第三帝国の誕生 第5夜~我が闘争、そして新たな時代~
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■終息----00:00:07
[TIME]----00:00:07 ハイパーインフレ下の生活
【N】前回はミュンヒェン一揆の話をしました──。こんなバタバタが起きていた11月なんですが、爆裂のハイパーインフレがまさにこの時期、1ドル=4兆2000億マルクという意味不明な数字にまで達していた。
このハイパーインフレの影響なんだけれども、ようは色んな物の価格が死ぬほど高騰したわけですよ。
【D】うん。
【N】しかも時間刻みで上がっていったと言われているのね。当時のイギリスの新聞『デイリー・メール』が、23年7月当時の状況をこう報道していた。お店の商品の値段が時間ごとに書き変わっていたと──。
【D】ほうほう。
【N】たとえば、朝10時に500万マルクだった蓄音機が、同じ日の午後3時には1200万マルクになっていたという。
【D】おぉ。
【N】この例をあげた歴史学者のリチャード・J・エヴァンズはたとえ話としてこんなことも書いている。もしカフェの客が5千マルクのコーヒーを1杯注文すれば、勘定をするときには8千マルクになっていたかもしれない、と。飲食店で食事をしていて、店を出る頃には価格が変わっている可能性があったという。(エヴァンズ『第三帝国の到来 上』p.173)
【D】なるほどね。食券のシステムがいいなァ。
【N】そうね。前払いがね。──だからまさに人々は、時間刻みで価格が高騰する前にあらゆるものを、特に食料品は大量の札束で、給料をもらったらすぐ買いに行ったって言われている。
【D】うーん、なるほどね。
【N】次の給料日までの食料品とか生活必需品を、まとめて一気に買うんだけれども──。
【D】うん。買い占めだ。
【N】そうそう。しかも額面がすごいから札束が尋常じゃない量で、それこそ給料もカゴとか袋に入れてもらっていたという……。お札がただの紙切れみたいになっていたから。
【D】そうか……。
【N】なので国内では窃盗が増加するんだけれども、当然、金銭よりブツよね。食料品とか生活必需品を盗む窃盗犯罪が爆増するという状況になる。
【D】うん。
[TIME]----00:02:40 シャハトと「レンテンマルクの奇跡」
【N】かかる危機的な状況に、時の首相であったシュトレーゼマンは対策を講じるんですよ。
銀行家のヒャルマル・シャハトという人が通貨委員となり、彼の案によって、不動産に裏付けられた「レンテンマルク」というものが発行されるんです。これはいわゆる「緊急通貨」というやつで、つなぎとして発行される一時的な通貨。ようは新しいお金を発行したんですよ。それがレンテンマルク。
このレンテンマルクを発行することによって、それまでのマルクというのは、「パピエルマルク」という通称で呼ばれているんだけれど、これと交換する。で、その交換レートが1:1兆。つまり1兆マルクを1レンテンマルクに交換する。
【D】おー、はいはい、なるほどね。
【N】そして、通貨発行量も32億レンテンマルクに制限する。それ以上刷らねーぞ、と。インフレを解消するには貨幣量を減らさないといけないので、ようは切り下げるわけよ。これは一種のデノミ。
【D】うん。
【N】これによって見事にハイパーインフレは収束に向かうんですわ。
【D】素晴らしい。
【N】で、これを「レンテンマルクの奇跡」と呼び、実行したシャハトは「財政の魔術師」と呼ばれる。
【D】おぉ(笑)
【N】この魔術師シャハトという人物なんだけれども、のちにナチ政権下でも財政に関わりまして──、インフレを避けつつ軍事費を調達する「メフォ手形」という非常に詐欺的魔術を繰り出すに至るわけですよ。
【D】やはり魔術師だったんですね(笑)
【N】魔術師(笑)。これはまた別のお話ですな。もっと先の話なので、ここで置いておきますが──。ともかく、どうにかハイパーインフレを収束させた。
【D】うん。
[TIME]----00:04:41 レーニン死去
【N】そして年が明けて1924年。まず国際的なトピックとしては、1月21日にレーニンが死去。
【D】おぉ、はいはい。
【N】外国の話ですが、ドイツにも非常な影響を与えた人。
[TIME]----00:04:59 平穏
【N】──そして、ドイツ国内も2月に非常事態が終結します。
【D】うん。
【N】ミュンヒェン一揆だなんだと色々荒れていたバイエルンでは、グスタフ・フォン・カールや、ロッソウたちが失脚。で、それまでバイエルン州政府とベルリン中央政府は対立していたんだけれど、これが解消に向かう。すべてがちょっと落ち着いてくるんです。
【D】そんな感じだね。
■我が闘争----00:05:27
[TIME]----00:05:27 ハンガーストライキと再起
【N】その落ち着いていく中で、獄にいるヒトラーさんですよ。
【D】うん。捕まっているもんね、今(笑)
【N】そうそう。彼、裁かれることになるんですが、最初、彼はハンガーストライキに突入します。抵抗運動のつもりなんですかね。ようは飯食わねえで、そのままどんどん痩せ細っていったと。
ちなみに、面会者というのが結構来ていまして、その中に、すべてにおいて蚊帳の外に置かれていたアントン・ドレクスラーもいたんですが、……憶えていますか?
【D】あぁ、憶えてます、憶えてます。
久しぶりの登場ですね……。
【N】ナチの原型である「ドイツ労働者党」の設立者。
【D】ビール呑んでいた人だよね、最初に。
【N】そうです。彼、まったく存在感がないんですが、終身名誉議長に祭り上げられてからはもう実権を持っていなかったんで……。
でも一応面会にも来ていて──、そのときはもうヒトラーが自暴自棄になっていた。このまま死ぬまでハンガーストライキしかねないということで、ドレクスラーは彼を説得してどうにか思いとどまらせた、と語っているんですな。彼自身が。
【D】おー。
【N】しかしね、同様にヒトラーを立ち直らせたと証言する者が何人かいるので──。
【D】だろうね、いっぱい来ていたら(笑)
【N】持ち直してはやっぱダメだ、を繰り返していたのか、それとも皆と同じようなやりとりをして甘えていたのか、皆にいい顔していたのか、それはよくわからないですがね……。
ただ、その内に本当に立ち直ったようで、裁判が始まる1924年2月26日までには、彼はすっかり自信を取り戻していた。
【D】お、いいね。
[TIME]----00:07:08 合法路線へ
【N】そしてむしろ、考え方を一部改めるに至るんですな。
【D】改めた……?
【N】ほら、これまでは議会主義を否定して、暴力的プッチ、つまり一揆とかクーデターで政権を奪取しようとしていたじゃない?
それがここにきて合法路線へと志向が変わってくる。
【D】あ、合法ですか。法に裁かれたことにより──。
【N】これからだけれどね、裁かれるのは。
【D】あ、そうかそうか(笑)
【N】ようはミュンヒェン一揆の失敗を反省したわけで、やはり、特に軍を敵に回すことは得策ではないということを痛感した。だから合法ということになれば、選挙で政権を獲るということになる。
ただし、合法路線をとるとは言っても「クリーンになる」ということではない。
【D】ああ……やり方を変えただけで……。
【N】そうそう。暴力を捨ててもいない。
【D】あ、……いないの?(笑)
【N】なんでかと言ったら、のちの選挙戦術においても暴力的な恫喝が使われるわけで……。突撃隊なんかがいますから。そういうものの暴力を背景に選挙も進めていたりとかするので、「クリーン」ではないです(笑)
【D】ふむふむ。
【N】しかも憲法の弱点を利して権力に浸透していき、最終的にはその原初の思想であった「議会制民主主義の死」を実現させていくわけだから、あくまで手段を少し変えるだけ。
だから端的に言って、彼にとっての合法というのは軍に鎮圧されるような真似はしない、ということだね。
【D】うん。
[TIME]----00:08:42 党禁止と後継組織の結成
【N】という感じで、考えを改めるのだけれども、しかし外の世界ではナチ党は全土で活動禁止処分にされ、解体していました。
【D】ああ、そうなんだね。
【N】ということでお疲れ様でした。これでナチの歴史は終わりです。最終回。
【D】おぉ、最終回。割と短かった。
【N】──となればよかったかもしれないが、そうはいかない。
一応、残った者たちの中で、アルフレート・ローゼンベルクがミュンヒェンで活動を続ける。まあ、後継者ね。
【D】うん。
【N】もちろんナチは活動が禁止されているので、表向きはNSDAPの看板は掲げず、別の名前で活動する。
しかし、この後継を任されたローゼンベルクという人物は指導力に欠けていて、他の党員からもあまり評価されていなかった。なので、ちょっと相応しくないんじゃないかと──。
でも、だからこそヒトラーは彼を選んだのではないか、とよく推測されている。
【D】お、なるほど、なるほど。
【N】つまり取って代わられる心配がない。
【D】うん。うまいですな。
【N】前にも話したけれども──、ヒトラーはチャンスがあったとしても、自分の影響力が削られるくらいなら組織の拡大を見送るくらいのことはする。だから党の分裂を招くような人物でも、あえて後釜に据えたという解釈もされ得るわけ。場合によっては、出獄するまでにまあまあ分裂するくらいのことは想定していたかもしれない。シャバに出てからあらためて組織を束ねてみせれば、「やっぱりトップはヒトラーに限るよな」という空気になるからね。
【D】うん、なるほど、なるほど。
【N】うん。という計算もあったのではないかという見方もある一方、しかし、イアン・カーショーは「テンパった状況での判断だったから、普通に人選ミスっていたんじゃないのか?」と──。そういう可能性も高いと考えている。
【D】でもやっぱり「俺が一番目立つ!」ということに関しては、全力を尽くすようなイメージなんだよね?
【N】そうねぇ。だから前者の可能性も捨てきれないけれども、やっぱり場当たり的なところもあるようなので、そこまで徹底して考えたか……。もちろんそういう意志というか、少しは考えもあったかもしれないけれど、本当に全部計算ずくだったというのはちょっと考えにくいんじゃない? という説をカーショーは書いていますね。
【D】なるほど。
【N】確かに多くの幹部が逃走したりと大変な状況の中で、割と安全な所にいて確実に組織を再建できる人物、というのをどれだけ思いつけるかというと、かなり難しいわけよね。だって主要なメンバーは一揆に参加しちゃってるんだから。
外側にいた人たちで探さないといけなくなり、しかも捕まる間際にメモを残しているわけだから(熟慮する余裕もないのではないか)。
そう考えると、確かにカーショーのように「普通にミスったんじゃない?」という見方も説得力があるかな、という……。
[TIME]----00:11:36 裁判、強気の主張
【N】まあ、──ともかく裁判ですよ。
【D】はい。
【N】これで彼の運命が決まる──。
しかしこれ、裁判どころかヒトラーの大演説集会と化してしまう。
【D】なぜ(笑)
【N】裁判が始まってみると、彼は責任回避に終始したルーデンドルフとは対照的に、一切の責任は自分にあると明言する。全部、俺の責任だと。そのうえで、一揆は正当なものであると主張したのね。
全部自分の責任であると言うと、仲間たちをかばい、リーダーとしてケジメをとる立派な態度であるかのように思われる。しかし、そんな綺麗な話ではない。
【D】ああ、そう。
【N】この一揆の主役は自分であり、打倒共和国と国民社会主義運動を指導する者は自分である、というアピールをその場でしたのね。ここで全部、「俺の責任」だということになれば、つまり「俺はこの右派の運動の代表である」と宣言したも同然なわけですよ。
※そもそもミュンヒェン一揆はナチ単独ではなく、形のうえではオーバーラント同盟など他団体との連合である「ドイツ闘争連盟」が起こしたものです。
【N】彼はこの一揆に至った理由を滔々と語り、共和国政府のクソぶりであるとか、あるいは裏切ったカールたち3人組を弾劾する。だから相当強気であったと。
[TIME]----00:12:57 幸運な被告
【N】そういう強気のヒトラーなんだけれども、彼にとって幸運だったのは、この裁判がミュンヒェンの特別法廷で行われたこと。だから彼、強気だったの。
【D】ふむふむ、なるほどね。
【N】一揆は国家への反逆だから、本来ならライプツィヒの国事裁判所というところで裁かれるはずだった。けれど、バイエルンがヒトラーをライプツィヒに送ることを拒否して、自分たちのテリトリーで裁くことにした。
これ、なぜかというと、グスタフ・フォン・カールたち3人組にも累が及ぶ可能性があったから。──思い出してほしいんだけれども、そもそもその前から「ベルリン進軍」を企図して、ヒトラーたちドイツ闘争連盟とも会合したりしていましたよね。3人組たちは。
【D】あー。はいはい。
【N】だから、むしろ一味なんすよ(笑)
【D】うーん、なるほど。そうかそうか。
【N】ようは様々な思惑からヒトラーたちの独走を抑えつけていたというだけで、同じ穴のムジナ、余裕でこっちも反逆者なわけ。
しかもバイエルンでも、軍がベルリン進軍の訓練に協力していたりする。結局バイエルンは政府側にも反逆者がいっぱいいたわけですよ。
【D】うーん、なるほど。
【N】で、実際ヒトラーもその点を仄めかして揺さぶりをかけている。お前らも最初から噛んでいたよな? と。
なので、ミュンヒェンの法廷で裁判が行われることが決定したとき、少なくとも重い判決が下ることはないと、ヒトラーも恐らく思ったのではないか。
【D】うんうん。
【N】だから、この法廷を「政治的お祭り騒ぎ」と評されるような彼のパフォーマンスの場にしてしまった。(カーショー『ヒトラー 上』p.242)
【D】なるほど。
[TIME]----00:14:39 政治的ショー
【N】法廷もヒトラーにおかしなくらい発言の自由を与えて──
【D】そこが一番気になっていたところだよ。そんなに話す機会あんのか、被告に(笑)
【N】普通はないですよ(笑)。──被告が一番の主人公という状況。
これはもう、──当時の司法も基本的に右派なの。裁判官たちがみんな右派なんで、左翼のテロには非常に厳しいのに、右翼のテロには非常に甘い、という体質が蔓延していて──、なのでまあ、基本的にシンパだったわけですよ、ヒトラーたちの。
【D】うん。
【N】しかも彼自身、裁判中の長広舌──大演説で、法廷に対して「諸君が我々に裁きを下すのではない。歴史の法廷が我々に裁きを下すのだ」とまで言い切っている。
【D】(笑)──はぁはぁ、なるほど。
【N】だからもう、裁く側にもシンパがいたり、はなから政治的手心が加わっている茶番に近い裁判だった。
【D】うーん。
【N】ここで正常の司法に付されていたら、恐らく歴史は変わっていただろうと。
[TIME]----00:15:54 司法が機能していれば……
【N】だってこれ、国家反逆罪で、しかも死者も出ているので極刑ですよ。普通に考えたらね。あとヒトラーの場合だとオーストリアへの強制送還というのもありえた。もともとオーストリアの人ですから。
【D】そうっすねぇ。場所が違ったらな。
【N】でもまあ、そもそもこういう裁判になってしまうバイエルン、ひいてはヴァイマール共和国だったからこそ、ヒトラーはこの立場にいるわけ。だからシステムが正常に機能しているなら、彼はここにいない──。ということでやっぱり歴史にIFはないなってところよね。
【D】うん、そうですね。まさにその通り。
【N】まあ、ただそう思っちゃうよね、人情としてはね。「ここでなぁ……」って。
【D】まあね、思っちゃうよ。
[TIME]----00:16:38 判決
【N】──そして4月1日、判決が下される。
【D】うん。エイプリルフールだから一発ウソを入れたりしないの(笑)
【N】いやァ、ウソみたいなもんだからね、これ……。マジでウソみたいな判決だよ?
【D】あ、ほんと?
【N】まず、ルーデンドルフ。彼、無罪。
【D】無罪!?
【N】ルーデンドルフ、超偉い人だったんで。
【D】はあ……。
【N】ちなみにこのルーデンドルフさんはね、ヒトラーと違う面倒くささで法廷を翻弄したようですよ。
何か言われると、裁判官たちに「君たちはどの身分で言っているわけ?」みたいな態度をとる。「お前は俺より偉くないでしょ?」という(笑)
【D】麻生さんみたいな感じかね……?(笑)
【N】(笑)──判事を恫喝したりしていたと。──まあ、自分は当初計画を知らなかった。騙されていた、責任はない、とは言っていたんだけれども、じゃあ無罪が出たので喜ぶかと思ったら、「は? 無罪だと? それは俺に対する侮辱だ」というような、かなり面倒くさいことを言って判事を困らせている。だから、よくわかんないです、この人。
【D】よくわかんないですね。
【N】で、首魁であるヒトラーだけれども、彼には5年の禁錮刑が言い渡されます。
【D】5年。
【N】死者も出ている反逆行為で──。しかも模範囚であれば、1年後には仮釈放も検討されるっちゅうオプション付きでね。だから裁判中の拘置期間を差し引くと、最短で半年ぐらいでその可能性が出てくるんですよ。
【D】はぁはぁ……。
【N】だって人1人殺したって5年以上入ることはあるでしょうよ。
【D】うん、まあね。そういう場合もあります、もちろん。
【N】しかもしれっと言うと、ヒトラーってこの時点で執行猶予中だったんすよ。別件で。
あれかな、前に軽く触れたかな……。別の党の集会に殴り込みかけて、それで捕まっているんだけれども、それの執行猶予期間中だった。しかしこれは一切加算されなかった。
※オットー・バラーシュテットたち「バイエルン同盟」に対する暴力行為。
※この他にも造幣局から「没収」と称して14兆6050億マルク(約2万8千金マルク)を強奪した件、社会民主党機関紙『ミュンヒナー・ポスト』の事務所を破壊した件なども罪に問われませんでした。
【D】ほう……。
【N】そういう中での禁固5年──。
[TIME]----00:18:42 要塞禁固刑
【N】しかもこの禁錮刑は「要塞禁錮刑」という、現代の我々にはなじみのない刑だったんだけれども──、これは政治家とか偉い人が被告であったり、あるいは決闘による殺人など、その人の名誉を保った上で課せられる拘置刑。当時、決闘ってけっこう行われていたんで。
【D】ああ、はいはい。聞きますね。
【N】で、これによりヒトラーは引き続き拘置されていたランツベルク刑務所に収監されるわけだけれども、独房には家具が運び込まれ、そこそこ快適な環境と自由が与えられた、激甘なムショ暮らしになる。
【D】おぉ……。
【N】これがいわゆる要塞禁錮刑だった。だから、なんて言うのかな、刑務所に閉じ込めるというよりは一種の軟禁?
【D】まあ、一応の身柄拘束みたいな感じですかね。
【N】そうそう。
[TIME]----00:19:38 ルドルフ・ヘス
【N】──で、そうやってヒトラーに判決が下ると、党員のルドルフ・ヘスが、親分のそば近くに仕えるために自首してきて、同じくランツベルク刑務所に収監されます。
【D】ふーん、なるほど。
【N】このヘスという人物ね、今までちょっと省略していたんだけれども──、彼も非常によく知られた党員でして、熱狂的なヒトラー信奉者で、のちに副総統(総統代理)になる男です。
【D】ふーん。聞いたことあるような気がしますね。
【N】多分、聞いたことがある人は多いと思う。この頃はヒトラーお付きの秘書という感じになっている。なので、秘書業務をするためにわざわざ同じ刑務所に入ってきた。そのために自首してきた。──で、それを一緒にしちゃうというね(笑)。そんなこと、普通はできないですからね、今だったら。
【D】(笑)──はい。
[TIME]----00:20:36 獄中生活
【N】そして獄中のヒトラーだけれども、時間割りは決まっているものの、部下たちと揃って食事をし、スポーツをし、散歩をしながら語らい、差し入れのお菓子を食ったり、読書をしたり、書き物をしたりですよ。
【D】(シャバと)何が違うんだろうね……(笑)
【N】イケナイことをしたから閉じ込めているんですよ?
──差し入れが潤沢だったのは面会が自由だったからのようで、収監中は500名以上の人が面会している。支援者とか党員たちがどんどん来ていたんでしょうね。
【D】うん。
【N】そして日々の生活だけれども、ミュンヒェン一揆のときに肩を脱臼して痛めていたんで、スポーツがあまりできず、もっぱら審判をしていた──という何だか微笑ましい話もある。
【D】ああ、そう(笑)
【N】ただ、カリスマ指導者が他の党員たちと身体能力を競うってことはあってはならない、というのもあるからね(笑)
まあ、ともかくね、我々より優雅で健康的な生活を送っていて、刑罰でもなんでもないような気がしてくるんだけれども……。
【D】うん。
[TIME]----00:21:50 後継組織と内部分裂
【N】また外側なんだけれども──一応、ヒトラーに後を託されたローゼンベルクたち。もちろん彼らはNSDAPの党名は使えないから、表向き違う政治団体「大ドイツ民族共同体」(GVG)という名前で活動していました。
【D】なるほど。
【N】しかし、やはりローゼンベルクには求心力がなく、もうヒトラー裁判の前から党は分裂し始めていた。
[TIME]----00:22:24 国民社会主義自由運動と選挙
【N】また、ヒトラー自身が具体的な指示をしていないということもあるんだけれども、彼が意図していない方針──動きも出てくる。
というのは、部下であるシュトラッサーやレームたちが、他の右派「ドイツ民族自由党」と提携し、無罪ということでシャバに出ていたルーデンドルフを担ぎ上げ、選挙に打って出るという方針を立てていた。
【D】ふむふむ。
【N】最初の内はヒトラーは選挙に打って出る気はなかった。──この収監中に考えが変わるんだけれど──。
そしてこのシュトラッサーやレームたちが選挙に打って出たときの団体は、「国民社会主義自由運動」という連合。
1924年4月6日に行われたバイエルン州選挙では、彼らが協力する民族主義ブロック(右派ブロック)が17パーセントの得票を獲得し、5月4日の国政選挙では、彼らが立ち上げた「国民社会主義自由運動」が32議席を獲得することに成功する。
【D】おぉ、結構きたね。
【N】きたよ。親分がいないときにね。──ちなみに、この選挙では右派と共産党が躍進し、社会民主党が力を落としている。
[TIME]----00:23:41 指導者の態度
【N】ヒトラーは裁判中から、他の団体との提携による戦略には賛成していなかったんだけれども、結果を出してしまったので認めざるを得なかった。それでも他の政党との提携による躍進だから、ナチ党と自分の影響力が飲み込まれていく懸念があった。
【D】うん。
【N】他方、一応本流の後継組織っぽいローゼンベルクのほうなんだけれども、こっちはもう人望がない。こうなってくると、ヒトラーはどこを支持するのか立場を明らかにせねばならない。ようは分裂した組織のどれかを選ぶ必要がある。しかし、それは避けたい。
【D】なぜ。
【N】子分どもが仲悪かろうが、自分の影響力、指導者たる立場をこそ守らねばならないわけで、ヒトラーの態度というのは極めて曖昧だった。ようはどっちかを取れば、もう片方は「なんだよ!」ってなっちゃうからね。それは選べなかった。全部俺んとこへ来い! と思っているわけだから。
【D】あぁ、そうか……(笑)
【N】だから部下たちの分裂に加担できなかったってこと。
ということで、1924年7月になると、ヒトラーは子分たちの分裂や、他党との合同による一切のアレコレから距離を置き、政治活動から身を引くと宣言する。
【D】あら。
【N】つまり「決めない」という結論を出した。勝手にやっとけと。とはいえ、出獄したらもう一回束ねるつもりなわけで、獄中では活動はしないけれど、実権を渡す気はない。
そうなると塀の外の子分たちの分裂はより深刻になって、結果的には「やっぱりヒトラーしかいないな」という空気を作り出すことになる。
【D】あー、うまい感じになりましたね。
【N】ただ、ヒトラー自身がそこまで意図していたかはわからない。そういう解釈もあるけれどね。結果はうまいこといった。
[TIME]----00:25:44 執筆
【N】──ちなみにですが、彼が政治活動を停止するとき、「俺、しばらく本の執筆するから放っておいてね」と言っているんですよ。
【D】お、本。ついに来ましたね、乃木君のバイブルじゃないですか?
【N】違いますね。断じて違いますね(笑)
つまり、お察しの通り、ここで『マインカンプ(Mein Kampf)』──『我が闘争』が描かれることになる。
【D】はいはい。
【N】昔は、もっぱら秘書であったヘスたちのサポートで口述筆記したと言われていたんだけれど、どうもタイプライターで自ら打ったことがわかってきているようですな。
【D】へえ。けっこう長いですよね? 真面目に頑張りましたね。
【N】一本指で叩いていたというね。タイピングはそんなうまくなかったんでしょうね。
【D】パソコン始めたての人だね。
【N】そうそう。
【D】数年前の俺だな……。
【N】(笑)──確か差し入れのポータブル・タイプライターで指1本ずつで打っていたという。
※専門的な職業としてタイピストがいた時代なので、これぐらいが普通だとは思います。
【D】けっこう長くない……?
【N】長いよ。
[TIME]----00:26:41 『虚偽、愚鈍、臆病に対する四年半の闘争』
【N】──ちなみに『我が闘争』だけれども、最初はタイトルが違った。
【D】ああ、そうなの?
【N】もともとは『虚偽、愚鈍、臆病に対する四年半の闘争(『Viereinhalb Jahre des Kampfes gegen Lüge, Dummheit und Feigheit』)』というタイトルだったの。
【D】ちょっとアレだね、キャッチーじゃないね(笑)
【N】キャッチーじゃない。なので出獄後、出版するにあたっては「それじゃ売れんやろ」ということで、シンプルにマインカンプ『我が闘争』になった。
【D】おぉ、編集者のいい手が入ったのかね?
【N】まあ、そうね──。党の出版を仕切っていたのはマックス・アマンという人なので、彼の判断かもね。
【D】おー、いいですね。
【N】ちなみにこのマックス・アマンという人は、ヒトラーの戦友です。
【D】ふーん、昔の?
【N】同じ部隊の──。この時は党の出版をまかされていた。
※第三夜『或るゲフライター』で戦時中のヒトラーの資質に関して証言していた人物。
【N】で、最初はマインカンプ、上下巻でかなり高かったようで、売れなかったらしいです。なので少しあとに、その上下巻だったものを一冊にまとめた廉価版を出すんだけれども、ここから売り上げが伸びていく。そしてナチ党が支持を増やす度に売れていった。その印税収入がヒトラーをかなり潤し、最終的には1200万部くらい売れているらしいですね。
【D】……すごいね。
【N】半ば党員の義務として持っていたから、ちゃんと読んだ人はあまりいないと言われているよ。
【D】あァ、そうなんだ。
【N】──内容は、党結成に至るまでの自身の半生と、党黎明期の建設過程、後半は政策とか思想とか世界観、あるいは自身のプロパガンダのノウハウなんかを書いている。中身はさすがに深く突っ込みはしないけれども、これ、角川文庫から出ているんで、読むのは容易です。電書もあるんで。……まあ、面白いかと言われたらキツイですけれどね(笑)。やっぱし。
【D】うん(笑)
【N】──と、まあ、この本はランツベルク刑務所の中で書かれたということなわけですよ。非常に有名な本ですが。
※下巻は出獄後に書かれました。また、修正などでかなり外部の者の手が入っていると言われています。
[TIME]----00:28:50 読書と思想
【N】また、この時期は執筆以外にもかなり読書をしていたようで、ここでその思想を強化・確立していったと考えられている。
【D】まあ、何せ時間はあるから。
【N】そう。面会者とお話しする以外は執筆するか本を読むしかなかったからね。
【D】最高だね。
【N】最高ですよ。それで生活は困らないんだからさ(笑)
【D】困らない(笑)
【N】──で、まあ、その思想の中で重要なのは「東方レーベンスラウム」構想が具体的に固まってきたこと。かなり前に話したと思うんだけれども、人口が増大するドイツ民族の生存のため、東側に領土を獲得しようという志向ね。これが反ユダヤ主義・反ボリシェヴィズムの融合した世界観に実際的な目標を与える。
そうして世界観戦争と収奪戦争としての対東方政策を形成することになる。そしてそれは、究極的に「絶滅戦争」という形態をも生み出す。
【D】なるほどね、物騒な感じになってきましたね……。
【N】これはヒトラーとナチズムの核心ですな。
まあ、それはもっとあとの時代の話なんだけれども、ここでピースが揃っていくという感じかな。
【D】うーん。
【N】もともとヒトラーは、読書で思想を形成している部分が多いのは確かなんだけれども、基本的に専門家とか知識人というものを軽蔑していて、その読書の仕方にも独善的なところがあった。
体系的に考えを作るというより、もともと志向しているものを強化するための読書であったと思える。これはまさに、『我が闘争』で彼自身が書いている読書法からも伺えるんですよ。曰く、彼は読みながら大切なこととそうでないことを見極め、大切なことは覚えるけれど、そうでないものはなるべく読まずに、あるいは埋め草として読み捨てる、と言っている。
【D】ほうほう、何か……初めから答えありきというか……。
【N】そうそう。そもそも、何が大切かを見極める力を鍛えるために読書があると思うんだけれども、彼は最初から求める知識を選別している。こういう読み方をする人って、まあいるよね。
【D】いるね。
【N】特にメディアとしては、インターネットがそれに向いている。自分の欲しいものだけを選びとるという──。
【D】そうね。
【N】なので彼は『我が闘争』の中でも、網羅的に知識をため込んでいる知識人をかなりネチネチとディスってる。
学問的コンプレックスも感じられるわね。
【D】うーん。
[TIME]----00:31:38 指導者としての自己像
【N】それはさておき、そういう思想と同時に、英雄的指導者としての自覚もここで確立された、という見方がある。初期においては、自分は扇動家であるという以上の自己イメージが薄かった。
「独裁者になってやる!」とか「権力者になってやる!」「俺がこの国民社会主義運動を率いるんだ!」という意識は実はそんなになくて、自分はまず「扇動家」だと──。大衆を熱狂させて惹きつけるための「太鼓叩き」だというようなことを言っているのね。
ところがここへきて、指導者としての意識が芽生えてきた。ミュンヒェン一揆の少し前から、民族主義運動あるいは国を率いる強い指導者としての自分、というものが萌し始めていた。それが獄中にあって実を結んだ、という見方がある。
【D】うーん。
【N】彼はこのランツベルク刑務所の中で、世界観を作ったわけですよ。
そしてその世界観の中で、運動における大衆扇動家から、国を、民族を導く救世主になった。意識の中でね。なので非常に大事な日々であったと考えられる。
もちろん、完全に一貫していたというわけではなく、手段だとかの考え方はこの後も変わっていたりはするんだけれども、根底にあるものが固まっていったのかな──、という感じ。
【D】構想と自分の考えをまとめて、ピースがパチパチとハメ込まれていった感じですね。
【N】うん。しかし外では党自体が解散させられていて、ようはこれから仕切り直しになる──。彼自身の意識も変わったので、ナチ党はリスタートを切るわけで。そこで、彼は何をするのかというところですね。
■ドーズ案----00:33:29
[TIME]----00:33:29 ドーズ案
【N】──さて、ナチ残党による合従連衡と選挙、獄中のヒトラーの活動停止と執筆開始──。これに並行して、ドイツと諸外国との間にもこの時期、大きな出来事がありました。
【D】ほう。
【N】まずね、ドイツの賠償に関して。
【D】例の莫大な賠償金ですね。
【N】そうそう。それに関してアメリカから、新たな支払い方式の提案が出されます。これがいわゆる「ドーズ案」。チャールズ・ゲーツ・ドーズというアメリカの財政家の名前からとっていて、この人を長とする委員会が作成した計画なので、そう呼ばれている。
【D】うん。
【N】これはとっても教科書的な、有名な出来事ですが──。どういう内容かというと、賠償金の支払いに関して、初めの年度の支払額を減額、ひとまず5年間の支払い年額を決め、そのあとはドイツ経済の回復に合わせて金額を増やしていく、という仕組みにしましょうと──。
【D】うーん、はいはい。
【N】ちょっと、ドイツが払いやすいようにしましょうと。
【D】まあイイように聞こえますね、ドイツにとっては。
【N】そうそう。
[TIME]----00:34:52 アメリカ資本の投入
【N】またそれに併せて、ドイツ経済の復興のためにアメリカ資本を投下するというプラン。ドイツが支払いやすい方式に変えつつ、しかもちゃんと払えるようにドイツ経済を健全化しようということ。
【D】ほうほう。
【N】経営が軌道に乗らなきゃ借金だって返せないから、それを手伝ってやろうというわけ。
【D】それはどうなの? そういう名目の下に参入したがっていたという感じ?
【N】いや、アメリカは──あとで触れるけれど──ようは債権、借金を回収したいので。
【D】あ、早く回収したいだけなのね。
【N】そうそう。──で、その準備資金8億マルクを借款としてドイツに渡すんですね。
こうなると、アメリカずいぶん優しいやん、となるところだけれど、──いま軽く言った通り──実はこのアメリカ、第1次世界大戦のときに、他の連合国に戦費としてお金を貸していたのよ。なので、ドイツの賠償金が支払われないと、アメリカも貸した金を回収できない恐れがあった。つまりこれね、債権者が潰れかけた会社の経営を立ち直らせようと介入する、みたいな話なわけ。
【D】(笑)──はいはい、なるほど、なるほど。
[TIME]----00:36:17 対独融和路線
【N】かたや「ドイツぶっ殺す」というスタンスのフランスはこの案に反対するんだけれども、もうええ加減にせえよ、と押し切られてしまうんです。フランスはルール地方を占領したりしてドイツを追い込み、ますます払えなくさせている、少しはドイツのほうにも払わせる余裕を与えろ、ということで。
【D】うん。
【N】ちなみに、フランスはこのあと5月に国会選挙が行われ、これまでドイツに厳しく圧力をかけていた首相のポワンカレの党、「民主同盟」が敗退。今までドイツを追い込みすぎて国際的に孤立し、支持を失ったわけです。これによってフランスは、ドイツに対して融和路線をとるようになる。ちょっと優しくなる。
そして8月、ドイツ側でもこのドーズ案の受け入れが決定。ドイツにとって状況が良くなってくる。一応はね。
■再起----00:37:24
[TIME]----00:37:24 仮釈放の可能性
【N】そして国内に明るい兆しが見えてきた。しかしこちらは明るいのか暗いのか、この1924年も後半になってくると、ヒトラーの仮釈放の可能性が出てくる。
【D】ほうほう。甘々監獄だよね?
【N】甘々監獄で、しかも刑期は5年。でも、もう出られる可能性があるという(笑)
【D】おぉ、早いね(笑)
【N】刑期5年で、差し引きでたぶん4年半とかだったのかな。それにしても全然そこまで経っていないですよ。本当に茶番という感じであったと。
【D】うん、そんな感じですね。
[TIME]----00:38:02 1924年12月選挙
【N】という中で、次は国内の状況なんだけれども、12月、国内でまた選挙。年に2回ですな。
【D】ふーん。
【N】連立政権内の党の争いだなんだで解散になった。過半数を取れずに、いくつもの党が寄り集まって連立政権を組むというのが常態化しているんで、まとまらないわけ。
[TIME]----00:38:32 極左と極右の退潮
【N】結果、社会民主党が少し盛り返し、前回躍進した旧ナチのグループとその同盟者による「国民社会主義自由運動」、そして共産党。これらが逆に議席を減らす。前回の選挙では、この2つのグループは割と議席を取っていたんだけれど、ナチと同盟者は半分減らしちゃう。ナチ単体でもシュトラッサーを含め、4議席しかゲットできなかった。だからこれは惨敗。
ハイパーインフレが終息し、ドーズ案によって少し希望が見えてきた状況下で、極端な左右に票を入れる人が減ったということだと思われる。
【D】まあ、さもありなんというか。
【N】やはり、不安定になると民意の針が大きく左右に振れちゃうってことで。
不安定になったときに労働者の人たちは「左」に入れ、逆に言うと資本家の人たちは革命起こされたらかなわんと「右」に票を入れる、という。
【D】そうね。
[TIME]----00:39:54 指導者不在の証明
【N】で、この選挙の結果を、ヒトラーは逆に喜んだ。この敗北によって、やっぱりナチ党にはヒトラーしかいない、彼が必要なんだ、というムードができるから。どこまで意図かはわからないが、彼が政治活動から身を引いたことが、タイミング的にもとても効果的に働いたとは言えるのね。彼が「俺、政治からいったん退くわ」となった時に党の調子が落ちるというのは、彼にとって非常にいいわけよ。運もよかったんだよね。
[TIME]----00:40:31 仮釈放へ
【N】そして1924年も後半になってくると、いよいよヒトラーの仮釈放を求める声があがってくる。
【D】おぉ。
【N】これ、警察とか検察関係は反対するんだけれども──。当然、彼らが一番ヒトラーによって困らされた人たちだから。でもすったもんだの末、最終的に最高裁判所が仮釈放を決定。1924年12月20日の昼、ヒトラーは出獄します。
【D】出てきましたね。
【N】しかもオーストリアへの強制送還もなかった。一応、オーストリア政府との間で交渉も持たれたんだけれども、結果はドイツ国内で釈放。
──警察にも死者を出したクーデターですよ? ただでさえ刑が軽いのに、仮釈放とはいえ、それをさらに短縮して出てきてしまっている。
【D】(死者は)十数名、出ましたっけね。
【N】そうね。一揆側が現場のフェルトヘルンハレで14人(内1名巻き添え)トータルでは16人。警察側が4人死んでいるから。
【D】もう、司法もへったくれもないような感じですな。
【N】そうね。基本的に司法はシンパなので。ましてミュンヒェンの政治状況もあった。もともとミュンヒェンのトップたちが反ベルリン、反共和国的な姿勢をとっていて、彼らにも累が及ぶからと、ヒトラーを重く罰することができないという状況があった。
【D】なるほどね。
[TIME]----00:42:11 記念写真
【N】──ちなみに、晴れて出所することになったヒトラーなのだが、出所した彼を迎えに行ったのはナチ党出入りの印刷屋さんであるアドルフ・ミュラーと、ヒトラーお抱えの写真家だったハインリ・ヒホフマン。
ホフマンによるこの時の記念写真が残っている。これ、検索するとすぐ出てきますよ。なかなかレアな──レアかはわからないけれど(笑)
【D】出獄、おめでとうみたいな感じで?
【N】そうそう。車の前に立って、ちょっとポーズを取っているという。まあ、わりと健康そうな感じよ。
【D】ちなみにその時はヒゲの具合はどうなんすか?
【N】あ、髭はもう我々がイメージするあの口髭ですよ。ただ、顔はやっぱり権力を握ったあとよりは若干スマートというか、シュッとしているかな。まあ若かったからね。
【D】(写真を見て)あ、これか……。ああ、まあそのままだな。……確かに若い。
【N】まだ1924年ですからね。
【D】ふむふむ。
※当該写真がパブリックドメインか分からなかったので掲載できませんでした……。ちなみに「刑務所の前で出所直後に撮影したもの」として流布していましたが、実際は刑務所前ではなく、ランツベルク旧市街の南門で撮られたもののようです。刑務所前での撮影が許されなかったので、別の「それっぽい場所」で撮影されたとのことです。
[TIME]----00:43:25 再起に向けて
【N】──で、その翌年、1925年、NSDAP──ナチ党の再建に向けてヒトラーは動き始める。
まず年明け早々、バイエルン州首相であるハインリヒ・ヘルトに面会する。反政府活動、とりわけ一揆はもう二度としないと誓い、党活動禁止の解除の働きかけをするんですな。おとなしくするから解除してくれと。
[TIME]----00:43:59 復帰宣言
【N】そして2月27日、3千人以上が詰めかけたビアホールのビュルガーブロイケラー──ミュンヒェン一揆が始まった記念の場所だね──ここでヒトラーは公に復帰宣言を果たす。
しかし、この集会にはレーム、シュトラッサー、ローゼンベルクなどはいなかった。後事を託された幹部たちはいなかったんですね。
【D】あの敗北しちゃった人たち?
【N】ああ、そうそう。選挙に出た人たち※。
──ヒトラーはこのときの演説の中で、党の内輪もめに関して、誰かに肩入れするつもりはない、ということを言うの。もう、自分の求心力のみで党を再建するということね。
そして宣言する。指導者たる自分に無条件に従うことを求めるわけ。
※ローゼンベルクは出ていません。
【D】ふーむ。「俺が」になってきましたね。
【N】そうそう。そして、「もしも自分の行動に誤りがあれば、一年後に判定を下してほしい。自分はすべてに責任を負う」と告げる。自分が留守のときには、党が分裂したり、あるいは選挙に出たりと、色々バラけたんだけれども、俺が戻ってきた以上は俺中心に行くからな。その代わり、誤ったことをするのであれば、お前たちが俺を裁いてくれ、と。
【D】うーん、なるほどね。
[TIME]----00:45:20 一つの時代の終わり
【N】そして奇しくもその翌日だね。もうひとつ、この共和国にとって象徴的な出来事があった。
1925年2月28日、大統領のフリードリヒ・エーベルトが死去する。
【D】あー……はいはい。けっこう長く登場していましたけれどね、エーベルトさん。
【N】54歳でした。──これね……大した病気じゃなかったのね。虫垂炎を治療せずに悪化させた。
【D】あー、虫垂炎……盲腸。
【N】放置して腹膜炎でも起こしたんだろうね。
【D】うーん。なるほど。
【N】──帝国の崩壊に立ち会い、左右両サイドから「裏切り者」と謗られ続けながらも、新共和国を支え続けた人物でした。
そもそも、君主制の解体は彼も望まないことだった。それが「お前は反逆者だ」と言われてしまった。
実際に彼は、自分を「国家に対する反逆者」と書き立てるマスメディアを相手取って名誉毀損裁判なんかを起こしていたんだけれど、これにも敗訴してしまう。さっきも言ったとおり、ドイツ司法は基本的に右派のシンパで、反共和国的なスタンスなんで、大統領といえどこういうことになってしまうわけですよ。
こうした過度なストレスが、死に繋がったとも推測されている。
【D】まあ、相当な板挟み状態だね……。
【N】うん。気の毒な話ですわな。
[TIME]----00:47:04 彼が残したもの
【N】──とはいえ、彼自身も一応左派の出でありながら、右翼の武装集団を用いて血みどろの弾圧を行ったし、治安維持のためとはいえ大統領緊急令を多用し、しかも運用の規定を曖昧なままにしてしまった。ちなみに、エーベルトの時代に大統領緊急令は130回以上出されている。
【D】あ、そんなに出てんだ……(笑)
【N】そうそう。だから、これはのちの議会主義弱体化の道を開いたとも言えるわけで……。
この人は、やはり現代においても評価の難しい政治家で、いま言った点を挙げて非常に批判する人もいるし、「とはいえ、まあ、踏ん張ったんじゃないの?」「しょうがなかったんじゃないの?」という評価をする人もいるしね。
ただ、誰にとってもこのうえなく困難な状況下で新国家の舵取りをしなければならなかったことは、事実だと思いますよ。
この前途多難の新国家にとって、何が最善の方法であったのか。彼がとった選択肢よりもいい方法が他にあったのか──。というのは様々に議論されている。
ともかく彼の死というのは、ヴァイマール共和国をまた新たなフェーズに導くことになる。まさにこれは象徴的なタイミングだった。ヒトラーが復活し、そしてエーベルトは退場した──という。
けれど、このへんにしておきますか。今日は。
【D】そうですね。
第6夜に続く──
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『カエサルの休日』~第三帝国の誕生
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