結局、オリンピックってなんなんだ
いよいよパリオリンピックが始まる。
スポーツ観戦が大好きな僕としては、こんなにも楽しい時間はない。すでに競技は始まっていて、先日は翌日午前中から大事なミーティングがあるにも関わらず、朝4:00まで男子サッカーの試合を見てしまったし、昨日も女子サッカーを2:00まで見てしまって寝坊したので今日は起きた5分後に家を出た。
とはいえ、オリンピックには負の側面がたくさんまとわりついてしまっている現状もある。
パリの興奮に飲み込まれる前に、東京オリンピックで大会ボランティアとして活動した経験から、オリンピックについて感じたことをあれこれ書いてみる。(ちなみに、大会ボランティアは "Field Cast" という名称だった。なんか洒落ていて好きだった)
会場での経験
2021年夏の東京オリンピックは、新型コロナウイルスの影響により一年延期、原則無観客という異例の条件で開催された。僕は大会期間を開催都市であり地元でもあった東京で過ごし、大会ボランティアとして競泳、飛び込み、アーティスティックスイミングが行われた東京アクアティクスセンターで活動した。
活動期間中、休憩時間にアーティスティックスイミング団体の決勝を見る機会があった。出場国はプログラムにそれぞれ国の文化を取り入れており、それに合わせた音楽、衣装、メイクを準備していた。例えば、日本は空手、ウクライナはバレエ、スペインはフラメンコといった具合である。
目の前で行われているのは、順位を争う競技であるはずなのに、あの日の会場は互いの文化をアーティスティックスイミングという形で紹介し、尊重しあう場のように感じられた。なんだか、とても感動した。美しい光景だった。オリンピックの本質は、順位を競うことではなく、この感動を肌で感じることなのではないかと思った。
心が感動で満たされたまま帰宅し、録画した中継を再生した。しかし、全く同じ競技を見ているにも関わらず別物のように感じられた。それは、放送の多くが日本チームの紹介に割かれ、関心が競技の結果のみに集められていたからではないかと思う。オリンピックの中継が、日本人の凄さを確認するためのツールのようになってしまっているように感じた。
他の競技においても、メディアで報じられたのは日本人選手の活躍や試合結果ばかりであった。会場で感じた空気との差に戸惑った。
オリンピックの主役は誰か
大会ボランティアに参加するまで、「オリンピックの主役は参加する選手だ」と思っていた。メディアが自国の選手の活躍や競技結果の報道に力を入れることに疑問を感じたことはなかった。しかし、オリンピックの主役は選手なのだろうか。
そもそも、オリンピズムの目的は、
である。
また、オリンピック・ムーブメントの目的は、
とされている。
ある日の休憩時間、私は同じボランティア参加者の中国人と一緒に観客席の3階の端に作られた休憩スペースから競泳の競技を観ていた。
最初は、それぞれがお互いの国の選手を応援していた。しかし、いつのまにか二人で日本と中国両方の選手を応援するようになっていた。そして最終的には、なんか出身地とか関係なくなって、出場している選手全員を応援していた。どこの国の選手が勝っても気持ち良く、その感動を分かち合う相手に国籍は関係なかった。
オリンピックはスポーツの総合世界大会ではない。スポーツを通じた、平和の祭典である。気づけば行ったことのない国の選手を応援していて、隣に座る見ず知らずの外国人と自然にハイタッチしてしまう。そんな光景にオリンピックの本質があるんじゃないだろうか。おとぎ話かもしれないけれど、そうやって平和って作られていくんじゃないだろうか。
そう考えたとき、オリンピックの主役は選手ではなく、自分たちのような市民なのかもしれない。
大会後に実施された、NHK放送文化研究所による『東京オリンピック・パラリンピックに関する世論調査』(第7回)では、東京オリンピックを開催してよかった理由として、約6割の人が「選手たちの努力が報われた」と回答したそうだ。もちろんそれも正しいのだけれど、なんか違うなあと感じてしまった。
先日の男子サッカー初戦を見ていた時、日本のゴールシーンのリプレイで観客席の様子が奥のほうに映っていた。おそらく日本なんて何の縁もなくて、ただチケットを買った試合が日本の試合だったんだろうなという外国人のお客さんが、ゴールの瞬間立ち上がって拍手していた。
そうそう、これこそオリンピックだ!そう感じた。きっと他の競技、他の会場、どの国の選手が出ている場所でも、同じことが起きるんだろう。その度に、世界がほんのちょっとだけ平和になるんじゃないかと思う。
いや、やっぱりおとぎ話かな。
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