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シン・犬王

 気が向いたので。

『シン・ウルトラマン』『犬王』と珍しく話題作を立て続けに観、立て続けにポッドキャストで話した。
『シン・ウルトラマン』をこちらの「カエサルの休日」、『犬王』をわたくし乃木が掛け持ちしている「ハードボイルド読書探偵局」で話しているので、鑑賞済のかた、ネタバレ上等のかたは暇つぶしに聴いてやってくださいませ。
 しかし残念なことに、乃木個人に限って言えば両作品ともあまりハマらなかった、という話をしております。
 特に『犬王』はかなり楽しみにしていた分、感覚的な評価以上に話しぶりが厳しめになっていたきらいがある。観ているときはそれなりに楽しんでいたし、刺さる要素もたくさんあったのだけれど。
 なので映画にハマった人は、聴いていて納得がいかない部分も多かったのではなかろうか。基本的に映画に文句を言うのは、零細孤島キャストといえどそれなりに心苦しいのであります。(「読書探偵局」では収録後やや妙な空気になった気がする)

 作品の大方の感想はポッドキャストで話しているので措くけれど、両番組で話していてあらためて気付いたこと、思い直したこともある。
 そしてこの2本、存外共通した構造があるもんだと後から感じた次第であります。
 もっともそれは2作ハシゴで観たからというのもあり、如何にも乃木個人の付会。しかし創作について語るというのはいわばコジツケの内面化である。それに何よりセットで観たから省エネ的に感想をまとめちまおうと……

異形と異形(以下『シン・ウルトラマン』『犬王』のネタバレをしています)

 というのは冗談にしても──。
 奇しくも両作品のポッドキャスト感想の中で「異形」という言葉が共通して出てきた。
『犬王』に関してはいわずもがな、〈異形〉そのものがテーマだ。〈異形〉を喪失することで、権力が規定する〈正常〉へと回収されてしまった者と、それに抗い続けて亡者となった者の物語。
 対して『シン・ウルトラマン』は設定的な段取りはどうあれ、「ニンゲンが異形になる」物語だった。ようはこの2作、変身の物語である(当たり前だ)。
 そして彼岸と此岸の渡渉を巡る、さんざこすられた表現でいえば「境界」のお話。それは自然、「聖なるもの」と「ニンゲン」の物語ということになる(少し照れますな)。神サマとニンゲンだ。


※〈異形〉なる言葉、文脈上差別と身体にかかわるものなので濫用もできないのだが、慎重を期しつつご容赦願うところでもあります。
 かつまた、〈ニンゲン〉は『社会が規範化し、かくあるべしと強制している存在形態としての人』というようなニュアンスでご理解くだされ。生物学的ヒトそのものではございませんで。

※そして『ウルトラマンメビウス』で初代ことハヤタ氏が「ウルトラマンは神ではない」という公式見解を発しておられるので、以下は秒で否定される与太ですが、門外漢があくまで『シン』及び初代に対してウスぼんやり思ったことと、ご容赦くだされ。


『シン・ウルトラマン』はかなりハッキリと「神の側にあるか、ヒトの側にあるか」という神永マンの境界性を描いていて分かりやすいが、『犬王』はそれが賎視に反転している。呪いの結果、〈異形〉として生まれ、差別されてきた者が、魔性的な猿楽(といえるかはさておき)の才を持っているというキャラクターだ。
 聖なる〈光の星〉とはずいぶん毛色が違うように思えるが、言ってしまえば芸事も神サマに近い文化だ。

 猿楽、語り(琵琶法師たちのような)はこの『犬王』の時代においてすでにエンタメ化しているが、彼らや琵琶法師の芸は鎮魂だ。そして同時に芸能とは祝祭であり、時代を遡れば遡るほどにかむさが(神性)を帯びていく。古代の巫に重なるイメージを持たれている如く、神語り、口寄せにも通じ、言ってしまえば「神サマ」を真似する、神性を象ろうとする営為が〈芸〉だとも言える。
 もちろん、直接神霊について語るだけでなく、同じヒトの営み・行動様式をなぞるパフォーマンスも同じくらい古くからあったろう。ダンスにしても歌にしても、演技にしても。しかし、人はなぜ同じヒトをまねぶのか、という問いに立てば、隣人を抽象化してヒトたるの原質を見たい、という欲求、ひいてはそこに神サマ(少なくとも人格を帯びてからの)の似姿を彫刻したい、という願望もあったのではないかと夢想できる。

 そんな芸能に天与(呪い)の才を持った犬王は、社会的な聖俗は反転しているが「神なる異形」にとても近い。それが規範化・制度化されたニンゲンになっていく物語だ。
 一方のウルトラマンは逆にニンゲンが「神なる異形」に変異するシステムであり、同時に神仏の顕現や垂迹にも近いイメージを持っている。(そもそも仏さんの面影が投影されているというのはよく言われるところ)
 そして顕現で超コジツケルなら、犬王の生きた中世には、貧者や病者が文殊菩薩の顕現であるとする文殊信仰や、光明子の病者救済における阿閦如来の伝説があったりする。異形視、卑賎視された人々が神仏の化身である、というイメージだ。
 これらはあくまで仏教的救済による功徳を称揚したもので、当時の差別の実態を相対化するものではない。そしてここから安直に聖俗反転を定義付けるのもキケンなハナシだし、そもそもこれは物語の解題に援用できるほど定説化されていることでもない。そのうえ何やら網野善彦的な世界観が見えてくるが、──単に両作を並べてみたときに連想が浮かんだ、というのが正直なところ。
 それに、かかる網野さん的「魔法の杖」を持ち込まずとも、聖俗反転というのは作り手・書き手のマインドセットにまあまあ打ち込まれているイメージではあると思う。そもそも中世ニッポンでなくとも普遍的に存在するナラティブだろう。

 それはさておき、ことほどさように似たような構造を持ちながら反転しているようにも見える両作。しかし『シン・ウルトラマン』でも、神サマの方がニンゲンに寄って行く、という転倒が生じる。物語のラストでは、魂が分離し、ウルトラマンは回収されていくのだが、意識を取り戻す神永は、むしろどこかシンの意味でニンゲンになったウルトラマンのようにも見える。(ワイだけかもしれんが……)

 そして共に〈面〉を着ける者たちだ。(もちろんウルトラマンのツラは設定上お面などではないが、口元が動くことを想定していたAタイプがあるだけに、それ以降のタイプは面化したというイメージも持ち得る)

 そのほか、コジツケようと思えばコジツケられる要素というのはいくつかあるのだが、特に整理された論でもないのでヤメる。ただ漫然とそんなイメージが繋がっとったわけです。〈見立て〉によるアソビということですな。

 しかし〈見立て〉と〈異形〉となれば、ここでちょっと話を『犬王』にしぼりたい。

異形、再び

 犬王の〈異形〉について思うところがある。
 かなり恣意的なハナシなので異論もあろうかと思うけれど、このように観た人がいる、という一例として。

 犬王は確かに〈異形〉なのだが、総体としては過剰な、どちらかといえば象徴化された異形として描かれている。そもそも呪いの結果だからだが、それが明らかにならずとも、序盤、身重の母親が超自然的なプロセスで産気づく描写で、その象徴性、説話性が強められていた。
 一方の友魚は盲目であり、こちらは言ってしまえばリアルな障がいを持つ者だ。見えないがゆえに犬王の異形性を無効化する存在、という役どころな訳だが、当時は障がいも異形とみなされうる時代だった。しかしこの友魚もまた、「引き揚げられた天叢雲剣の呪い」という超自然的な理由で盲目になっている。だから彼もまた犬王と同じく、象徴的・説話的な存在といえる。

 センシティブな要素なので、肉体的な変容を現実的なきっかけによるものとはせず、「呪い」というボンヤリしたファンタジーに換言する必要があったのかもしれない。医学的・生物学的な原因が提示されたらば、もうあのキーワードは使えないのだ。(そもそもこの文脈である以上、いかに緩衝材を詰め込もうとも際どい言葉であることに変わりはない)

 そういう意図でなかったとしても、起源をファンタジーにするのはもちろん悪いことではない。
 その国、その時代に存在した何者かたちの〈総称〉として、こうしたキャラクターが描かれるというのは、時代物としてもアリだし、個別具体の人生を普遍的な〈物語〉にするためにはどこかで跳躍的なマジックが必要だったりする。そして、そうした抽象化と普遍化こそアニメの特性でもある。

そこにいた人々

 ただ、二人の周囲には象徴でも説話でもなく、現実に異形視されてしまった人々がモブとして存在していた。それは琵琶法師、そして友有座でスタッフとして働く非人・病者(恐らく坂者や河原者に連なる人たち)たちだ。個人的には、彼らの存在がこの作品の評価を難しくしている要素だった。

 歴史的に実在した非人たちは差別されながらも種々の職能に携わり、河原で興行を打つ犬王たちの周囲には必ずや存在したであろう人々だ。そしてそこに連なる病者たちは、病ゆえに世人とは違う外見を有し、それが宗教観念と結びついて長きに渡って差別されてきた。
 それら異形視された人々が描かれたこと自体は、とても意義のあることだと思っている(『もののけ姫』にも描かれましたな)。彼らが友魚のライブでセキュリティとして観客をさばき、運営スタッフとして犬王の舞台の大仕掛けを操作するシーンはいかにもコミカルで楽しい。なんなら乃木はそこで目頭が熱くなるほど感動していたりする。歴史用語としての存在ではなく、京に実在していた人々として生き生きと彼らを描いたから。

 彼らとの出会いはあまり描かれず(うろ覚えなのだが……)、速攻で「友有座」が成立しているという急な展開が気にはなったが、主役二人がこうした「現実に異形視されてしまった人々」を背負い、その象徴としてステージに上がり、(価値規範としての)世界を作り替えている──そういう物語なのかしらと思い、かなり期待は高まっていたのだ。(正直、ライブはちょっと長いなと思ったのだけれど)

 しかし、結果それらの人々は二人の物語から置き去りにされてしまったように思える。そもそもそういう意図があったのかは分からないが、〈異形〉をテーマの一つに据えた物語で、現実にそのように扱われた人々を登場させるのであれば、いやがうえにも作品の根幹に突き刺さってくる。しかし物語上、主役とそれらがハッキリ交わることはなかった。
 その意図、目配せのもとに登場させたのだとすると(多分そうだろうとは思うんだけれど……)、両者の繋がりはもっと見せてほしかった。

 主役二人がそれらの人々を象った存在であるという前提に立つならば(実際はワカリマセン)、これはいわば「象徴するもの」と「されるもの」とが混在している世界だ。
(少し前に観た『少女歌劇 レヴュースタァライト』でも似たようなことを思った)
「象徴されるもの」たちの個別具体の人生は「象徴するもの」に集約され、抽象化されたステージで「演じられる」ことによって普遍の物語になる。とすれば、両者が混在している世界においては、その間を取り持つ手続きが必要だ。
 それがなければ、「同じような」、けれどリアリティの重力が違う存在が同じ空間に共存するという「よそよそしさ」がせり出してきてしまう。

 しかし上の理屈は「思ったんと違う!」とスネた乃木のワガママな理屈でありますので、「別にそんなハナシでもないだろ」というツッコミは甘んじて受けるところであります。

呪いの解かれたること

 ところで、もう一つの重要な要素「脱・異形」について。(『どろろ』とかのことは措いときまして)
 パフォーマンスの度に呪いが解かれ、異形をなくしていくというくだりは、それを「よきもの」として描いていると取られる危険性がある。その危うさはあるが、一応、異形の天才・犬王が権力の求める「正常」という規範に取り込まれていくことで評価を得るという、皮肉の物語──として了解している(かなり危ういけれど)。
 しかしそれも、対置されるのが友魚だけではなく、置き忘れられた「彼ら」を含んでいたのなら、この物語における「正常さという規範」の醜さをもっと先鋭的に語れたのではないか、とも思う。(含んでいるのかもしれない。だとすれば、やはりもっと描いてほしかった)
 しかし取り扱いが難しく、物語の中で最も誠実さが求められる要素でもある。件の「危うさ」がある構造の中ではかなりリスキーな語りになるやもしれず、ならば「これはこれでいいのかな」と思わなくもない(どっちだよ)。

 しかし個人的には、彼らが生き、何かを作り出している姿をもっと観たかったのだ。犬王たちには亡者だけではなく、生きている彼らを見てほしかった。

まねる、まねされる

「象徴するもの」↔「されるもの」、「見立てるもの」↔「見立てられるもの」という図式でいえば、犬王たちは言うまでもなく、20世紀の未来に実在したロック・ミュージシャンを超時代的に模倣している。
 もちろん、当時の犬王たちのセンセーションと観客たちの熱狂、そして規範に抗う新たな美の創出を、我々の知っている既存のロックに変換・翻訳してみせているのだということはわかる。なんならそういう趣向は個人的にも好きだ。呂布がドレッド、加藤清正がアフロのライトフライ級世界王者、真田信繁が『とんぼ』の頃のナガブチと同一人物であるというのを、心の史実とみなしているくらいには好きである。

 ただ、見立てられた一方のミュージシャンたちのことを考えると、少し違和感もある。
 基本的にロック(少なくとも犬王たちが引用した部分の)も変身・変容を志向した文化だ。言ってしまえば、あえて自らを〈異形化〉することで価値を、世界を転回させようとしたパフォーマンスでもある。
 犬王と友魚がカバー(?)した、恐らくはミック・ジャガー、ジミヘン、フレディ、マイケル、デヴィッド・ボウイ(他にもいるかも)──そんな彼らはむしろ、なりたくてもなれない、オリジンとしての「犬王的な存在」を夢見てパフォーマンスしていたのではないか、と夢想してしまうのだ。
 それは制度化された美とは無縁だった頃──異形を誇り、伸びやかな肉体で以て地面とセッションしながら京中を無軌道に走り回っていた頃の彼だ。
むろん、上に挙げたロック/ポップ・スターたちは犬王のことなど知らないし(多分)、現実の彼らがどんな自己像・表現を求めたか、或いは音楽史そのものとは何ら関係のない妄想話。
 だが、ジャンルとしてのロックが見出し、或いは標榜した自由と美は、すでに犬王が犬王と名乗る以前に獲得していたナニかなんではないかと思う。
言ってしまえば犬王は生まれた瞬間から〈偶像〉、すでにしてスターだった。
 そんな犬王たちのパフォーマンスが、或る意味フォロワーである未来のロック(完全に乃木の妄想です)と見立てられることに、普遍化どころかむしろ世界が閉じていくような感覚を持った。
 なに、志を同じうしていればこそ、犬王の猿楽は20世紀のロックにも置き換え得るのだ! と思えなくもないが、
「犬王は何にも見立てられないからこそスターだったのでは?」
 と、身も蓋もないことを思ったりもしたのだ。
 じゃあどうすりぁいいんだよ、と突っ込まれたら、確かにそれはワカラナイし、言うまでもなくこれは個人的な妄想である。それに、長いかなと思ったくらいで、パフォーマンスは総じて楽しかったのは確かだ。

今は鏡に映して見るように朧気に

 ただ言えることは、多くの物語は象徴であり、見立てだ。しかしそれ自体がモチーフとなる、たとえば〈舞台〉を巡る物語となれば、何が何を象徴し、何が何を見立てるか、という関係性にテーマがしっかと貫通していないと、世界は循環論法的に閉塞していくことになる。それはそれで面白いのだけれど、単に似た者同士の「にらめっこしましょ」だけではない、普遍の地平が切り開けなければ、世界は突如、映し出されている場所より狭くなってしまうんではないか。
 そんなことを思った。

いや、そもそもよ

 ──と、無軌道に書いてきたけれど、そもそも原作をまだ読んでいないので、これはスクリーンに映し出されたものに対してだけのリアクション。
 ちゃんと読まにゃあかんですな!

 そして、まねる、まねされる、となれば「シン・ウルトラマン」へも再度着岸できそうな気色ですが、そこは音声で喋りましたゆえ。

 ではでは。

(乃木)

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