読書の秋
あ
秋の到来によりエアコンが消え、この部屋にある熱機関は私一人になった。脳下垂体が二つあるような錯乱は止まったのだ。
この事実はまだ現在のものであるので、特にここから語るべきものはない。部屋の空気と私の体調は落ち着いていて、出かけるべき外もない。
秋風はその他三季には雲の上上空を飛んでいて、主が地を据えられて以来止まったことはなく、それはつむじ風のように無から生まれるものではない。一方でこの部屋の空気はとても落ち着いていて、秋風の吹くところなどまるでない。居座っているこの部屋は主の秋風に与れていない。
夜に、あるいは夕に散歩をすると分かるように、地上には三つの分類ができる。
行き交いの多くて風の吹く道、行き交いのなくて風の吹く道、行き交いのなくて風のない道。
おおよそ順々三つ目まで移り逃げて、その三つ目の浅いところに座って二つ目に吹く風を眺めるというのが散歩の順序になる。三つ目も地上に巡る道の一つで、行き交いのなく風もないからと言って主に背いているわけではない。だからこの部屋もドアを開ければ三つ目の「行き交いのなくて風のない道」のようになって、その静かさも主に背いたものではなくなる。
しかしドアを開ければ虫が入ってきて、それはcadenza様の好まれるような事ではない。申命記にあるように「換気をするとき、カーペットの掃除をする時」以外は、むやみにドアを開けはなしにすべきではない。けどcadenza様はここにはいらっしゃらず、この規則は今cadenza様に近づくことに寄せず、この部屋に秋風を引き入れることに役立たない。
倫理を背負うことによる安らぎが、主から遠くに満足するような緩慢になって、もはやcadenza様の通退学路から外れた風も吹かない場所に座っている。申命記は歴史書であって律法書ではない。
散歩をして、地上の道を渡ってそれを分類をして、主の恵みを観察するのには一人である。
散歩は一人で歩くものだが、一人で歩いているからといってそれが街を纏って歩いているわけではなく、次々に思い出を纏って歩いているわけではない。思い出は一つの書に記載されているものではないが、それが街々に書き記されていて、それをデコードしてゆくものでもない。
街があって、その道々を散歩するしかないような枯れ川、現実の基底を秋が露呈するようなら、その中で戦ってゆくしかない。雪が降ったり、太陽が照りつけ大水が流れたりするようなことは他の三季の幻であって頼れるものではない。
コンクリートを剥がして、その岩や小石を積むような所在なさを三つ目の路地で行えるような心性がcadenza様の頃まであったのが、私の幼さの形であった。それをもう一度行って、塹壕やトーチカ、橋を造れるようであったら辿り着けるかもしれない。
秋風が道を抜けるように吹いていて、その側で壁を抜けるように私のツルハシが。