この民族共同体に帰属する同胞のみが大事なわけだから、帰属しない者──というか帰属が許されない者は徹底的に排除・除去される。そこに人種主義とか優生思想、反ユダヤ主義が絡んでくるわけ。
【D】まさに優生思想という感じがしますけれどね。
【N】最近ちょっと、世間でも聞きましたけれどね。
【D】そうですね。よく聞きますね(笑)
【N】──で、まあ、これを歴史学者のウルリヒ・ヘルベルトは「ナチの社会概念は平等と不平等の体系に基づいていた」というふうに書いていますね。つまり平等のためにすんげー不平等をやっていたという。(ウルリヒ・ヘルベルト『第三帝国 ある独裁の歴史』第五章 迫害)
【D】はいはい。なるほど。
【N】まあだから──、
 自民族は他民族よりも優越しているという「不平等」
 優れた民族であればこそ、その内部での格差はないという「平等」
 しかし、リーダーへの極端な服従を求める「指導者原理」という「不平等」
 こういう相反する連環がナチ党イデオロギーの特徴なんですよ。
【D】はいはい、なるほど……。
【N】これに関しては田野大輔さんが「エリート主義原理と平等主義原理とのディレンマを中和する役割を果たしたのが、民族ないし人種という生物的なフィクションであった」と書いているんですよ。「エリート主義原理」と「平等主義原理」って、一見相反するものが両方共存していて、その間を中和する──繋げるものが「民族」あるいは「人種」であった、と。(田野大輔「第三帝国における「民族共同体」」p.50)
 ちょっと難しくなってきてしまいましたね。
【D】うん。でも基本的な考えをここらへんで押さえておかないと。

[TIME]----00:27:34 その曖昧さ
【N】──あと、さっき「反資本主義」という言葉が出てきたんだけれど、反資本主義とは言いながら、それは彼らの言うところの「ユダヤ的金融資本主義」がダメだ、という意味で言っていて、財産私有自体は否定していない。だから資本主義そのものも捨ててはいないんですよね。
【D】うーん。
【N】なので、そういうところでは、いわゆる共産主義とか社会主義とは違う。それどころか、彼らは情勢に応じてスタンスを変え、党の力を拡大させるためにはブルジョワ、資産家、あるいは帝政派の保守貴族なんかとつるんだりもしているんですよ。
【D】うーん、そうなんですか。それ聞くと、どういう──。
【N】わけわかんないっしょ。
【D】うん。
【N】そもそも彼らの経済思想というのはね、最前の平等・不平等の矛盾と同じく、かなり曖昧なの。
【D】あ、そうなの?(笑)
【N】曖昧で、しかもそこに自覚的でもあった。
【D】はー、そうなんすか。
【N】自分たちにはコアになる体系的な思想はなく、問題ごとに考える、というようなことを言っていたりするんですよ。

※ゲッベルスは「ナチズムは個別の事柄や問題を検討してきたのであって、1つの教義を持ったことはない」と述べています。(田野大輔「民族共同体の祭典」pp.188-189)
 また、ヒトラーは経済に関して「国家は特定の経済概念や経済発展とは全く関係がない」「経済は数あるツールのひとつに過ぎない」ということを述べています。(『我が闘争』1巻4章〈ミュンヒェン〉)

【D】(笑)──はいはい。
【N】総じて見ると、ナチズムとか民族共同体というのは曖昧なの。けれど、その曖昧さが強みになった。曖昧であるということは、色んなことを言えるからね。ウケることを。
【D】うんうん。そうですね。でもそれ、見抜かれないんですか?
【N】見抜かれないんですね(笑)
【D】ああ、そうですか(笑)
【N】で、いま社会主義との違いという話になったけれども、構成員的にも多少社会主義成分があったというのは確か。
 初期の党員、初期のメンバーにはシュトラッサー兄弟を代表とする「ナチス左派」と呼ばれている人達がいて、──この人たちはより社会主義的な考えが強かった。党内にそういう一派がいたのね。
 ただ、このナチス左派の領袖たちはのちに粛清されるし、何よりもさっき触れたように、党自体は反共──反共産主義を掲げている。だからボリシェヴィズム──レーニン以来のソ連の社会主義を不倶戴天の敵とみなしていた。
【D】へー……。
【N】徹底的に攻撃を加えたわけですよ。民族を犯す国際主義というのは断固阻止せねばならぬ──、と。しかも彼らは、自分たちの思想であるとか政策というのは輸出ができない、これはドイツ民族のためだけのメソッドだと考えている。(南利明「民族共同体と法(一)」p.23)
 でも社会主義は思想を「輸出」するんですよ。さっき言った国際主義というやつね。
 なので、社会主義と似た部分はありながらも、かなり異質な思想であると。もちろん影響は受けているんだよ。ただ仲が悪い。
【D】うーん。
【N】だから結局、一番わかりやすいキーワードは「民族」──、つまり強烈なナショナリズム、民族至上主義。
【D】その「民族」というのはアーリア人とか、そういうことですか?
【N】「民族」という、かなりふわっとしたものの中に、ナチは人種的な定義を入れようとしてくるわけですよ。そういう中で、「アーリア人種」という言葉が出てくる。
 ──ただ、そこら辺もあとで触れるかな。
【D】あ、わかりました。

※聴き返してみたらば、あとで触れていませんでした……なので、後半に〈ナチズムにおける「アーリア人」について〉を追加しました。そちらをご参照ください。

[TIME]----00:31:05 右翼⇔左翼
【N】──という感じでね、社会主義成分が入った極右であって、矛盾も抱えている。現在の我々には大変わかりにくい人々。
【D】うーん(笑)。ここまででも非常にわかりづらいですね。
【N】ナチを通り一遍の政治スペクトルにはめるのは結構無理があるので……。「第三の位置」なんて言葉もあったりするんだけれど、──右でも左でもない──みたいな……。

※今回詳しく言及できなかったのですが、ヴァイマール期のドイツには、強烈なナショナリズムに反資本主義、反議会主義、社会主義などが結びついた「保守革命」や、「革命的ナショナリズム」、「民族ボリシェヴィズム」など、現代の我々では左右に分類するのが難しい思想潮流があり、ナチ・ムーブメントにはそうしたものからの影響もあります。共通しているのは民族至上主義です。

【N】でも歴史的には、ドイツの右派ブロックや他の右翼組織と提携し、権威主義的な保守との取引で権力を握って、共産主義者と社会民主主義者を徹底的に攻撃したナショナリスト政党なので、政局的なポジションとしては基本右翼に扱われます。
【D】うんうん。
【N】「ナチスは左翼だ」ということを言う人が本当に多いんだけれど……。基本的には右翼として扱われますよ。
【D】そうですね。そういえば右翼と教わったけれど、その後なんとなく左翼的なところで捉えていましたね。そういえばそうだ、右翼だって教えられたな。
【N】党名に「社会主義」という言葉が入っていたり、あるいは中身にも確かに似た要素がある。──だけれども、そもそも左翼・右翼というのは非常に相対的な言葉なので、その国とかその時代において初めて定義ができるものなのよ。
【D】うんうん。
【N】だから、今の我々が抱いている右翼・左翼のスペクトルにはハマらないんだけれど、一応この人たちは右翼と扱われる。
【D】うん、はい。

[TIME]----00:32:40 反ボリシェヴィズム+反ユダヤ主義
【N】ということなんですけれど、──さらにもうちょっとエッセンス的なところでいうと、特にいま言った「反ボリシェヴィズム」──反共産主義と、「反ユダヤ主義」が結合したのが、ナチそしてヒトラーの思想の最大の特徴。ナチはこの2つの敵を一体不可分の害悪とみなしていくんですよ。「マルクス主義はアカン。そしてそのアカンものを広め、裏で暗躍しているのはユダヤ人である」という発想。
【D】なるほど、なるほど。
【N】で、ユダヤ人は資本主義のイメージを持ちながら、マルクス主義とも繋がっているというんですよ。どっちにも、というね(笑)
【D】うーん……。
【N】で、こういう世界観がソ連に対するいわゆる「絶滅戦争」、そしてユダヤ人に対するホロコーストへの道を開いてしまう。
 ──と、まあ、名前だけで長話になってしまったんだけれど、とにかくこの「民族共同体(フォルクスゲマインシャフト)」という概念と、「反ボルシェヴィズム」──「反共」と「反ユダヤ主義」というのは重要です。
【D】うん、わかりました。
【N】という人たちであると。

[TIME]----00:33:53 党の原点
【N】──で、このナチというのはさっきも言った通り、終戦時に850万人いた。しかし、何にでも始まりがある。
【D】はい。
【N】このナチ党の前身である党ができたのは遡ること26年前の1919年。場所はバイエルンのミュンヒェンでした。南ドイツだね。1919年当時のドイツというのは、こうした小さな党や政治結社、政治団体がボコボコ作られていました。
【D】うん。
【N】集会はもっぱらビアホールで行われていた。ドイツっぽいですよね。
【D】ほー。うん。
【N】で、その小さな党もビアホールでジョッキを傾けながら政治談義をする、というような、無数の小さな政治サークルの1つだった。
【D】ふむふむ。
【N】初期の党員は4、50人ぐらいだった。まあ、そんなに少ないとは思わないけれど、全然歴史を動かせる規模じゃないよね。だってのちには850万人になるんだから。
【D】うん。
【N】そして、このままこの人たちの話をしたいところなんだけれど、1919年当時のドイツの状況について話さなければならない。
【D】そうですね。そこが気になるところです。
【N】──当時のドイツ国内というのは深刻な分断と混乱の極みに達し、テロや暴動が頻発して、ほぼ内戦寸前と言っていいような状況だったんだけれど──。
 じゃあ、なんでそういう時代なのかというと、前年の1918年、ドイツが第1次世界大戦に敗れ、ドイツ帝国、いわゆる第二帝国が倒れたから。
 となると、これはもう第1次世界大戦での敗北と、それに伴う「ドイツ革命」について話さなければならない。──ということで、どんどん遡ることに……(笑)
【D】じゃあ、まずはそこからいく訳ですね。はい。(笑)
【N】まあ、ナチスとヒトラーを生み出したのは間違いなく第1次世界大戦なので──。
【D】うん。
【N】──それどころか悲しいお知らせなんだけれど。
【D】はあ、悲報ですね。
【N】悲報なんだけれど、……第1次大戦の前のことも喋らないといけない──、という(笑)
【D】(笑)──悲報過ぎる。
【N】これ、完全に歴史の悪いところだよね(笑)
 ということで、政治サークルのあんちゃんたちにはまだビールを飲んでいてもらうしかないという……(笑)
【D】はい、はい。じゃあお待ちいただいて。

■前史----00:36:10

[TIME]----00:36:10 起源の探求
【N】──というのも、ドイツ国民がナチズムの台頭を許してしまった原因というものが、昔から研究されていたわけだけれど、そうなると第1次世界大戦はもちろんのこと、帝政期のドイツそのものの社会状況にそれを見出そうという発想が出てくるんですよ。
【D】はァ、うん。
【N】だって、1919年にビアホールでジョッキ片手におしゃべりしていたワーカーたちなんていうのは、普通の人々ですよ。
 でもこのサークルが、わずか20年後に世界大戦を引き起こし、20世紀最大の悲劇を現出させる組織に変貌するわけで。だからそれはこの組織の体質とか、1人の指導者のカリスマだけで説明がつくはずはないんですよ。
【D】うんうん。そうですね。
【N】ということで、帝政ドイツの話を少し……。
【D】(笑)
【N】──で、まず戦後、かつてナチズムやヒトラーというのは、突然変異的に、いわば事故──アクシデントとして出現したものなんだ、という考え方があった。
 が、1970年代くらいから、そのナチや第2次世界大戦もまた、帝政ドイツ──帝国時代のドイツからの歴史的連続性の中で必然的に起こったことだ、という考え方が出てくるんですわ。
【D】はいはい。
【N】ようは、ああいうのが生まれてしまう歴史を、そもそもドイツは歩んできてしまったんじゃないの? という考え方。
 で、これね、最初の内はルターの宗教改革とか三十年戦争まで遡ったりしていたんだけれど(笑)、それはさすがに厳しいのでスルーというか、……(学術的にも)さすがにちょっと無理だろうということになっているんだけれど……。
 ともかく、それはイギリスやフランスといった国とは異質の歴史である、という考え方。つまり、市民革命を経て近代社会を迎えたイギリス、フランスと違って、色々つまづいちまった歴史なんだ、と。
【D】なるほどね。はい。
【N】で、これは「ドイツの特有の道」と呼ばれるんですよ。これがかつて議論になった。「特有の道」論と言ってね。

[TIME]----00:38:17 1848年革命とドイツ帝国の誕生
【N】じゃあ第1次世界大戦前、19世紀のドイツについて、ごくごく簡単に説明すると──、そもそもドイツというのは領邦国家と言って、大小様々な国に分かれていた。長いこと統一されることがなかったんですよ。

【D】ふむふむ。
【N】また、現在の我々が知っているドイツ以外でも、ドイツ系国家としてオーストリア──当時はオーストリア帝国──があったりする。
 ただ、オーストリア帝国はがっつり多民族国家。支配民族で、かつ人口が一番多いのがドイツ人(ドイツ語話者)というだけで、他の民族もいっぱい住んでいたんだけれどね。
【D】うんうん。

※オーストリア帝国からオーストリア=ハンガリー帝国へ……
 帝国が力を落とし、諸民族の独立運動が活発化した1867年、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねつつ(同君連合)、それぞれを別の政府が統治する「二重帝国」が成立。以後、この帝国をオーストリア=ハンガリー帝国と呼びます。

【N】ともかく、ドイツ民族によるドイツ民族のための統一国家というものがなかった。
 その代わり、オーストリアを盟主とする「ドイツ連邦」というフワっとしたまとまりはあった。
 で、時は1848年、ヨーロッパでナショナリズムと自由主義的な改革を求める機運というのが高まるんですが、これは我々も教科書で習った。「諸国民の春」なんて言われるんだけれど──。
【D】覚えてないっすね(笑)
【N】(笑)──まあ、ようはヨーロッパで一斉に革命が起きるんですよ。
 ドイツ連邦でもウィーンとベルリンで「3月革命」というのが起きます。市民が「もう専制支配はウゼーっ」ということになりまして。
 で、新しい憲法と国民国家の樹立を求めて立ち上がるわけですよ。
【D】うんうん、いいじゃないですか。
【N】いいっすよ。──で、そこで「フランクフルト国民議会」という議会が作られまして、話し合いが行われる。
 で、ここはいっちょ憲法を作って統一ドイツ国家を樹立しよう! となるんだが、このとき統一に関しては2つの潮流──プランがあった。
 1つはオーストリアを抜いた形で統一する「小ドイツ主義」
 もう1つは、オーストリアを含め、ドイツ語を話す地域をドカンと統一してまとまろうぜ、という「大ドイツ主義」
 ちなみに、この時代はまだ影も形もないアドルフさんは大ドイツ主義者になる。
【D】うんうん。
【N】この会議では色々あった挙句、オーストリア抜きの小ドイツでまとまろうという話になるんですよ。ただ、結局それは頓挫しちゃう。のみならず、この革命自体も失敗します。
【D】あらら。
【N】これは保守的な伝統的支配層の反動。つまり王様とか貴族が「ハッ? 自由主義? ふざけんな、無理無理」と拒否して失敗してしまった。
 で、結局は1871年にプロイセン王国──今のドイツ北部とポーランドの西側を治めていた王国なんだけれど──これが腕っ節によってドイツを統一するんです。
【D】腕っぷしによって……。
【N】武力で。──ちなみにオーストリアを抜いた形でドイツを統一します。だから結果的には「小ドイツ主義」になったの。

●ドイツ帝国

【D】うん、なるほど。
【N】いわゆる「鉄血宰相」として有名なオットー・フォン・ビスマルクが活躍した。
【D】はぁはぁ。あのトンガったヘルメットをかぶっている人ですね。

※トンガったヘルメット……「ピッケルハウベ(Pickelhaube)」

●オットー・フォン・ビスマルク
Otto v. Bismarck / 1871年7月3日
Bundesarchiv, Bild 183-R68588 / P. Loescher & Petsch / CC-BY-SA 3.0
Wikimedia Commonsより

【N】そうそう、あの横顔の。
【D】はいはい。
【N】これが「ドイツ帝国」──いわゆる第二帝国。
 じゃあドイツ統一できたじゃん、よかったんじゃないの? と思いたいところなんだが──。

[TIME]----00:41:41 『特有の道』
【N】──さっきフランクフルト国民議会で頓挫して3月革命もしくじった、という話がありましたな。
 ようは市民たちの自由主義的な革命による統一は失敗し、反革命、つまり王侯貴族といった保守反動のエラい人たちの戦争によってなされた統一だった。
【D】なるほど、なるほど。うん。
【N】しかもビスマルクなんてのはね、「自由主義より鉄と血だ!」って言った人なんで……。
 ともかく、歴史的に国がバラバラだったがゆえに近代化のスタートが遅れ、革命も挫折した。むしろ王侯貴族によって統一がなされてしまったせいで、「※ユンカー(Junker)」──ドイツの地主貴族ね──こういった保守的な伝統的エリートによる権威主義的な支配が続いてしまった。
 だから民衆による下からの革命というのは終ぞ成功することがなかった。

※ドイツ東部、エルベ川以東に領地を持ち、直接に農地経営を行なっていた伝統的地主貴族。プロイセン王国、ドイツ帝国の高級官僚や軍の将校団にはユンカー出身が多く、ドイツにおける特権階級として一大保守勢力を形成していました。本シリーズの登場人物では、パウル・フォン・ヒンデンブルクがその代表例でしょう。

【N】つまり、ドイツの市民はイギリスやフランスの市民に比べて政治的に弱く、力を持てなかった。が、ゆえに、健全な国民国家や議会制民主主義、自由主義が育たなかったんじゃないのか、という考え方が起こってくる。
【D】なるほどね。ちゃんと反抗期を迎えずに大人になってしまったような感じですね(笑)
【N】押さえつけられたまま大人になっちゃったんで、ちょっとオカシくなっちゃったという(笑)
【D】なるほどね。はいはい。

[TIME]----00:42:59 『特有の道』への批判
【N】で、これが「特有の道」論。すんごいざっくりした説明なんだけれど──。
【D】うん。はいはい。
【N】これね、議論を経て、今では「そんなこともないだろうよ」という批判とか、相対化がなされていますわ。
 そもそもドイツ帝国は先進国だったし、ヨーロッパでも超工業国でしたからね。制度もこの国なりに近代化していて、ものによっては他国に先んじてもいた。
 そもそも、「特有である」「違ってしまった」ということは、規範となる正常な発展があるってことよね?
【D】はい。うん。
【N】カッコつきの「正常」だけれど。
「じゃあなんだい、イギリスやフランスは正しく発展したってことかい?」ということになるわけ。「じゃ、その規範って何ですか?」という反論が出てくる。「なんならイギリスだって特殊じゃねえか」というね……(笑)

※面白いことにこうした批判をしたのはJ・イリーやD・ブラックボーンなどのイギリスの研究者でした。

【D】(笑)
【N】だから、ドイツが他と違うとか、あるいは際立って遅れた国であったという見方も偏っているし、あと単純化しすぎだ、と。そういう流れに落ち着いておるわけですわ。
 とはいえもちろん、まったく同じであるとも言えないんで、最近は「特有の道」とまでは言わないまでも、ある程度の連続性というものも見るべきではないのか、という、なんか軽いリバイバルがあるっぽいですね。
【D】はぁはぁ。
【N】たとえば、むしろ他の国よりも近代化するのが急すぎたんじゃないか──。という見方もあったりしますね。
 これはウルリヒ・ヘルベルトとか、あとエヴァンズも書いていたかな。

※「他の国々とのもっとも大きな違いは、この数十年間の経済的、社会的、文化的変化の並外れたスピードにあった。それこそが、今述べているプロセスにめざましいダイナミズムを与えた。」
「ドイツでは、伝統的な方向性と近代的な方向性の軋轢はより大きく、争いの火種はより多面的で、変化の経験はより強烈なものとなった」(ウルリヒ・ヘルベルト『第三帝国』第一章)

※リチャード・J・エヴァンズ『第三帝国の到来 上』(pp.59-61)

[TIME]----00:44:35 ナショナリズム
【N】──まあ、あとはナショナリズムに関して。さっき話したように、ドイツみたいにバラバラな国だと、「国民」というものを定義するとき、領域とか国家という枠よりは民族に寄りがちになるかな、と思うんですよ。
【D】うん。
【N】で、このドイツ帝国の均一性──どんぐらいまとまった国なのかということに関していえば、プロイセンによる統一後のドイツ帝国というのは、シュタート(Staat)、いわゆる邦国という複数の王国とか公国とか、あるいは自由都市から成る連邦国家だった。
【D】うんうん。
【N】また国外、主に中央ヨーロッパとか、東欧、ロシアなんかにもドイツ系の人々が住んでいて、のちのナチ時代にこれらは「民族ドイツ人(Volksdeutsche)」と呼ばれるようになる。
 さらに国内。ドイツ帝国内は「ミリュー(milieu)」──これ、フランス語かな──という、似たような境遇とか、価値観とか、生活風土を共有した人々の集団に分立していたんですよ。
 たとえばプロテスタントをバックボーンにしたプロイセン的な保守層。プロイセンの伝統を引き継ぐ保守的な人達ね。この人たちはプロテスタントが多かった。
 あるいは逆に、カトリックのミリュー。
 あるいは市民層やブルジョワ。
 あるいは労働者。
 当時、政治もこれらミリューとつながっていて──、基本的に政党があったんだけれど、各政党はこれらの利益代弁者として動いていた。ミリューとかコミュニティのために働く党だった。
 で、このミリューというのは、第1次世界大戦を経て、多少の平準化、あるいは逆に新たな分断を生じたりと、色々変質していくんだけれど、戦後も根強く残っていく。
 ただ、ナチ党というのはこのミリューや、特定の層によらず横断的な支持というのを獲得していったのが特徴なの。
【D】うーん。
【N】もちろん中産階級とか、コアはあるのよ。コアはあるんだけれど、概ねどの階層にも支持者がいたという党なのよ。これは「フォルクスパルタイ(Volkspartei)」いわゆる「国民政党」ってやつね。
 またさっき、彼らは民族内における階級の克服──「民族共同体」を理想に掲げていた、という話をしたじゃないですか。
【D】うん。
【N】そんな感じで、なんというか、この国は民族統合を志向した歴史と、一方で分立を保持し続ける風土、というのがあるので、ちょっとわかりにくい国なんですけれど……。
【D】うーん。ミリューというのは、比較的階級に分かれているような……?
【N】階級も含めて。それが政党と繋がっていたと。
【D】はいはい。
【N】だから逆に言うと、ナチ以前は全ての支持を得る党なんていうのはなかったんだよ。
【D】なるほど。うん。
【N】まあ、バラバラがゆえに、それをまとめる重要な要素が「ナショナリズム」だったということになるでしょうな。
【D】うんうん。はいはい。
【N】で、さっき言った、「近代化がむしろ早すぎたんじゃないか」という論に立てば、やっぱりそのめまぐるしさの中で自己を保つため、国民的・民族的な帰属意識の強化を求めるということになる。
 バラバラである、あるいは近代化がめまぐるしい、となったとき、自分を支えてくれるものは何だろう。それは「ナショナリズム」である。──というのは現代人の感覚でもわかると思うんすよ。

※たとえ政治的空間でなくとも、変革や価値観のアップデートが求められたときの「保守」「反動」的反応が、当座の問題を飛躍してナショナリズムに結びつく、というのは古今、洋の東西を問わずに起きていることですね。

【D】うん。
【N】で、こういう帰属意識やナショナリズムの強化というのは、やっぱり対外的な事態、つまり戦争で促進されるじゃないですか。
【D】はいはい。
【N】それが第1次世界大戦だった。
【D】なるほど。
【N】のちに「民族共同体」を掲げたヒトラーとか、あるいはその他の多くのナショナリストが、もっともドイツ統合の実感を得たのは、──あるいはもとい「幻想」を感じられたのが──この第1次世界大戦だった。
 ある意味、彼らは戦後にその空気を「再演」しようとした。
【D】うんうん。
【N】ただ、大戦によってナショナリズムが高まったというのは、当然ドイツだけじゃないです。他の国もそうだった。しかし、ドイツは敗北したんですよ。
 その敗北の仕方、──というより、ドイツの一定の人々のその「敗北の受容の仕方」。ここに問題があったと考えられている。
 ──と、ちょっと話が前後してしまうので、そのことはあとで触れるとして、いったん置いておきますわ。
【D】うん。
【N】──あと、まず言っておきたいのは、「ではドイツ民族というものが自明的に存在しているか」というと、そこはとても難しい。もちろん他国の民族にも言えることだけれど。そもそも民族の定義って難しいですから。
【D】うん、そうですね。
【N】ただ、今この文脈で必要なのは、当時の人々が自民族をどう認識したか、どう定義したかってことなので。

[TIME]----00:49:43 人種主義・社会ダーウィニズム・反ユダヤ主義
【N】で、その定義が難しいということで、ナショナリズムというのは往々にして、「外」を決めて「内」を見出し、異分子を排除することで自己を規定する、というメカニズムがある。つまり排外主義。かつ領域的ではない民族主義というのは人種主義に陥る危険がある。この時代、19世紀後半というのはまさに「人種」という考え方が広まってくる頃。
 あと、それと同時に「社会ダーウィニズム」という言葉がありまして、──これは進化論を人間社会とか文明に曲解的に当てはめ、ようは劣等な種族とか集団は淘汰されてしかるべき、それが理である、とするような考え方。──こういう考え方が流行ってくる。
 となると、ヨーロッパに伝統的に存在した「反ユダヤ主義」がそこにフィットしてしまうわけですよ。
【D】うんうん
【N】そもそも大事な点として、反ユダヤ主義というのはもともと宗教的なものだった。乱暴に言ってしまえば、ユダヤ教徒だから差別されていた。
 しかし、18世紀末の啓蒙思想以降、ヨーロッパが国民国家を形成する──、つまり近代化に向かう中で、キリスト教徒であるかどうか、あるいは宗派などによる括りじゃなくて、「国民」という枠の中での権利の平等というものが求められるようになってくる。そうなると信教の自由という考え方が出てくる。必然的にユダヤ教徒の解放という方向にも向かうわけ。ユダヤ教徒を差別しないよ、という。で、ドイツの、さっき触れた1848年の3月革命において──これも結局頓挫してしまうんだけれど──「ユダヤ教徒解放」というのが主張される。
 しかしだからといって、反ユダヤ主義がなくなっていくわけではない。
【D】ああ、違うの……。
【N】根強くあるわけ。そういう機運が高まっていっても同時に存在している。存在しているからこういう機運が高まる。

※解放を主張し、革命を主導した自由主義者や急進派にユダヤ人が多かったことが、保守派のユダヤ人に対する警戒心を強めることにもなったようです。(芝健介『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』序章 反ユダヤ主義の背景――宗教から「人種へ」)

【N】しかし革命自体に対する反動もあり、そうした宗教的な差別や排斥をやめようじゃないか、という解放の流れを押しとどめるように──あるいは論理をすり替えるように、ユダヤに対する差別というのが宗教性から民族性、そして人種によるものへと変化してくる。
 宗教や文化が自由であるなら、それ以外──つまり血や体で差別しようってこと。
【D】どうしても嫌なんすね。
【N】これがいわゆる「人種的反ユダヤ主義(反セム主義)」。ようは宗教的反ユダヤ主義が人種的反ユダヤ主義に魔改造される、と──。これ、つまり何を意味するかというと、宗教的に改宗しようが、文化的に同化しようが、同じ言葉を喋ろうが、差別をやめないという発想。
【D】そうですね。嫌な感じですね。
【N】そう。人種はやめられないからさ。……この「人種」が科学的な言葉かどうかというのは置いておくよ。当時の人たちがそう思っていたということ。
【D】うん。
【N】で、そこにさっき言った人種や民族の淘汰を肯定する理論が持ち込まれることになる。──というのは恐ろしいやな。
【D】うんうん、そうっすね。
【N】そういった文化とか、宗教、人種、のみならず経済的にも、ユダヤ人というのは嫌われることが多かった。ほら、古典的なイメージでは高利貸しのイメージがあったりとか。

※キリスト教徒が高利貸しを戒められた代わりにユダヤ教徒がそれに従事し、かつまた彼らがギルドの締め出しなどで職業の選択肢が制限されていく中で、このイメージが再生産されていきました。

【D】そうですね。
【N】で、これもさっきちょっと触れたけれど、近代以降も資本主義、あるいはインターナショナルなイメージが持たれていたんで、経済的にも、民族のホームを内からも外からも破壊するものとして見られていた。
 これホント、奇妙な話なんだけれどね。資本主義的な支配階層とみなされながら、社会主義の先導者ともみなされたというね。
 だから、──なんだろうね──、コミュニティ毎の悪役を何でも押し付けられたということなのか……。こうしてみるとユダヤ人というのは、逆説的に言うと「純粋性を逆算するための存在」であったのかもしれない。
【D】どういうこと?
【N】ようは、さっき言った、「排斥することによって自分たちを規定する」という──「こいつらは俺たちと違う」っというところから「俺たち(同胞)」を決めるという。
【D】ちょっと可哀想すぎるな。
【N】可哀想すぎるけれど、そういうところってあると思いません? 現代の集団社会でも。
【D】そうですけれどね。
【N】それとちょっと近いところでは──、ベンジャミン・カーター・ヘットは「反ユダヤ主義は文化的な記号だ」と言っている。
 これは何かというと、反ユダヤ主義というのは「看板」──それぞれのコミュニティとか思想集団を区別するときに、それがしやすくなるラベルみたいなものであると。
 たとえば反ユダヤ主義の人というのは反資本主義であったり、あるいは反フェミニズムであったり、そういう人たちが多い。で、反ユダヤ主義をダメだ、という人たちはその逆である。──ってことで、分類上のラベルになりやすかった。(『ドイツ人はなぜヒトラーを選んだのか――民主主義が死ぬ日』)
 だから、反ユダヤ主義を名乗るということは、ある種自分たちが何者であるかを表明する手段になっていた──、というところがある。そういうことをカーター・ヘットは指摘していますわね。
【D】うーん、なるほどね。
【N】ということで、ナチズムが芽吹く土壌であるナショナリズムであるとか、反ユダヤ主義とか、社会の分断みたいなものは、帝政ドイツの時代には一応存在した──。歴史的な連続性として。
 ただ注意しなきゃいけないのは、さっきの「特有の道」論への批判同様、こういう人種主義とか民族主義というのはドイツだけで起こったものではない。
 むしろ人種的反ユダヤ主義はフランスなんかも強かったし、歴史的にユダヤ人への直接的な加害、暴力的な迫害──いわゆる「ポグロム(погром)」が激しかったのは東方のロシアとか中央ヨーロッパだったりするから。
 ドイツではもちろん反ユダヤ主義はあったけれども、第1次世界大戦の頃まではそこまで過激化していなかったと言われておりますわな。

※「もし一九一三年の時点で、二〇年後、どのヨーロッパの国で急進的で残忍な反ユダヤ主義政党が権力の座に就くかを予測しなければいけなかったとすれば、人びとはきっとロシア、もしくはユダヤ人将校ドレフュスを巡る国家を揺るがす出来事によって分断されていたフランスを挙げたであろう。」(ウルリヒ・ヘルベルト『第三帝国 ある独裁の歴史』第一章 反ユダヤ主義の成立)

【N】あとね、これもあんまりイメージされていないんだけれど、ドイツ国内のユダヤ人はすごく数が少ない。人口比でいうと1パーセント未満。

※1933年頃は総人口6500万の内、ユダヤ人が50~60万人。(ラウル・ヒルバーグ『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上』p.66)(芝健介『ホロコースト』まえがき)

【D】へー。
【N】すごい少数派なんですよ。そもそも。
【D】そうっすね。
【N】しかも、ドイツにいたユダヤ人の多くは、ユダヤ文化を固守するんじゃなくて、かなりドイツ社会に順応していた人たちが多かった。けれど、人種となれば関係ない──、という悪辣な理論が使われちゃう。
【D】そうですね。うーん。なるほどね。
【N】また、第1次世界大戦後にはドイツのユダヤ人とはまた文化を異にする東方ユダヤ人──イディッシュ語を話す──が流入してくるんだね。それによってもドイツ国内の反ユダヤ感情というのは高まってしまう。
 で、やり切れないというか複雑なのは、ドイツのユダヤ人はその東方ユダヤ人に対して差別感情があった。
【D】ほうほう。
【N】……という、結構複雑な状況になっていた。──と、ナチ以前からの反ユダヤ主義という話になったんだけれども、その究極的な帰結である、のちの「ホロコースト」との連続性に関しては、さらに難しい議論になると思うので──。今回はあまり触れられない。
【D】うん。
【N】──まあ、第1次世界大戦という話になったんで、そっちの方からドイツの歴史に戻っていこうかなと思います。
【D】はい。

■【追加】ナチズムにおける「アーリア人」について

※ダニエルさんの問いに対する「アーリア人」と、本章であまり触れてこなかった「人種主義」について少し補足しておきたいと思います。
 以下、収録音声には含まれていません。

「アーリヤ(アーリア)」とは、紀元前2千年紀に中央アジアからイラン、インド亜大陸へと広がっていった、インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)の中のインド=イラン語派を話す人々の自称です。「イラン」という国名もこの「アーリヤ」から来ています。
 かくのごとく、現在ではインド=イラン語派を特に「アーリヤ」と呼んでいるのですが、19世紀には、上位の印欧語族そのものの祖語を話していた集団に「アーリア人」を想定する仮説がありました。(現在でも印欧語族=アーリア語という説明をしばしば目にします)

 そもそも印欧語族の「発見」は、18世紀末、イギリスの東洋学者ウィリアム・ジョーンズ(1746~1794)が、古代インドのサンスクリット語と、ヨーロッパのギリシャ語・ラテン語との間に類似点を見出し、これらが共通の祖語を持っている可能性を指摘したことが端緒でした。そしてこの印欧語族の発見は比較言語学の嚆矢でもあり、「アーリア」なる集団を巡る仮説は、当初言語という「文化」についての比較研究から発したものでした。
 こうしてインド=ヨーロッパ語のルーツが検討される中で、ドイツ出身のマックス・ミュラー(1823~1900)は、古代インドに移ろってきたサンスクリット話者たちが、かつて印欧祖語を話していた集団ではないかと想定しました。ミュラーはそれら自身の自称から、かの集団を「アーリア」と呼び、この「アーリア」集団の西への拡大がヨーロッパに印欧語をもたらしたのだと主張しました。
 しかし、ミュラーの仮説はやがて言語ではなく、ヨーロッパ人そのものの民族的・人種的なルーツを探求する仮説へと変化します。すなわち、
「インド/イラン/ヨーロッパ人の共通の祖先である『アーリア人』」
 という考えが生まれるのです。
 そして同じ頃に広まっていた、形質によって人類の系統を分類し得るという「人種」なる考え方とも結びつき、「ヨーロッパ人=アーリア人種」という定義が定着。やがてそれは、「文明の祖」にして世界史の主役である優れた白色人種──というイデオロギーを下支えする「理論」となり、人種主義を拡大させていくことになります。
 こうした仮説は「アーリア人種論」「アーリア神話」などと呼ばれ、現在では学術的な検証に耐える理論とはみなされていません。

 この「アーリア神話」と人種主義の確立に大きな役割を果たしたのが、フランスの作家にして貴族主義者であったジョゼフ・アルテュール・ド・ゴビノー(1816~1882)でした。彼は『人種間の不平等についての試論』(1853~1855年)において、人種(黒人・白人・黄色人種)には本来的に差異があり、白色人種(アーリア人種)は文明を創造する卓越した人種である、と主張しました。しかし同時に、文明は発展すれば人種間の混血によって衰退する、とも説いたのです。人種ヒエラルキーは彼の主張以前から存在した観念でしたが、ゴビノーの論は人種混淆による文明衰退に重きを置いたものであり、優秀な白色人種もまたそうした衰退からは逃れ得ないという悲観論によっていました。(原田一美「「ナチズムと人種主義」考(1) : 20世紀初頭までの系譜」)
 ゴビノーの主張は、同時代においてさほど注目はされなかったようですが、のちの世代に影響を残しました。彼の論を継承・発展させた論者の一人に、イギリスのヒューストン・ステュアート・チェンバレン(1855~1927)がいます。チェンバレンはかのリヒャルト・ヴァーグナーの娘婿で、1899年に『19世紀の基礎』を著し、アーリア人種たるヨーロッパ人の中でも、チュートン人(ドイツ人)などのゲルマン(彼の定義ではケルトやスラブも含まれます)こそが文明を発展させてきた担い手であり、それらに対抗する存在が「ユダヤ人種」であると主張しました(原田一美「ナチズムと人種主義」考(1) 」)。かくて世界史的な人種である「白色人種=アーリア人」の下位区分にも、さらなるヒエラルキーを志向するようになります。
 こうした思想の影響を受けたのがナチで、彼らは文明を創造・発展させてきたアーリア人種の中でとりわけ純粋性を保っているのが北方人種、ゲルマン民族であると考えました。ゆえにその純粋性を混血による衰退から防衛しなければならないと主張したのです。そして非アーリア=セム系とみなれたユダヤ人はその最も対極的な存在とされ、彼らとの「人種闘争」がナチ的世界観となっていきます。

 ここでは「アーリア神話」を通して、ナチズムにおける人種主義の系譜をごく簡単に紹介しましたが、これ以外にも先述した「社会ダーウィニズム」や優生思想、人種衛生学などの影響がありました。人種主義はナチ登場以前から連綿と続いてきた志向であり、多かれ少なかれ欧米のどの国にも存在した観念でした。また、ナチも体系的にそれらを摂取してきたわけではなく、都合のよいものを取捨選択し、継ぎはぎ的にイデオロギーを形成していったと考えられます。
 それがここドイツにおいて極度に先鋭化したのはなぜか、という議論については、本章の【前史】パートで紹介するところであります。

 さて、今日的にいえば、これらは科学的妥当性を有しないイデオロギーであり、ある意味では「人種という宗教」でした。ナチの人種論にも、定義の混乱や一貫性のなさが見られ、実際のちに「ニュルンベルク諸法」(1935年)といった人種法を制定する際には、生物的・形質的差異では「ユダヤ人」を規定しきれず、結局「ユダヤ教徒か否か」という、反セム主義以前の後天的・文化的定義を持ち出すことになります。
 そもそも後天的な文化によって結合した集団「民族(Ethnicity)」と、先天的・生物的諸特徴によって分類された「人種(Race)」とは違うものです(相互に影響し合う要素は孕みつつも)。しかしナチズムに至るまでの人種主義形成の過程には、しばしば「人種」と「民族」の観念の同一視が見られます。
 これは宗教的反ユダヤ主義から人種的反ユダヤ主義(反セム主義)への変異の過程にも見られる現象です。たとえばH・G・ノルトマンの、
「我々は、ユダヤ教を宗教や教会としてだけではなく、人種的特性の表現として把握しなければならない」(植村邦彦「「解放」表象の反転 : 人種主義的反ユダヤ主義の成立」)
 ──という言葉に見られる如く、後天的と思える文化的特徴・表現はその「人種的特性」ゆえに発現する、という発想があります(詭弁的なレトリックとも言えますが)。そのことに鑑みれば、反ユダヤ主義の如き「他者への差別」のみならず、「自己(の帰属集団)の優越」においても「人種⇔民族」「文化的差異⇔生物的差異」の同一視・融合は起こり得るものと言えます。端的にいえば、「優れた血」が「優れた文化」を生み、「劣った血」が「劣った文化」を生むのだという考え方です。
 あるいはロマン主義的、情緒的な民族至上主義が、「科学的な装い(あくまで装い)」を得るために「人種主義」と結びつく、という面もあったように思われます。これも端的にいえば、「感情的な差別ではなく、理論に基づく区別だ」という考え方です。
 そもそもにして「アーリア人」という議論が、言語的な研究から人種的探求へと変化した問題でした。文化的・心情的なアイデンティティの追求と優越意識は、絶えざる生物的差異への「理論化」という誘惑を抱えている、と思える所以です。

 最後に、言葉に関して、昨今では「民族」との違いはもとより、「人種」という概念そのものが否定される流れにあります。が、ここでは科学的妥当性によらず、あくまで当時の人々の価値観によった「民族」「人種」という語を用いています。


 第2夜に続く──

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