第三帝国の誕生 第3夜~バイエルン・ヴェルサイユ条約・或るゲフライター~
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『第三帝国の誕生 第3夜~バイエルン・ヴェルサイユ条約・或るゲフライター~』
■バイエルン・レーテ共和国----00:00:07
[TIME]----00:00:07 バイエルン・レーテ共和国
【N】──と、まあ、そんな感じでね。ドイツ労働者党なんかが噴き上がっていたバイエルンのミュンヒェンもまた、これから混迷を深めていくんですな。
【D】うん。
【N】さっき、ドイツ革命の中でバイエルン王国が倒れて、クルト・アイスナーが共和国の暫定首相になった、という話をしたけれども、このバイエルンでもここからまたさらに争いが起きる。
【D】はァ。
【N】暫定首相のアイスナーは舵取りをミスって、1月21日にバイエルンの共和国選挙というのが行われるんだけれど、ここでバイエルン人民党と社会民主党に惨敗するんですね。
そのうえ1カ月後の2月、彼は右翼に暗殺されてしまいます。※右翼の青年貴族だね。
※名前が長過ぎてスルーしましたが、暗殺犯はアントン・グラーフ・フォン・アルコ・アオフ・ファーライという人物です。ちなみに事件後アルコはランツベルク刑務所に収監されますが、ここにはのちに本シリーズの主役が入ってくることになります。
【D】はいはい……。
【N】で、ここからね、バイエルン、そしてその首都ミュンヒェンはグッチャグチャになります。
【D】もう、グッチャグチャだけれどね(笑)
【N】グッチャグチャだけれど、ここからまたさらにグチャグチャになって、ちょっと覚えられないので、流していただきたいんだけれど──(笑)
【D】わかりました(笑)
【N】このあとバイエルンは、社会民主党のヨハネス・ホフマンという人が首相になるんだけれども、4月7日、独立社会民主党(USPD)のエルンスト・ニーキシュによって、バイエルン・レーテ共和国の樹立が宣言され、同じくUSPDのエルンスト・トラー、無政府主義者のグスタフ・ランダウアーらによってこれが主導されるという流れになります。
するとヨハネス・ホフマンの政府はバンベルクという街に逃げ、一種の亡命政権になるんですよ。
【D】亡命政権……はい。
【N】こうなるとバイエルンは政府が2つになり、内戦に近い状態になっちゃいます。
すると4月13日、今度は共産党マックス・レヴィーン、オイゲン・レヴィーネといった人々が、第2のレーテ共和国樹立を宣言するという……何が何やら。
【D】おーおー、またボコボコ来るなァ(笑)
【N】そう。バイエルン・レーテ共和国は2つあるってことですね。
まあ、こっちは第2レーテ共和国と言われたりもするんだけれど──。
そこで5月に入ると、中央政府のエーベルト、国防大臣ノスケたちが例によってフライコーアと正規軍を投入し、このバイエルンのレーテ共和国を粉砕します。
【D】バイエルンのレーテ共和国……第2じゃなくて?
【N】第2ですね。
【D】第2か……はいはい。第2を──。
【N】──粉砕。このとき死者600人以上。最初のレーテ共和国を作ったランダウアーは殺害されます。第2のレーテ共和国を作ったオイゲン・レヴィーネも裁判にかけられ、6月に処刑されます。
しかもレーテや革命とは関係ない人たちも結構殺害された、かなり徹底的な弾圧であった。
【D】うーん……。
【N】今の一連の流れはマジで訳がわからんと思うので──。とにかく左翼政権が立て続けにできたということです。で、それをベルリンの中央政府が武力で叩き潰した。
まあ、こうやって左派の共和国がいくつも出てくると、バイエルンは左翼が多い土地柄なのかなって思ってしまうんだけれど、全然そんなことはなくて、むしろ伝統的に保守が多い土地なの。
【D】あ、そうなんすか。
【N】実際この時期、ドイツ労働者党みたいな右派・民族主義団体が大量発生していたから、バイエルンだけでも10数個できていたって言うんだよね。
【D】あぁ、そう……。
【N】ただね、終戦時はこのバイエルン人の反プロイセン、反ベルリン感情が上回って、一時的に左派が力を持ち得た。バイエルンってプロイセン、ベルリンが嫌いなんですよ。今でもそんなイメージで語られるよね? 実際どうかは知らんけれど……。
まあ、そういうこともあったので、一時的に左派が支持されていたんだけれど、本質的には右派の土地なので──。だからこうやって急進左派が粉砕されると、バイエルンは自然と保守、右派王国になる。
【D】うんうん、なるほどね。
【N】右派王国ってね、すごいですけれど(笑)
【D】(笑)
【N】右翼の楽園になるんですよ。
【D】ウハウハなんですね。
【N】そうそう。だから大事なの。やっぱりでバイエルンが大事なんだよ、特にミュンヒェンが。
【D】あ、そうなの。
【N】そうそう。
[TIME]----00:04:45 バイエルン軍とカール・マイヤー
【N】ちなみにこれ以降のバイエルン、ミュンヒェンなんだけれど、バイエルン政府がさっき言ったように逃げちゃったんで──8月末までバンベルクに避難していた──、それまで、5月11日に創設されたバイエルン軍第4集団という軍隊が、暫定的に軍政を敷いていたの。
で、この軍の中では、これまでのバイエルン、ミュンヒェンの一連の騒乱に鑑み、反ボリシェヴィキの強化、つまり「左翼よくない!」という思想教育をしっかりやらないとイカンな、という方針が打ち出されるんですよ。
というのも、バイエルン軍の中にもレーテに参加したり、一連の左派政権を支持した兵士たちがいたから。
【D】あー、そうなんだ。へえ。
【N】そうそう。ということで、部隊内の革命分子とか、左翼に同調する兵士がいないかを調査すると同時に、それら兵士たちに愛国精神とか反共精神──反共産主義精神を植え付けるためのスタッフを養成することになる。で、そのために、軍の中に演説教育コースが設置されたりする。
【D】はいはい、なるほどね。
【N】つまりこれ、思想教育とプロパガンダのための人員を養成するというプロジェクトが始まるんですよ。
【D】うーん、分かっているじゃねえか、という感じですね(笑)
【N】まあ、反省したわけですよ(笑)。油断するとすぐアカが来ちまうぜ、ということで。
で、このプロジェクトの担当者が、第4集団の中で諜報と宣伝の任務に従事していたカール・マイヤーという大尉だった。
彼はこの時期、その任務の一環で、思想教育チームのスタッフを育成するため、兵士たちから使えそうな者をスカウトしていました。
このこと自体はバイエルン軍の一部局の話──、ドイツの混乱の中では大きな出来事じゃない。しかし、後知恵にはなるんだけれども、このマイヤーの選択は国の運命を大きく変えることになる。
なんて言うか、種がまかれるんですね。ここで。
【D】──はいはい。
■ヴェルサイユ条約----00:06:59
[TIME]----00:06:59 左翼vs政府vs右翼
【N】そしてまた全体の話に戻ると──。さっきは中央政府とバイエルン政府の騒乱の話をして、なかなかワケがわからんかったと思うんだけれども、これ、つまり何が起きているかというと、左翼と政府と右翼の三つ巴の対立が始まっているってことです。
【D】左翼……。政府はどこに?
【N】左翼と、政府と、右翼。左翼は、さっき鎮圧されてしまったスパルタクス団であるとか、あるいはできたての共産党ね。
政府は社会民主党が中心だったんで、もともとは左派だったんだけれど、もうこうなってくると左翼を普通に弾圧している。
【D】そうだよね……。
【N】だからこの時の急進左派からしたら、もう政府は完全に反動政権。裏切り者であると。
しかも実際、中央政府のエーベルトは、治安維持のために右翼の武装集団フライコーアを使って弾圧している。これは極左からすれば完全に反動ですよ。
しかし、一方の「右」からしたら「は? 社会民主党だろうが共産党だろうがどっちもアカだろ」「どっちも売国奴だよ」ということになってしまって、本当に三つ巴という。
【D】なるほど……。
【N】つまり、この共和国は議会主義者が中心になって樹立された新国家なんだけれども、最初から両サイドに敵がいる──、そして国中が分断しているという、割と最悪なスタートを切ったということ。
【D】うーん……。
[TIME]----00:08:39 ヴェルサイユ条約
【N】そして1919年6月、国内がそんな感じの中、外ではまた1つ地獄の釜が開く。
【D】はいはい……(笑)
【N】1919年6月28日、さっきチラっと出てきたパリ講和会議。これのナシがついたんですね。
【D】「ヴェルサイユ条約」として──。
【N】そうです。ヴェルサイユ条約が調印されます。
ここに第1次世界大戦の処分が決定したわけで──、これは講和条約ではあるんだけれど、実質はドイツに対する制裁。その厳しさにドイツ人は大いに動揺し、これを勝者による一方的な命令と感じたんですな。
【D】なるほど、なるほど。
【N】ただ、実際に厳しかったかどうかというのは、実は歴史的な検討がなされていて、かなり相対化されている。
が、少なくとも当のドイツ国民たちは過酷で屈辱的な内容であると感じた。
まず何が問題かというと、この条約には第231条──いわゆる「戦争責任条項」というものがあって、これによって「この大戦、全部お前らのせいな。だから色々償え」というふうに言われてしまう。
【D】ほうほう。随分ありますね……230……。
【N】231条。条文メチャメチャいっぱいあるんで、全部は紹介できないですけれど──。
※全部で15編440条あります……。
[TIME]----00:10:04 領土の返還と割譲
【N】じゃあ、どういう償いがあるのかというと──。
【D】そこが気になるところです。
【N】非常に細かく項目があるんだけれど──ざっくり主要なところを挙げてみます……。
まず植民地と海外領土はすべて放棄。
そして帝国本体の領土も一部切り取られる。
たとえば、帝国の母体であるプロイセンが、昔の戦争でフランスから分捕ったアルザス=ロレーヌという地域があるんだけれど、これはフランスに返還。
あとは、──これが特に深い禍根を残したんだけれど──西プロイセンの割譲。ちょっと地図を見ないとわからないんだけれど──、実はドイツ帝国の「プロイセン」と呼ばれている地域というのは、現在のポーランドのバルト海側をフタするみたく、東に延びていた。
【D】うんうん、地図を見てみるよ。
【N】国境線が今と違うからねえ。
【D】そうだよねえ……。
【N】そこでね、ポーランドにバルト海への出入り口を与えるために、「フタに穴を開ける」というか、切断するように西プロイセンが割譲されるのね。すると切断された東側、東プロイセンが飛び地になってしまう。で、このえぐり取られた西プロイセンを「ポーランド回廊」という。
そしてその西プロイセンにあった都市ダンツィヒ。ここは国際連盟の管理下に置かれ、どの国にも属さない「自由市」にされる。「自由市」とか「自由都市」って言ったりするんだけれど。
※ダンツィヒの港湾管理、対外事務、関税などの権限はポーランドが有していました。
【N】端的に言ってしまうと、この地域が第2次世界大戦勃発の直接の原因になるんですよ。
【D】ほうほう。
【N】で、ポーランドとの国境でいえば、もう1つ大きな問題のある場所があって、それがオーバーシュレージエン。このオーバーシュレージエンの帰属を住民投票で決めることになった。
【D】オーバーシュレージエン……という場所?
【N】場所。地名としてはシュレージエンという場所があって、今のポーランドとチェコの間くらい。で、オーバーシュレージエンはそのシュレージエンの東側の地域ですね。
【D】はいはい。
【N】ここはドイツ系とポーランド系の人たちが住んでいるところで、この条約によって、そこの帰属を1921年に住民投票で決めることになった。
ようは、住んでいる人たちがドイツ、ポーランドのどっちに帰属するかを選ぶ。
【D】はいはい。
【N】なんでそんな話になるかというと、この地域というのは極めて複雑な歴史があって、ポーランドへの併合を求めるポーランド系住民と、ドイツ系住民が争っていた。実際、この年の8月にも※ポーランド人による蜂起が起こっていて、国境警備にあたっていたドイツ軍とフライコーアが血みどろの弾圧を行っている。
ここも国境問題として、ポーランド回廊と共に火種になり続ける。
※シレジア蜂起……第1次蜂起(1919年8月)、第2次蜂起、(1920年8月)、第3次蜂起(1921年5月~7月)
【N】──で、今度はちょっと方角が変わりまして、ザール地方。これはフランスとの国境地帯。ここも国際連盟の管理下に入る。
そしてラインラント。これはライン川沿いの地域のことなんだけれども、ライン川西岸のドイツ領と、東岸の50kmが非武装地帯になる。ドイツはいかなる軍事力もそこに置いてはいけないってこと。
【D】ほうほう。
【N】そのうえ、西岸と東岸の一部が、連合国軍に15年間、保障占領されることになる。「保障占領」というのは、戦時以外でも、条約の履行のために外国がそこの場所を占領するということ。
【D】うん。
【N】このラインラントには、いわゆるルール地方と呼ばれる工業地帯があって、ドイツにとって極めて重要ないわば生命線だった。ここの西半分を連合国、主にフランスに占領され、しかもドイツはいかなる軍事力も置いてはならないとされた。
──ということで、これ相当、持っていかれているわけですよ。
【D】そうですなあ、なるほど、なるほど。
【N】あとはオーストリアとの合併禁止。けっこう前に大ドイツ主義という話をしたじゃないですか。「ドイツ民族みんなでまとまって国作ろうぜ」という。
【D】はいはい、うん。
【N】その大ドイツ主義による合併はダメよってこと。
大戦が終わって、オーストリアもハプスブルク家の帝国が滅亡してしまった。なのでオーストリアのドイツ系住人もドイツに編入しようじゃないか、という機運が強まった。オーストリアのドイツ系住民は、帝国が解体してしまったんで、※自分たちは自活ができないと思っていた。それなら国家としてのドイツに参加したい、という思いが強くなっていくわけね。
※オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後、重要な工業地域であったチェコなどの独立により、著しく経済力を削がれたため。
【N】ただ、それで合併してしまうと、ドイツの領土と国力を増強させることになる。600万人ぐらい人口増えますから。なので連合国はこれを阻止するために合併を禁止したわけ。
【D】ほうほう。
【N】こうしてドイツはね、領土の約13パーセント、人口の約10パーセント、700万人を失う。かなり国力を削られた。
【D】八方塞がりですな。逃げ場がないというか、これ以上大きくなれない感じになってしまいましたね。
[TIME]----00:15:49 軍備制限
【N】大きくなれないときたら、あとは軍事力の話にもなる。こうした領土以外でも、ドイツが保有する軍備に関しても制限をかけられることになった。
陸軍は将校を含め10万、海軍は1万5千、下士官は1500人の兵力に制限され、空軍は禁止。徴兵制も廃止。そして戦車、装甲車、潜水艦、化学兵器──いわゆる毒ガスとか──そういったものの保有も禁止。その他、細かく色々制限され、戦争してもまず勝てない軍隊にされた。
【D】そうっすね。もうスッカスカの軍隊しか持てないですな。
[TIME]----00:16:38 当面の賠償金と金マルク
【N】そうそう。──そしてさらに賠償金の支払いが課せられる。
その金額なんだけれども、これが算定するのにまだ少し時間がかかるので、この時点ではひとまず200億金マルクが命じられる。
【D】とりあえず(笑)
【N】とりあえず。──で、この「金マルク」。これ、不思議な単位なんだけれど、金マルクというのは大戦前の金本位制だった頃のマルク。のちのハイパーインフレで暴落した、いわゆる「パピエル・マルク」と区別するために、歴史的にそう呼んでいるもので、当時の呼び方はいずれもマルク。
【D】紙マルクと金マルクみたいな?
【N】そうそう、まさに。──で、この金本位制というのはご存知の人も多いと思うんだけれども、貨幣価値を一定の量の金──ゴールドによって裏付けるという制度。なので貨幣はその価値の基準となっている重さの金と交換ができる。こういう交換を兌換というんだけれど、1金マルクは金0.358グラム分の価値と定められていた。だから。それ×200億ね。
【D】はァ(笑)
【N】なので。金の重さでも換算ができる。──でも、最終的な額が決定するのは1921年5月5日とけっこう先なの。なので、この時点ではまず200億。
【D】なんで決定するのがそんな先なの?
【N】いくらにするか、連合国がずっと話し合いをしていたから。
【D】話し合いをずっとしているんだ(笑)
【N】ようは、それぞれの国が第1次大戦ですんごい経済的な損失を負った。なのでみんな回収したいわけさ。
というのと、英仏なんかは戦費をアメリカから借りていたんだよ。アメリカに返済しなきゃいけないんで、ドイツから取らないといけない──。で、それぞれが欲しい金額があるので、会議して算定しようと。すごい莫大な額なので時間もかかるし、あるいはそれぞれの思惑とかもあったりするので、スパっと決められないんですよ。
【D】ふーん。
【N】で、けっこう先なんだけれど、ヤバい額になるわけ。
言ってしまうと1320億金マルク。
【D】はぁはぁ。
【N】ただこれの詳細は確定した時にお話ししようかな。
【D】はい、わかりました。
【N】ただ、このヴェルサイユ条約調印の時点で金額が決まったと思っている人が、けっこう多いかなと思う。実際は時間差がある。
【D】うん。
[TIME]----00:19:23 条約への憎悪と影響
【N】──しかし賠償額こそ決定はしていないけれど、国民はここまでの内容になるとは思っていなかった。
調印される前、のちに首相になるコンスタンティン・フェーレンバッハという政治家が、「この条約は戦争の永続化である」とまで言っている。「こんなもん結ばされるのかよ……」と。
こうなると、右派とか民族主義者たちだけではなく、左派にとっても「ヴェルサイユ条約なんてクソだ」というテーマになってくる。
【D】なるほど。
【N】だから極右と極左、そして多くの国民にとって、この点だけは一致することになる。
【D】うーん! はいはい、これはなかなかマズいっすね。
【N】そう。これね、当時のドイツ国民の反応もそうなんだけれど、パリ講和会議にも参加したジョン・メイナード・ケインズという非常に有名な経済学者がいるんだけれど──、この人が条約をすごく批判した。
そしてのちにはナチ党がプロパガンダで「このヴェルサイユ条約のせいで俺たちはおかしくなった」というふうに広めていくの。
だから、このヴェルサイユ条約というものが、その後のドイツの方向性を──ネガティブな意味での方向性を決定づけたとみなされてしまった。
簡単に言ってしまうと、この過酷な条約でドイツはボコボコにされたので、ナチ党が台頭する素地ができてしまった──、という見方になっていったのね。
これ、現在でも一般的な見方としてそう理解する人が多い。
【D】そうですね。そんなイメージがあります。そんなテレビ番組を過去に観た記憶があります。
【N】うん。ヴェルサイユ条約は無茶な内容だった──、だからナチが出てきてしまった、というね。
【D】そうそう。
【N】ただね、これは一方で研究が進むにつれ、「実態としてはドイツ国民が思っていたほど過酷な内容じゃなくねえか?」という見方も出てくる。
【D】あら。
【N】実は戦勝国側──連合国もそれぞれの国内世論を納得させるため、一見厳しい条項を押し付けているんだけれども、譲歩の余地が大いにあった。
とりわけ賠償金に関してもそういう側面が指摘されていてね。事実、──これから折に触れて喋ることになると思うんだけれど──賠償金に関してはドイツと連合国との間で長期に渡って話し合いがされ続け、結果、かなりまけてもらう。──まけてもらうし、実はドイツもまともに払ってないっす。
【D】そうなんだ(笑)
【N】賠償金に関しては、のちほど額面が決定する時期のところで、もうちょい詳しく話したいと思いますわ。
【D】はい。
【N】ちょっと、この時期のドイツって大事なことが同時並行で進行していたりするんで……。普通は分野ごとにひとまとめに記述されることが多いんだけれどね。その方がわかりやすいし。
でも一方で、当時の人たちはオンタイムの出来事にアクションを起こし、それが次への流れを作り出していくんで、──今回はちょっと申し訳ないんだけれども──わかりにくくなることを承知で、なるべく時系列通りにしゃべろうかなと思っている。
【D】はいはい。
【N】本当はこのスタイル、分かりにくいんです(笑)。話ぶった切っているから。
【D】うんうん。
■「いっぱしのしゃべりだ!」----00:22:33
[TIME]----00:22:33 「いっぱしのしゃべりだ!」
【N】──さて、そんな屈辱的なヴェルサイユ条約の衝撃が広まっていた中、8月にはさっき言った通り、ヴァイマール憲法が成立する。
そして9月。舞台はまたまたバイエルン、ミュンヒェンです。またビールの人たちです。
【D】はいはい、ドイツ労働者党の方々ですね。
【N】そうです。1919年9月12日、シュテルンエッカーブロイという飲み屋で、ドレクスラーたちドイツ労働者党が定例集会を開いていました。
サークルみたいなものと言ったんだけれど、こうした集会はちゃんとやっていたんですよ。
この頃のドイツ労働者党の集会というのは、後世やたらショボかったと過小評価されるんだけれど、まあ、そこそこを集めていたんじゃない? とも言われています。とはいえ、大流行りと言うほどでもない。
で、その定例集会なんだけれど、1人目はゴットフリート・フェーダー──さっきチラっと紹介した経済評論家──が講演をするんだけれど、テーマは「利子奴隷制」の打破。聞きなれない言葉ですね。これは銀行を国有化し、利子の仕組みはやめろということね。
【D】ふーん(笑)
【N】で、それを受けて、会場にいた大学教授のアダルベルト・バウマンという人がフェーダーを批判するんですね。批判の挙句、この人は「バイエルンはドイツから分離し、オーストリアと1つになるべきだ」と主張するんですな。
【D】ほうほう。
【N】ミュンヒェンにはバイエルン分離主義者という人たちもいた。ドイツから離れてバイエルンで独立しよう、という人たち。バウマンという人はそういうことを主張した。
そこでオーディエンスの中から1人の男が立ち上がって、猛然とバウマンに反論し始めたんですよ。バイエルンがドイツから分離するなんてふざけんなと。
その男は、ドイツ民族はドイツの名の下に統一されるべき、という、いわゆる大ドイツ主義者だった。オーストリアも含め、ドイツは全部一個の国になるぞ、という。
【D】民族で括っていこうという──。
【N】そうそう。ともかく、その男のあまりの弁舌と勢いに、バウマンはまったく反論ができなくて、シャッポを脱いでさっさと退場してしまったそうです。
そしてドイツ労働者党の党首であったドレクスラーは、この光景を見るとたまげて言ったらしいんですよ。
「なんてことだ! いっぱしのしゃべりだ。彼は使える!」
そう言ったといわれている。
【D】「いわれている」(笑)
【N】実際のところ、どれほどドラマティックであったかはわからんけれど、しかし歴史的な瞬間だったとは思います。
で、ドレクスラーは、この飛び入りの論客に早速小冊子を渡し、次回への参加を勧めた。
この男は無名の一兵士だった。しかもオーストリア出身のくせに、バイエルン王国陸軍の兵士として大戦を戦い、敗戦後も引き続きミュンヒェンで軍務に就いていた人物で、当時年齢は30歳。
【D】ほうほう。
【N】名前はアドルフ・ヒトラー。
【D】おぉ、出ました!
【N】やっと出てきましたね。長かったなァ(笑)
【D】だとは思いましたが(笑)
[TIME]----00:26:03 オーストリアから来た兵士
【N】──まあ、なんでヒトラーがこの集会に現れたかというと、実はこれ、軍による調査活動のためだったらしいですね。
【D】ほうほう。
【N】さっき、バイエルン軍によるプロパガンダ、思想教育という話をしたじゃないですか。その責任者はカール・マイヤー大尉。実はヒトラーは、このマイヤー大尉にスカウトされたスタッフだったんですよ。
【D】はぁはぁ。
【N】彼はその職務の一環で、ミュンヒェンなどの政治団体の調査を行なっていたんですな。
そもそも任務で、ヒトラー自身は最初はこの小さな党を、「ショベぇ党だな」と思っていたっぽいんですよ。ただ、集会でのドレクスラーたちの思想にはそれなりに共鳴した。そしてドレクスラーたちも、これはいい人材を見つけたな、と盛り上がっている。
【D】なるほど。
【N】──ということで、9月16日にヒトラーのもとにドレクスラーから入党許可証が届く。
「うちに入らないかい?」という勧誘じゃなくて、「入ってもいいよ」という許可書を送るという(笑)
【D】(笑)──なるほどね。
【N】こういうものを一方的に送りつけるというのは、ちょっとキモイかなって思うんだけれど。
【D】うーん……(笑)
【N】まあ、ヒトラーも「うーん」と思ったかもしれないけれど、一方まんざらでもなかった。ほどなく彼は入党を決める。
【D】これ、調査のために来ていたんじゃないの?
【N】調査のために来ていたんだけれど、入っちゃったんだよ。
【D】入っちゃったんだ(笑)
【N】で、ヒトラーが入党した時点では、党員番号555番。
こう聞くとね、500人以上いたのかと思ってしまうんですが、番号は501から始まっていたと(笑)
【D】(笑)──何かの詐欺ですね。
【N】だから、実際には55番目だったってことかな。まあ、ハッタリですよね。ただ、これはお互い様で、ヒトラー自身も、のちに「俺は7番目の党員」って言っていたんだけれどね。
──ただこの入党、実はおかしな話で、ヒトラーはまだ軍人なの。
一応、軍籍にある者は政治結社に入ってはいけないという決まりがあったんだけれども、しかし彼はあっさり入党している。これは親分のマイヤー大尉が許可したから。
【D】あ、そうなの?
【N】そうそう。マイヤー自身は部下を民族主義組織、右派組織にもぐり込ませるのは軍にとってもメリットだと判断したと思われる。
きたる国軍の完全な復活の際には、こうした草の根運動を取り込もうじゃないか、という方針があったようで。
むしろマイアー自身は、自分が命令して入党させたと証言している。マイヤーの後押しは確かにあったようで、資金援助などもされていた。
【D】なるほど。
【N】実際、ヒトラーの除隊期限は翌年の1920年3月いっぱいまでだったんだけれど、彼はその間ずっと軍人で居続けた。
これ、けっこう地味な話ながら大事なことで──。というのも、ドイツ労働者党のメンバーはみんな本業がある。仕事の合間に政治活動をしているわけ。プロじゃないからね。けれど、ヒトラーは軍から給料をもらい、しかも半分任務扱いで、援助もされながら党活動をしていた。だから他の党員より経済的、時間的なアドバンテージがあったということになる。これが党内で台頭する素地になったとも考えられている。(イアン・カーショー『ヒトラー(上):1889-1936 傲慢』p.152)
そういう恵まれた状況で政治の世界に飛び込んだヒトラーなんだけれども、むしろ自身は軍隊を出てしまうと寄る辺ない生活で、将来の見通しもなかった。つまり精神的にも経済的にも、ここで蜘蛛の糸を掴んだとも言える。本人としては良きことだった。未来が開けたのね。しかしこれは、ヨーロッパの未来にとって良きことではなかった──ってことになるわけね。こういう思考は個人的にあんまり好きじゃないんですが、やはり人情としてはそう思ってしまう。
【D】うん。まあね。ストーリーを付けてしまうね。
【N】そう。彼には違う才能を見つけてほしかった……というね。
■或る個人史----00:30:21
[TIME]----00:30:21 或る個人史
【N】──と、ここでヒトラー登場なんだけれども……。実は今回、この人の個人史はできるだけ語らないという、マイ・ルールでやっていこうかなと思ったんですけれど、さすがにゼロというのは厳しいなと。なのでザックリさらいます。
【D】あー、わかりました。
【N】しかし、詳しい人生であるとか、特に政治家になる前というのは、結構多くのメディアで語られているんで、そちらを参考に……。
【D】うん。
【N】──アドルフ・ヒトラーさんは、1889年4月20日、オーストリア・ハンガリー帝国のブラウナウという所で生まれました。
【D】オーストリアなんですね。
【N】そうですね。ちなみに、このブラウナウというのは、ドイツとオーストリアの国境あたり。もともとオーストリア人なんですね、この人。
【D】うん。
【N】で、父親はアロイス・ヒトラー。これは税関の官吏──公務員ですな。もともとは革職人になるために修業していたんだけれど、自力で勉強して公務員になった。ノンキャリとしてはかなり出世したんで、優秀な人ではあったようですね。
【D】うん。
【N】ちなみにアロイスは私生児で、出生に関しては不明なことが多く、また、養育された経緯も込み入っているんで、血筋に関しては諸説あります。相当ややこしい家系図になるので、今回は説明を省きますが、とにかく複雑な家庭であった。
【D】うん。
【N】ゆえに姓も初めはヒトラーではなかった。初めは母親の姓であるシックルグルーバーという苗字を名乗っていた。
【D】ふーん。
【N】なのでアドルフというのは父方の系譜がハッキリしていないんですよ。諸説ある。
【D】うんうん。
【N】なので、ある有名な仮説があったりする。
──アロイスは、母がユダヤ人との間に作った娘ではないか、というね。
【D】なんか聞いたことありますね、それ。
【N】ありますよね。
つまりアドルフ・ヒトラーはユダヤ人の孫である──というね。この仮説は創作なんかにも使われまして、我が国では手塚治虫大先生が漫画に描いております。
【D】読みましたよ。
【N】読みましたか。面白いですよね。『アドルフに告ぐ』という漫画ですが。
──ただ、この説は検証もされていて、まあ、今ではまともに支持はされておらんです。
しかもこの話というのは、けっこう早い内から出ていた噂だったらしいですね。
※ハンス・フランク(ナチ党法律責任者にしてポーランド総督)の証言によって50年代に広まった説で、アドルフの祖母マリア・アンナが、グラーツのフランケンベルガーなるユダヤ人の家に調理人として働いていた時にアロイスを生んだ、という話。
当該時期のグラーツはユダヤ人の居住が許されておらず、フランケンベルガーなる家もなかったことがのちに分かっています。(イアン・カーショー『ヒトラー 上』pp.35-37)
【D】当時から?
【N】彼が政権を獲る前から流れていたという。
【D】へー、そうなんだ。
【N】なのでネガティブ・キャンペーンの一環というのもあったのかもしれない。
【D】うーん、そうか。
【N】ちなみに「ヒトラー」という姓は、アロイスの誕生後に彼の母が嫁いだヒートラー家から来ている。
アロイス自身は税関職員になってからヒトラーに改名した。ちなみに当時の名前の綴りというのは結構ラフだったらしくて、ヒートラーとかヒュットラーとか、表記が揺れていたらしい。
【D】そうなんだ。
【N】そうそう。別にそれでもよかったみたいで。
【D】よかったんだね……(笑)
【N】が、アロイスと息子アドルフはヒトラーに固定しています。
だからよく学者さんなんかも、「シックルグルーバーじゃなくて良かったね」とか言うんだよね。
【D】それならそれで、そう呼んでいたと思うけれどね。普通に(笑)
【N】まあね。でもほら、ハイル・シックルグルーバーってちょっとね……(笑)
【D】(笑)──いいんじゃない、結構カッコよくない? ハイル・シックルグルーバー(笑)
【N】まあね……(笑)
ちなみにこの親父のアロイスというのは、3回結婚しているんだけれども、アドルフは3番目の妻であるクララの産んだ子。
クララは、もともとアロイスの家に住み込みで働いていた親戚の子で、かなり年齢差があった。
2番目の奥さんとは死別していて、そのあとの奥さんなんだけれども、どうも生きている内か直後には手をつけていたと思われる。
【D】(笑)──はぁはぁ。
【N】そういう親父さんなので、アドルフには腹違いの兄弟がいるんですよ。兄と姉ね。
ちなみに、クララの子としては彼は4番目の子で、同腹としては兄が2人、姉が1人いた。けれども、いずれも幼い頃に亡くなっている。
【D】へー。
【N】なので、存命だった兄妹というのは、さっき言った母親違いの2人──なので、結構複雑な家庭なんですね。
【D】うん。
【N】さて、父アロイスなんだけれども、女性関係はだらしないくせに、家庭では厳格。それどころか癇癪持ちで暴力もふるう人だったみたい。
【D】ダメ親父じゃん、ただの(笑)
【N】だからアドルフも、この父親に対しては親愛の情というのはなかったみたいね。
【D】そう。
【N】一方、オカンのクララはとても優しくて、子供たちをとても可愛がったと言われている。だからアドルフもこの母を深く愛した。終生、私的な交流に乏しかった彼が、最も人間的な愛情を寄せた人物として知られていますな。
これは未来の話だけれども、ソ連──赤軍が迫る中、アドルフが最期の日々を過ごした総統地下壕には、母クララの写真が置いてあったそうですね。
【D】ああ、そうですか……。
【N】子供の頃のアドルフ親子のむつまじさというのは、──クララの主治医のブロッホという医師が証言している。
クララは若くして死んでしまうんだけれども、そのときの様子を見たブロッホは、ヒトラーほど深く悲しむ人を見たことがないと、そんな感じのことを回想していますね。
【D】うーん。
【N】ちなみにこのブロッホ、ユダヤ人でした。
【D】あ、そうですか……。
【N】でもね、のちに権力を握ったアドルフは、ご存知の通りユダヤ人を迫害するんだけれども、このかつて母を献身的に治療してくれたブロッホは例外的に扱い、亡命を許している。
【D】へー、そうなんだねえ。
【N】まあ、そういう個人の感謝というものはあったみたいね。
※歴史心理学的なアプローチとして、このブロッホの母に対する治療ぶりを潜在的に恨んでいたアドルフが、のちに意識下に反ユダヤ主義を作り出した、というルドルフ・ビニオンらの説もあります。が、ホロコーストへの道筋は、その複雑さにおいて彼1人の資質に帰結し得るレベルではないので(むろん重要ではあるが)、研究者の間ではあまり顧みられていないようです。
【N】さて、アドルフ自身はオーストリアのブラウナウで生まれたんだけれども、親父の転勤の都合で、一家は引っ越しを繰り返していた。そして、最後はオーストリアのリンツという場所に落ち着く。アドルフ自身はこのリンツが自分の故郷と感じていたらしい。
【D】ふむふむ。
【N】で、そこそこ偉い役人の家なんで、この頃は暮らし向きも結構よかった。
【D】うん。
【N】そしてアドルフ少年は国民学校──今の小学校に入る。この時期のアドルフは評判のいい、割合優秀な子だったらしい。
戦争ごっことかインディアンごっことかが好きで、英雄的な歴史物語も好きだった。
【D】うん。
【N】ところが、家庭ではその腹違いの長男が家出をしてしまいまして。そこへきて、アドルフが中学に入る頃になると弟が病死。男兄弟がいなくなってしまうんだよ。そうなると自分が跡継ぎになることがほぼほぼ確定してしまって、そのことで親父からの圧が増したらしい。
【D】ほうほう(笑)
【N】で、これまではわりといい調子だった彼の人生が、ちょっとバランスを崩していく。
【D】うん。
【N】で、親父自身は息子も自分と同じ官吏──公務員にしたかったらしいんだけれど、彼をギムナジウムではなく、実科学校に入学させるのね。
ギムナジウムというのは大学進学を目指すためのルートで、実科学校というのはどちらかというと職業訓練的な実学を学ぶところ。
【D】はいはい。
【N】机上の学問よりは、応用的で技術的なことを学ばせたかったらしいんですよ、親父は。
けれど……、息子を官吏とか公務員にしたいんだったら、学歴的にはギムナジウムのほうがいい。
【D】そうですね。
【N】なのでこの辺のアロイスの判断に関しては解釈が分かれているね。
【D】うーん。
【N】ともかく実科学校に入ったアドルフなんだけれど、ここでは成績が悪くて、ダブっちゃう。
【D】あら。
【N】でもね、これはよく言われる特徴なんだけれど、アドルフって大人になってからも異様に記憶力がよかったらしいのよ。見たり読んだりしたことは大概のことは覚えてしまった。そのわりに勉強には全然向かなかったみたいね。
【D】なんでだ……?
【N】わからん(笑)。まあ、本人はのちの『我が闘争』の中で、親父に反抗するためにわざと成績を落としたと書いているけれどね。
【D】うーん、本人の言うことはあんまり信用できないからなァ。
【N】あ、基本そうですよ。『我が闘争』に関してはそう。なので。実際どうかわからない。──ただ親父への反発が増していたのは確かなようですよ。
【D】うん、それはそうだろうね。
【N】親父は官吏にしたがっていたんだけれども、アドルフは全然興味がない。やがて彼は絵画に関心を向け、芸術家を志すようになる。芸術家志望だったというのは有名な話よね。
【D】そうですね。
【N】そんな感じで成績は全然上がらなかったんだけれども、そんなアドルフ14歳のとき、父アロイスが死去します。
これで一家を支える男はアドルフだけになっちゃった。
しかし、やはり成績はあがらず……。
【D】(笑)──やっぱダメだったんだな……。
【N】なので、進級と引き換えに別の実科学校に転校するんですよ。でも、16歳の時には「病気で通学するのムリです」って言って、そこも退学している。
本当に病気で無理だったのかどうかというのは、非常に怪しいところだけれど、とことん学業が性に合わなかった。
【D】うーん……そうなんだね。
【N】そこからの彼はオカンに甘やかされてね、ブラブラ、わりと好き勝手に過ごしていたみたい。
【D】あらら。
【N】で、この頃からオペラとか音楽にハマっていったんだけれども、特に入れ込んだのはリヒャルト・ヴァーグナー。いわゆるワーグナーですね。
【D】ワーグナーですね。
【N】彼のヴァーグナー狂いというのは有名ですから。
【D】そうなんだ。
[TIME]----00:40:43 アウグスト・クビツェク
【N】うん。そして、この時期の友人としてよく知られているのが、アウグスト・クビツェク。これは音楽家志望の同年代の子でね、ヴァーグナー仲間だった。
【D】ワーグナー仲間(笑)
【N】青春時代のアドルフを最もよく知る友人として、ヒトラー研究では特に重要視された人物。
【D】うん。
【N】ただ、このクビツェクさん、のちに回想録を残しているんだけれど、この回想というのが、誤解とか誇張とか、他の文献から引っ張ってきちゃっているみたいなものが多いらしくて、100%信頼できるというものではないらしい。だが、それでも貴重な証言を残している。
【D】うん。
【N】彼との関係を見ると、当時のアドルフ青年というのは、鬱陶しいんだけれど「まあ、こういう人いるよね」という感じだね。
【D】あ、そう(笑)
【N】クビツェク自身はすごく控えめで受け身な人だったんで、アドルフは彼にはしょっちゅう色々と能書きを垂れて、熱弁をふるい、常に上に立とうとした。
【D】なんか、いいですね(笑)
【N】そして、「俺はいつかやるぜ」「まだ本気出してないだけ」みたいな感じの人なんすよ。
【D】いい感じの若者ですね(笑)
【N】そうそう。大口叩くんだけれど目標のための努力はしない。しても長続きしない。それでも根拠なく自分には才能があると思っていた──という典型的なタイプ。
【D】かつての僕みたいだな……(笑)
【N】いやこれはね、多くの人にある要素だと思うよ。
【D】俺もヒトラーになる才能があったのかな(笑)
【N】こんな人、いっぱいいたよ。本当に(笑)
【D】本当だよねえ(笑)
【N】アドルフのこの長広舌、能書きにしょっちゅう付き合わされていたクビツェクさんは、話の中身自体にはさほど関心がなかったようなんだけれども、彼の話しぶりには素直に感心していたらしい。
【D】話しぶりってことは話術か。
【N】そう。だからこの頃から弁舌の才は萌していたのかもね。
【D】なるほど。
【N】ちなみにですが、この時期アドルフはね、シュテファニーというお嬢さんに片思いしておる。
【D】おお、いいですね。
【N】これね、マジでちょっと離れたところから見つめるだけの恋だったらしいですよ。
【D】(笑)──どうですか、皆さん。
ちょっと離れたところからアドルフが見ている……(笑)
【N】この人の恋愛というのは、こののちも何かバランスを欠いている感じですね。
【D】ちょっとヤバい感じはしますわな(笑)
【N】だからクビツェクに対しては強気だったんだけれど、こういうのはからきしだったみたいで、典型的な内弁慶だったという。
【D】そうだよね。
【N】さっきも言った通り、生涯を通して恋愛は不器用──、というか偏っている。おいおい出てくるかなと思うけれど……。
【D】不信だったのかな、ちょっと……。
【N】対等に付き合えるタイプの人ではないね。
【D】うん……。
【N】──まあ、そんな彼だけれども、18歳のとき、芸術アカデミーを受験するためにウイーンに行くんですね。美術・芸術の学校に入ろうと。で、資金援助は叔母のヨハンナさんがしてくれました。
【D】はい。
【N】──が、ご存じのように受験には落ちます。彼が受験に落ちたというのは世界史上、誰しもが知っていることなので(笑)
【D】すごい恥ずかしいよね。世界史レベルで「あいつ、受験に失敗した」って言われる(笑)
【N】しかも2回ね。
【D】(笑)
【N】でもこれ、本人は全然落ちると思っていなかったみたいで、──努力していないのに。
これも有名な話だけれど、(なぜ落ちたのか納得できず)学長に直談判するんですね。で、そのとき学長に「どっちかというと建築のほうが向いているかもね」と言われて、本人もちょっと本気にしちゃうんですよ。
【D】ほうほう。
【N】ただ、それには学歴が足りないので挫折したと、本人は書いている。
【D】うーん。
【N】──と、まあ、息子が挫折しているときに、最愛のお母さんクララが乳がんを発症してしまう。やがてそれは悪化し、とうとうユダヤ人医師のブロッホが余命宣告をする。
これはさすがのアドルフも帰郷し、献身的に母を看病するんだけれど──。
結局は同年の冬、クララ、47歳で死去してしまう。
【D】若いですな……。
【N】若いですね。──権威的で自分勝手な夫を持って、しかも病で子を多く亡くした、苦労の多いお母さんだった。だからこそ、こうして五体満足に育ったアドルフや妹を溺愛したと考えられるわけですな。
【D】うーん……。
【N】このアドルフの悲しみというのは当然深くて、本人によれば、母の死以来、大戦に敗れるまでは涙を流したことがないと言っておりますね。俺が泣いたのは、母が死んだ時と戦争に負けたときだけだと──。本当かどうかわかんないけれどね。
【D】まあ、嘘でしょうね。
【N】(笑)──それほど深い悲しみであったというのは確かなんだろうけれどね。
【D】うん。
【N】──で、ここでアドルフと故郷を繋ぐ糸が切れたようでね。
彼自身は二親を亡くしたわけだけれども、母の遺産と孤児年金をゲットできたので、今すぐ働かなくても多少は食っていける状態になる。
【D】またこいつめ……(笑)。なるほど。
[TIME]----00:45:56 ウィーンでの日々
【N】アドルフは再びウィーンに戻り、家族とも徐々に疎遠になっていっちゃう。
【D】うんうん。
【N】家族としてはアドルフに定職に就いてほしかったけれども、彼は次の芸術アカデミーに受かる気満々なんで、全く取り合わなかった。でも特に勉強も修練もしていなかったっぽいんですよね。
【D】(笑)
【N】そしてウイーンに戻ると、親友のクビツェクを呼び寄せるの。俺と一緒にシティで暮らそうぜ、と。
しかも、彼の両親を説得して無理やり呼んだらしくて。しょうがねえなという感じでクビツェクが来た。
【D】得意の話術で。
【N】うん。まあ、クビツェクもウィーンで音楽の勉強をしたかっただろうから──。彼も一緒に暮らすことになった。
ほどなくして2人は同居を始め、クビツェクのほうはウイーン音楽院に合格します。
【D】お。おめでとう。
【N】おめでとうですよ。そして、アドルフも芸術アカデミー入学が確定した気でいるので、友と芸術談義に花を咲かせたりしていたようですよ。
【D】(笑)
【N】しかし、やはり努力もしないのが彼の特徴なので、──これも多くの人が心に刺さるのではないかと思うんだけれど──完成しない作品の構想を語ったり、とかしていたらしいですね。
【D】あー、なんかもう、耳が痛いよ……(笑)
【N】俺、こういうのを今考えているんだよね! という(笑)
【D】超カッコ悪い……(笑)。でもやっていた記憶もある……(笑)
【N】で、いざ何かやり出してみても、しばらく経つとやめちゃってて。しかも、なかったことにするというね。
たぶん、周りが「あの作品はどうした?」と言うと「ん、なにそれ?」みたいな感じ
【D】得意技だよね。
【N】ここら辺もやっぱり証言とかだから、本当はどうだったのかわからんけれど、こういう人だったのかもなとは思う。
【D】まあ、そうでしょうね。
【N】でもね。やっぱりウイーンでの2人は、ヴァーグナーのオペラに行きまくっていたらしいんですよ。
【D】おー、そうか。
[TIME]----00:47:57 反ユダヤ主義の目覚め?
【N】ここらへんは日々の生活のことだけれど、もうひとつ大事なところでは、彼自身はこのウィーンに来て2年ほどで反ユダヤ主義者になったと書いている。自分では。
【D】うん。
【N】当時のウィーンというのは人種の坩堝で、ユダヤ人も多く住んでいた。
ユダヤ人というと、金融業者とか、あるいは高度な専門的職業に就いているイメージがあるんだけれど、この街ではそうしたエリートだけではなく、貧しい最下層のユダヤ人も多く住んでいて、これが街でも忌み嫌われていた。
【D】ほう。
【N】ヒトラー本人は昔はユダヤ人を単なる異教徒だと思っていた。それが、ウィーンですれ違ったユダヤ人を見たことがきっかけで、「これは同じドイツ人だろうか?」と思うようになったと書いている。
宗教が違うだけのドイツ人ではなくて、これは違う民族であろう、と。つまり宗教的な問題から人種的問題に、彼個人の中でもスライドしていった。
【D】ふむふむ。
【N】また、当時のウィーンというのは、オーストリア帝国の首都としての輝かしい絢爛たる伝統文化と共に、新興の大衆文化、芸術も盛んだった。芸術でいうと、いわゆる分離派とか世紀末芸術とか──。
【D】そうか、あのへんか。
【N】あのへんなんすよ。──で、これがアドルフにとっては俗悪な文化だった。彼はもうちょっとちゃんとしたヤツがいい。伝統的な、カチっとした……。
【D】何の面白味もないやつね。
【N】そうそう。いわゆるのちの退廃芸術というものになっていくわけだね、このへんが。
【D】はい。
【N】ということで、民族の純粋性とゲルマン的伝統を重んじることになる彼からしたら、この町ってよろしくなかったのよ。
【D】あぁ。
【N】そうして、彼はオーストリアを嫌ってドイツへの帰属意識を高めていくんだけれども、背景にはこのウィーン、ひいてはオーストリア=ハンガリー帝国の多民族性への嫌悪があったと考えられる。
【D】うーん……。
【N】が、ウィーンがアドルフのそういう人種主義とか民族主義に影響を与えたのは確かだと思うんだけれど、彼がこの時点で決定的な反ユダヤ主義に染まったかどうかは、実は解釈が分かれている。本人はここで反ユダヤ主義者になったと書いているんだけれど、あまり信用されていない。
【D】うん。
【N】というのも、彼自身の回想とは裏腹に、アドルフはこののちもユダヤ人と交流していて、反ユダヤ的発言もあまりしていなかった、という証言がある。
※のちにアドルフのビジネスパートナーとなるラインホルト・ハーニッシュの証言など。
【D】ふーむ。
【N】ところが一方、友人のクビツェクは、ウィーンに来る前からアドルフは反ユダヤ主義者だったと語っているんだよね。
【D】あら、クビツェクが。
【N】そうそう。色々と証言が矛盾していてハッキリしていない。ただ、さっきも言った通り、クビツェクの証言というのは実は研究的にそれほど信用されていない。
【D】はいはい。
【N】まあ、昔からそういう傾向はあったけれど、態度に表すようになったのがもっとあと──、というところなんですかね。これは感情の話だから、グラデーションはあったでしょう。
【D】そうですね。
【N】しかし、若い内から民族主義的かつ反ユダヤ主義的な政治家に傾倒していることはうかがえる。
まず1人は、ゲオルク・フォン・シェーネラー。これはオーストリアの政治家で、ドイツ民族主義と反ユダヤ主義思想を持っていた。
【D】うん。
【N】そのあとは、ウィーン市長も務めたカール・ルエーガーという人にもハマっている。こちらも反ユダヤ主義と、ポピュリズム的な手法で熱狂的な人気を得た政治家ですな。アドルフは、特にこのルエーガーの大衆動員や扇動の手法に強い影響を受けたと言われているね。
【D】ふむ。
【N】まあ、ともかくグラデーションではあるんだけれど、のちの反ユダヤ主義に繋がる影響というのは、青年時代にちゃんと受けてはいる。しかし確固たるものに──というか、そっちに全振りしたのがいつなのか、というのがハッキリしないわけで。
【D】うん。
【N】ちなみに、彼の明白な反ユダヤ主義政策の主張として確認されている最古の記録は、彼がドイツ労働者党に入党した頃、すなわち1919年9月に出された「ゲムリヒ書簡」と呼ばれる手紙。これが最古のものだとされていますな。
それは話が前後しちゃうので、あとで触れましょう──。
【D】わかりました。
【N】ともかくまだ、この時代はあくまで芸術家になるつもりだった。政治の道はまだ近づいていない。しかし、ご存知の通り、2度目の受験も失敗します。
【D】(笑)──はい。
【N】むしろ1回目よりも結果が悪かったみたいですね。
【D】あ、そうなんだ。へえ。
[TIME]----00:52:39 「友達だったから」
【N】そして1908年の秋、アドルフはクビツェクがちょっと帰省したすきに姿をくらまします。
【D】あら。
【N】これはもしかしたら、プライドが傷ついて、ちょっといたたまれなくなったのかな。もうクビツェクとは一緒にいられないな、という。だってクビツェクは音楽学校、受かってんだもん。
【D】はい、そうですね。
【N】なので彼、ここで消えちゃうんだね。で、クビツェクも彼を探したりはしなかったみたいね。
【D】そう……。
【N】その後、2人が直接再会するのは実に30年後──。
【D】わお。
【N】1938年。アドルフが権力を握って5年ですよ。いわゆる「アンシュルス」、すなわちオーストリアとドイツが併合されるんだけれど、その年だね。
【D】ふーん。
【N】友情はどうも最後まであったみたいで──。アドルフの死後、戦争が終わると、クビツェクは連合軍に拘束されて尋問されているんですよ。そのとき、ヒトラーとの再会について問われ、こんなやりとりがあったと、彼は回顧録に書いている。
彼に会いましたか。
会いました。
1人で?
1人で。
護衛なしで?
護衛なしで。
その時、あなたは彼を殺すことができた。
できたでしょうね。
なぜ殺さなかったのですか?
友達だったから。
(アウグスト・クビツェク『Adolf Hitler, mein Jugendfreund.』)
──という。これ、有名なエピソードです。本当なのかはわからんですけれどね。
【D】うーん。
【N】しかも、「彼を殺すことができた。なぜ殺さなかった?」という質問も無茶だよな。
【D】そうだよね。
【N】未来を知っているわけじゃないんだからさ。
【D】うん。
【N】まあ、でも、我々後世の人間というのは、アドルフが本当に心を許したクララとかクビツェクみたいな人間に、何か過大な期待を──運命のIFを見出したくなっちゃうんですよ。人情としてね。
【D】はい。
【N】と、こういうことがあったと。
[TIME]----00:54:31 根無し草
【N】──そして、この後のアドルフは根無し草。つまり住所不定、無職になります。この時点で学歴は小卒です。もう最高権力者になれる要素を全く感じない。
【D】そうですねえ。
【N】彼はホームレスの一時収容所に潜り込んだあと、公営の独身寮みたいなところに入っているんですね。
そこは無職とかホームレスだけじゃなくて、仕事がある者や宿代わりにしている者、モラトリアムを過ごしている者など──多様な人が集まる施設だったらしいですね。これはなんだろうね、ゲストハウスの延長みたいな場所なのかな。
【D】うんうん。
【N】で、アドルフもここで絵葉書なんかを描いて小銭を稼いでいた。
この頃のアドルフは極貧であったとされてきたんだけれど、意外とそうでもなかったとも言われている。
実際、孤児年金があるし、叔母さんの援助もアテにできた。あと、絵葉書もそこそこ収入の手助けになっていたらしく、販売を担ってくれる※ビジネス・パートナーさえいた。
※ラインホルト・ハーニッシュ(1884–1937)
【D】お、そうなんだ。
【N】そう。一緒に組んでやっていたのね。──だから、ハッキリとはしないながら、ヤバい時期もあったけれど概ね食えてはいけた、というぐらいなのかな。実際、この時期でもオペラとか行っているしね。
【D】オペラ行くってなかなかですよ。(笑)
【N】どうも、金がないからというより、徴兵逃れのためにこういう生活をしていたとも考えられておるんですね。
【D】うんうん。
【N】でもね、臆病さから軍隊に行きたくなかったというわけではない。これはのちの行動でも証明されるんだけれど、彼はオーストリアのためには戦いたくなかった。戦うならドイツのためがいいと。
【D】おぉ、なるほど。うん。
【N】で、また生活の話に戻るんだけれど──。彼は絵葉書とか小さな水彩画なんかを売っていたんだけれど、その取引相手というのはユダヤ人が多かった。最前ちょっと触れたんだけれど、積極的にユダヤ人と交流していて、なんなら商売相手としては高く評価もしている。
なので、彼の反ユダヤ主義のスタートに関しては解釈が分かれるわけ。
【D】なんか、生活を見ていると、割と色んな人たちに囲まれていて、そんな思想は生まれなさそうな気がするんだけれどな……。
【N】多様性のある場所にいるからね。
【D】僕らより遥かに多様性のある場所で過ごしている気がします。
【N】まあね……。それがもしかしたら、ウィーンという街の特殊性によって引っ張られちゃうところもあるのかもしれないけれど。
──まあ、反感とか蔑視がありつつも、利があれば付き合うということもあり得るかなとは思う。
【D】ああ、そうか……。
【N】うん、内心ではね。だから生活のために表向きは友好的に付き合っていたのではないかと。むしろ、それがために内心の憎悪は強化された可能性さえあるのではないか──。というのは、歴史学者のイアン・カーショーも推測していますね。(カーショー『ヒトラー 上』pp.95-96)
【N】ただこれ、心の問題なんでわからない。
【D】わからないっすね。
【N】ともかく、生活はできていた。実際このころ、孤児年金の受け取りを巡って家族から訴訟を起こされていて、「お前は色々援助を受けていて生活できるだろう。孤児年金は妹に全部渡せ」と要求されてしまう。で、アドルフもこれには同意して、孤児年金はここで諦めている。
【D】はいはい。
[TIME]----00:58:06 ミュンヒェンへ
【N】さて、そんな生活は5年続きまして──。
【D】けっこう続いたな(笑)
【N】けっこう続いたんですね。──1913年5月に、アドルフはとうとうドイツ、バイエルンのミュンヒェンに移住します。ミュンヒェンでは洋服の仕立屋さんであるポップ夫妻の家に下宿していた。このとき24歳。
ドイツに対する親近感もあったけれど、何よりやっぱり徴兵逃れのためであったと考えられている。
【D】(笑)──ほうほう。
【N】事実このとき、オーストリアのリンツ当局が、アドルフを徴兵忌避と国外逃亡の嫌疑で追い始める。
そうして翌1914年の1月、彼はミュンヒェン警察に逮捕され、オーストリア領事館に出頭させられちゃうんですよ。
【D】わりと情けねえ奴だな。
【N】これはけっこう重い罰金刑と、最悪懲役に付せられる犯罪なんで、アドルフ大ピンチ。本人も相当テンパったらしいです。
そこで、なんのかんのと必死に言い訳するんだけれど、これがどういうわけか領事館の心証が良くて……通っちゃうのね。
【D】また得意の話術で!
【N】なんなのかね。わからないけれども。これで罰金も懲役も受けずに済んだのよ。
【D】なにー……。
【N】ただ、もちろん「徴兵検査はちゃんと受けなさいよ」ということで検査を受けるんだけれど、今度は体力諸々鑑みて不合格──。
【D】(笑)
【N】結局、徴兵されないという。なんやねんそれ、というおかしな顛末なんだけれど、これでアドルフは晴れてまたミュンヒェンのモラトリアム生活に戻る。
【D】わお。
【N】で、この頃の生活はわりかし良かったみたいね。
[TIME]----00:59:51 希望の大戦
【N】しかし、徴兵忌避騒ぎの起こったこの年、彼の運命を変える出来事が起こる。
【D】あら。
【N】それが「第1次世界大戦」の勃発。
【D】はい……。
【N】彼のテンションは爆アガリします。
【D】あら。
【N】彼もこの戦争に希望を見た人の1人だった。
【D】はい。言っていましたね。最初は希望だったと──。
【N】うん、そうそう。彼は『我が闘争』でも、この時代に生まれた幸福を天に感謝した、と書いている。
【D】おー……。
【N】まあ、うだつの上がらぬ人生。もう芸術家の道はありそうもない。モラトリアムはそう何年も続けられないだろう。学歴もなく、この歳までまともに職に就いたことすらなかった。
……しかし、戦争がすべてを吹き飛ばしてくれる! そして大義のために、偉大なる大事業に参画できる。
──というね。これは同じような若者、たくさんいたんだと思いますよ。
【D】うん。
【N】そして、アドルフはドイツ・バイエルン王国軍へ入隊を希望します。しれっとこんなこと言っているが、彼はオーストリア人で、かつオーストリアでの徴兵を逃れた人ですよ。
【D】うん、そうですね……(笑)
【N】しかし、なぜかまた通ってしまって──(笑)
【D】得意の話術が……(笑)
【N】いや、これは話術じゃないんだよ。書類で。
【D】あー、そうか。
【N】翌日には入隊許可が届いた。
【D】また許可が届いたんだね。
【N】そうそう(笑)。──彼は義勇兵として、バイエルン王国第16予備歩兵連隊、通称「リスト連隊」という部隊に配属される。
なんであっさり入隊できたのか、あんまりハッキリしないらしいんだけれど、どうも手続き上のミスじゃないかと言われている。
【D】へえええ……。
【N】どうなんだろうね……、わかんないけれど。
【D】うーん……。
【N】ちなみに、バイエルン王国軍と言っているけれど、当時のドイツ帝国は邦国ごとに軍も独立している。だからバイエルン王国軍ではあるけれど、ドイツ帝国軍として戦うわけ。なので彼の正式な所属はバイエルン王国軍。
【D】うん。
[TIME]----01:02:05 リスト連隊での日々
【N】で、配属された部隊である通称「リスト連隊」──指揮官の名前がリストなので──。ここでのアドルフはあんまり社交的ではなくて、1人でいることを好んだ。
【D】あ、そう。
【N】そして、黙って本を読んでいるような人だった。変人とは思われていたんだけれど、といって格別嫌われていたわけでもないらしい。アドルフ自身も、没交渉なくせに連隊には愛着があった。
【D】うん。
【N】ただ、怒りっぽくて、特に戦争の勝利に関しては揺るぎない信念があったようで──、仲間がちょっと敗北をちらつかせたりとか、少しでも厭戦的な言説を目にするとすぐキレたらしい。
【D】ふーん。
【N】「負けちゃうかな」なんて言うと、「そんなことない!」と怒って説教するような人だった。でも、それ以外はムスッとしているという。
【D】ほうほう、うん。
【N】まあ、そういうちょっと面倒くさいところはあるが、概して悪い奴ではない、という扱いだったのかな。
そして人間的な逸話としてはね、彼は陣地の中で犬──テリアを飼っていた。「フォクスル」という名前を付けてたいそう可愛がった。この人が愛犬家だったというのは有名ですから。
【D】そうなんだ。
【N】うん。ずっと犬を飼っていましたよ、この人。最期のときまで。
【D】あー、見たことあるわ。そういえば。
【N】いちばん最後に飼っていたブロンディというシェパードが有名だけれど。
【D】はい。
[TIME]----01:03:38 兵士としての評価
【N】まあ、戦場ではこういうキャラだったんだけれども、肝心の兵士としての働きはどうなのか──? というと、1914年に一度だけ昇進していて、「シュッツェン(Schütze)」から「ゲフライター(Gefreiter)」という階級になっている。
この「ゲフライター」、正確な訳ができなかったせいか、日本語の書籍では「伍長」とか「上等兵」とか表記が揺れている。ただ「伍長」というのは下士官で、「ゲフライター」は兵卒。下士官じゃない。なのでこれを「伍長」と訳すのは誤訳と言っていいんだけれど──。たぶん「伍長」という訳が一番多いんじゃないかな。なので、ここは無理に訳語をあてず、「ゲフライター」と呼びます。
※「Gefreiter」は本来「上等兵」相当で兵卒ではあるが、戦時に欠員のあるときに分隊長勤務に就くという制度があり、これによって「伍長」と誤訳されたのではないか、という記述も見ます。それに照らして「伍長勤務上等兵」の語をあてている例もあります。が、乃木はハッキリとした典拠を見ていないので、この収録に際しては訳しませんでした。
【D】なるほど。
【N】このゲフライター・アドルフ。彼の職務というのは伝令兵。司令部からの命令を現場に伝えるような任務ね。
彼は伝令兵として、何回か勲章を受けているんですよ。大きいやつだと一級鉄十字章と二級鉄十字章ね。なのでヒトラーという男は、歴史的な評価は別としても、兵士としては勇敢であったのだろうと言われてきた。
【D】うん。
【N】だけれども近年では、トーマス・ウェーバーという研究者などが「ヒトラーは連隊司令部の伝令だから、あんまり前線には出ていないんじゃないか」「さほど勇敢な働きはしてないんじゃないの?」という説を立てていたりと──、彼が勇敢かどうかというのは、実は解釈が分かれている。
【D】なるほど。
【N】でも、何度も勲章を貰っているんなら、評価されていたんじゃないの? って思うところなんだけれど、一方で彼はずっと前線にいたにも関わらず、ゲフライターから全く昇進しなかった。
【D】う、うん(笑)
【N】一度だけだからね、昇進したの。──で、昇進しなかったことに関して、元上官であったフリッツ・ヴィーデマンによれば、隊内では指導力に欠けるという評価だった。
※フリッツ・ヴィーデマン(1891-1970)……第16予備歩兵連隊の副官。のちにナチ党に入党し、ヒトラーの副官になりました。
【D】へー。
【N】なので昇進ができなかったのではないか、という。しかし、戦友のマックス・アマンは、アドルフ自身が昇進を断ったという証言をしている。
※マックス・アマン(1891-1957)……戦後ナチ党に入党。のちに出版全国指導者、党の出版社フランツ・エーアの社長として『我が闘争』の出版に関わります。
【N】理由は様々に解釈されているんだけれども、昇進することで隊を離れるのが嫌だったからではないか、という見方もあったりする。
なので、実はよくわからないです。アドルフが優秀な兵士であったかというのは。
【D】うん。
[TIME]----01:06:03 彼の戦場
【N】まあ、それはさておき──、彼はのちに戦争の日々をよき思い出のように語っているので、大事な場所ではあったみたいですよ。
【D】うん。
【N】幻想かもしれないけれども、開戦初期の高揚と、いわゆる「城内平和」、そして戦友との連帯──。不器用な人柄なれど、戦場で拠りどころを見つけていたのかもしれない、と解釈はできる。
実際、1916年のソンムの戦いでは、彼は太ももを負傷して一時後方に送られるんだけれど、前線に早く戻りたがっているね。怪我をしても「大したことないです。すぐ戻れますよね?」と、戦争映画みたいなセリフを言っている。
【D】本当ですね。
【N】だから、活躍は誇張されているかもしれないけれど、特に臆病だったというわけでもないんでしょうね。
【D】うん。
【N】また、後方で休んでいた時期のアドルフは、軍の士気が落ちて厭戦気分が広がっていることにも、すごくショックを受けていた。あれだけ盛り上がっていた愛国ムードと団結心、絆が色褪せつつあった。それを肌で体感していたってことね。
[TIME]----01:07:15 国破れて
【N】実際、戦局は彼らが思っていた以上に思わしくなかった。
【D】うん。
【N】──ともかく前線に戻ったアドルフなんだけれども、運命の1918年10月、イギリス軍のマスタード・ガス──毒ガスの攻撃を受けて、一時的に失明しちゃいます。
【D】へー。
【N】で、ポンメルンのパーゼヴァルクにある病院に送られ、それが彼の最後の戦いになった。
そのパーゼヴァルクの病院でようやく目が開くようになったとき、彼が情熱を預けた帝国は敗北し、国内には革命が起きていた。
【D】うーん……。
【N】彼はのちに書いている。抜粋になるんだけれど──。
「すべてが無駄だったのだ。その夜、私は憎しみを募らせた。この事態を引き起こした者たちに対する憎しみを。その後の数日間で私は自らの運命を自覚した。」
──というね。
自らの政治的使命にそこで覚醒したと。かなり激情的な書きぶりで、神話化しようとしているんですね。
【D】そうですね。
【N】で、この一時的な失明に関しても諸説あって、ガスによる後遺症、あるいは精神的なショック……ヒステリー性のもの……そういう話があったりします。しかも2回失明したとか言われているんだよね、これ。
【D】(笑)──はい。
【N】ハッキリとはしない。──まあ、真偽のほどはわからないけれども、『我が闘争』のこの記述に関しては、本人が実際以上にドラマティックに書いているんだろうとは思う。
【D】うん。
【N】ただ、前に「背後からの一突き」という話をしたじゃないですか。
【D】あー、はいはい。
【N】国内の革命分子の策動によって戦争に敗北したんだ、という風説ね。このときの彼を染め上げたのも、やはり「背後からの一突き」であったろうと思われる。
【D】ほう。
【N】彼はこの国を敗北に追い込んだ者たちを「11月の犯罪者」と呼んで政治的に攻撃していくことになる。キーワードのひとつね──「11月の犯罪者」。だから彼のこれまでの半生を見ても、いわゆる「1914年の精神」──開戦のときの高揚と、「1918年11月の絶望」その2つが刻まれている
【D】うーん……。
[TIME]----01:09:33 戦後の再出発
【N】さて、ともかく戦争は終わった。
【D】はい。
【N】戦後のアドルフはリスト連隊を離れ、トラウンシュタインというところで、捕虜収容所の看守なんかをやったりして──その後、1919年の3月頃までにミュンヒェンに戻ってきたらしい。
【D】うん。
【N】他の戦友たちが喜んで除隊していく中、彼は生活のためか、あるいは他に行くアテもないからか、部隊に残留した。
この当時ミュンヒェンを管轄していたバイエルン軍第4集団では、左派や革命分子の兵士たちを摘発するため、内部調査委員会が作られていた。そして、プロパガンダと啓蒙宣伝、つまり思想教育が行われていた──という話はしましたね。
【D】はいはい。
【N】で、アドルフはその調査員に選ばれ、部隊内の情報を収集するという職務に就いていた。一応、これがオフィシャル的には彼が政治活動に近づいた最初の一歩とされてきた。
【D】うん。
【N】しかしアドルフ自身、実はその前はむしろレーテ共和国のために働いていたらしいのよね。レーテの評議会委員になっていたりする。
【D】へー。
【N】そのことを本人はあまり語らなかった。都合が悪いからでしょうね。
【D】そうだね、意外だね。
【N】ちなみに、彼が所属したレーテのメンバーは社会民主党支持者が多かったらしく、彼自身も社会民主党シンパだったんじゃねえの? という見方があったりする。だから左翼──「アカ」であった可能性があると。
【D】何かそんな感じもしますな。
【N】ところが、レーテ共和国崩壊直後には、むしろその「左翼」を弾劾する側に回っている。
これは実に不思議なことだけれど、「変わり身が早い」とか「内心ずっと反革命ではあったけれど、時局に流されていただけ」などなど──色々に解釈がされる。
【D】うーん……。
【N】でもまあ、単純にいって行動としては日和っていたんだろうと。だから、真性の左派ではないだろうとは言われてますわね……。
【D】うん。
【N】となると、あの敗戦のときの怒りはなんだったのかという……(笑)
【D】(笑)
【N】ただそれは、ウイーンでユダヤ人に絵はがきを売って、彼らと友好的に交流していたことと同じなのかもしれない。内心というか、その人の思想がすべて行動に表れるとは限らない。人間そんな単純なものじゃないからね。
【D】うん。
【N】ともかく、かなり無節操な動きをしているのが、この時期のアドルフだった。
まあ、根無し草の外国人で、戦争に負けちゃったわけだから、明日も見通せず、日和っていたと考えるほうが説得力はあるかな、と。
【D】うん。
[TIME]----01:12:25 カール・マイヤーとの出会い
【N】ともかく、さっきも触れたけれど、バイエルン軍で教育とプロパガンダの任務に従事していたのが、カール・マイヤー大尉。
アドルフはこのマイヤー大尉の目に留まり、教育スタッフとしてスカウトされるんですな。
【D】うん。
【N】のちのマイヤー大尉の回想によれば、出会った時のアドルフの印象というのは「飼い主からはぐれて疲れきった迷い犬」だったらしいですよ。
実際どうかはわからんけれど、進路には迷っていたはず。
【D】うん。
【N】そしてマイヤー大尉は、彼に進路を与えたという意味では恩師といえる。「与えてしまった」と言いたくもなるけれど、もちろんこの時点でのマイヤーの判断を非難できるはずがない。
──しかしカール・マイヤー大尉自身は、この疲れきった迷い犬によって、のちに強制収容所に送られます。
【D】何!?
【N】そして強制労働のさなか、空襲で死ぬことになるんですね。
【D】なにー。
【N】恩師はこの後、教え子と袂を分かってね。むしろ反対勢力に与して、死に追い込まれることになったわけですよ。が、それはまた別のお話。
【D】はい。
【N】これはさらに余談なんだけれど、この迷い犬はのちに、親しい知人に自らをヴォルフ──狼というあだ名で呼ばせるようになる。だから、なんとなく犬が寄り添うんですね、この人には。
【D】はぁ。俺を狼と呼べと。
【N】うん、ヴォルフ!
【D】それ、かっこいいのかな。
【N】どうなんですかね。ドイツ語での狼のニュアンスって、ちょっとわからないけれど。
【D】うん。
[TIME]----01:14:14 演説の才と政治への道
【N】まあともかく、この恩師ともいうべきマイヤー大尉はアドルフをスカウトすると、1919年6月、思想教育スタッフとして育成するため、ミュンヒェン大学に間借りして設置された政治教育コースに彼を送り込む。大学を借りて、そこで軍が講座を開いていたの。
【D】なるほど。
【N】彼はここで、偏ってはいるけれど初めて政治というもの、そして演説の技術というものを学ぶんです。
そして、このコースで彼の才能にいち早く気づいた人もいました。歴史講座の担当講師だったアレクサンダー・フォン・ミュラーという人で、彼は教室でアドルフが他の受講生たちと議論しているのを見かけたんですな。
で、そのときミュラーは、受講生たちが、しゃがれ声のアドルフの弁舌に奇妙に惹きつけられているのを感じたそうです。
【D】うんうん。
【N】彼の人生の分岐点ですね。
【D】うん。
【N】折しも屈辱のヴェルサイユ条約が調印された頃だった。
左翼との闘争は決定的だった。
裏切り者は左翼──「アカ」。そんな裏切り者からドイツを取り戻す! そうした声を上げる右派や民族主義者が、次々と党組織を結成していた。元兵士たちや極右青年たちを吸収するフライコーアは、国内においては左翼革命勢力と、バルトではボリシェヴィキ、シュレージエンではポーランド人と戦い、大量殺戮まで行なっている。時代が本当に混迷の度合いを深めていた頃だった。
軍と政治。もしかしたらこのルートで生きていけるのではないか……? 彼はそんなことを考えていたかもしれない。
【D】ほう……うーん……。
【N】1919年8月20日、バイエルン、レヒフェルトの駐屯地で、兵士たちを思想教育するためのプログラムが開かれ、政治教育コースを履修したヒトラーは、ここに講師として派遣される。
そして兵士たちを前に講演することになるんだけれど、これがいわゆる実地でのデビューになる。
【D】はい。
【N】彼は、そこで自分の才能に気づいたらしい。
【D】なるほど。
【N】自分の弁舌に多くの者が耳を傾けた。自分はこんなにもしゃべれる!
彼自身も書いている。
「常々思っていたことがいま確証された。私は弁が立ったのだ」
というふうに。
【D】ふーむ。
【N】敗戦を知った病院のベッドの上で、彼は神聖な使命に目覚めたと、己のターニングポイントを神話化しているんだけれど、政治の世界に歩もうとしたのは、弁が立つということを自覚したまさにこの時ではないかなと思います。わからんけれど。
【D】でもまあ、いずれにしろ、ここで本人も気づいたってことですからね。
【N】気づいた。そうそう。
【D】うん。
【N】これまで何も形に残せなかった。偉大なる芸術家にはとてもなれそうもない。だからウイーンで親友の前から逃げ出したのかもしれない。
まだ何もしていない。何かやれたはずなのに、何もやれていない。これは多くの普通の人々が持つ普通の悩みだよね。
彼は自意識過剰で、偏っているところもあるんだけれど、その屈託というのは世人と差はないのかなと思う。
【D】……でも、あれじゃない? 芸術家になんてなりたいような奴は、それなりに承認欲求高いぞ。
【N】まあ、人よりは高いかもしれないけれど(笑)。そうね、芸術家の枠の中で、って考えたらね。
【D】うん。
【N】──でも、そういう屈託というか、苦悩を埋め合わせてくれるかもしれなかった戦争は終わっちゃって、残ったのは敗北と、それをもたらした裏切り者たちの革命騒ぎ。その先に何があるのか──。
そんな絶望の矢先、彼はもしかしたら初めて人に認めてもらえる才能を見つけられたのかもしれない。
そして、良き思い出でもあった戦場の連帯を取り戻し、人に芸術と同じか、あるいはそれ以上に直接的な影響を与えることができるすべを見つけた。──それが政治だった。
【D】なるほど。
【N】そして何より、「これなら食べていけるんじゃないか、オレ!」と。
【D】(笑)──活路を見出したわけだ、まさに。
【N】ただ、今のこのアドルフ氏の心境は全部私の想像です。なので忘れてほしい。こういうことがこの人の中で起きていたかもね、ぐらいの話。ただ才能に気づいたとは書いている。
【D】まあ、あくまでも客観的に見て行こう、ということなのでね。
【N】そうそう。──ともかく自分の才能に気づいた1919年9月、彼はさっきも話した通り、任務の一環で「ドイツ労働者党」という、なんかショべえ党にもぐり込むことになった。ショべえけれど、悪くないと思った。なんか知らんが入党が許可された(笑)
【D】(笑)
【N】彼のルートはここで定まりつつあった──。
【D】うん。
[TIME]----01:19:11 ゲムリヒへの手紙と反ユダヤ主義
【N】さっきチラっと触れたんだけれど──彼はほぼ同じ頃、職務の一環で、同じ軍の政治教育コースにいたアドルフ・ゲムリヒという人物に、次のような趣旨の手紙を書いている。
「ユダヤ人は理性を以て体系的にその権利を剥奪されるべきである。──そして最終的な目標はユダヤ人の完全なる排除である」
彼の反ユダヤ主義思想について書かれた最古の史料として知られる、いわゆる「ゲムリヒ書簡」
【D】はいはい。
【N】これが、ほぼ同時期に書かれていた。だから、この時点で彼の反ユダヤ主義というのは形になりつつあった。まさに歴史における「アドルフ・ヒトラー」へのルートはここに定まりつつあったわけ。
【D】うん……。
【N】やっと時間軸が戻ってきましたね。
【D】はい、そうですね。追いついてきましたな。
【N】今宵はここらで。
【D】そうだな。
【N】ええ。まあ、ヒトラーの個人史はサクっと流すと言っていたんだが、この体たらくです。
【D】いやいやいや。聞いているほうもこういうのがないと。客観的に行きたいのも分かるけれど、やっぱドライブ感はあるわな。
【N】そうね。個人の物語はね、どうしても。
【D】うん。
【N】という形で、恐らく次はヒトラーがドイツ労働者党に入ってからの活動、ということになっていきますね。
第4夜に続く──
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