ヨナ書の地道に憎みつづける人々
聖書で人を憎んだときには神がいる。眼前の人を憎いと思ったらすぐ天上に仰いで訴えればよく、それでその憎しみの正誤も含めてすべて済む。
このような憎しみの怠慢が基調の雰囲気となっている聖書にあって、ヨナ書の人々はもう少し辛抱強く、大いなる転覆を願うことは少ない。地上には力が溢れていて、それに呑まれそうな私がひとり激烈な憎悪を抱えているわけではない。力の中で浮かぶ憎しみの、真の所在が次々と転換していくさまがヨナ書にはある。
たった4章の小預言書ではあるが、見てみる。
第1章;ヨナの逃亡
タルシシュ行きの船の上、おのおのが船賃を払って乗ったこの人々は¹'³自分たちの船が遭った大しけの暴風雨にまったく恐怖していた。自分たちの船は今にも波に砕けんばかりであり¹'⁴、もはやおのおの自分の神に祈って叫ぶしかなかった¹'⁵。
こうして皆がそれぞれ別の神に祈り訴えている以上、この嵐はもう誰かの神につかえる誰かの責任であり、船の人々はくじを引いた。それにヘブライ人のヨナは当たった¹'⁹。
それまでの混乱のなか人々は少しでも船が軽くなるようにと次から次へ積荷を捨てていて¹'⁵、最後に引いたこのくじがヨナに何をするのかは明らかだった。どうしようもない力に圧迫された人々が、その憎しみをヨナに負いかぶせているのだろうか?
違った。この嵐は本当にヨナのせいだった¹'¹¹。ヨナがこの船に乗った経緯は冒頭に書かれた。
この事実を平然と語るヨナに、むしろ他の人々が驚愕する¹'¹⁰。この嵐は本当に神の怒りであって、この嵐こそが今の憎しみであった。憎しみを抱いていたはずの私たちは、それによって振るわれたこのヨナへの力に過ぎなかった。このくじも、ヨナは自らの悪運を引いた訳ではなく、それは怒る神からの攻撃であった。
人々はヨナを海の中に投げる。自分たちが憎んでいるのだと確信しているからこその勢いはもはやなく、かえって自分たちの罪を恐れながらだった¹'¹⁴ ¹'¹⁵。
第2章;ヨナの救出
ヨナは海に投げ込まれるとき何も抵抗せず、むしろすすめてそれに委ねた¹'¹²。ヨナは自分の罪がわかっていて、この荒れ狂う海は神の憎しみそのものと見えた。しかしその中に落ちてみれば、それは波また波が、潮の流れが重なる純粋な力だった。
大水が彼の喉に達し、水草が絡みついて声すら出せず²'⁶、ヨナは世界の底に沈んだ²'⁷。そうしてヨナは自分が地上にいたときに話せたさまざまな言葉を思い返し、今でも聞こえる神の命令に思い至る²'⁸ ²'¹⁰。
神は、世界のうち私と合同する部分は、ご自身の憎しみにさえ単なる力としての身分しか与えられなかった。そうして最後に残った神の命令に従い、悪の満ちる都といわれたニネベに向かった。神は彼を陸地に上げた²'¹¹。
第3章;ニネベの悔い改め
憎しみの最終的な所在、主の前に絶えず憎しみを届けていた都ニネベ¹'³は意外なことに、ヨナが悔い改めを呼びかけると一度でそれに従った³'⁵。一回りするのに三日もかかる大きな都ニネベは³'³このまま憎しみに留まっては神の力に溶けて「滅びる」と言われ³'⁴、大慌てで12万人の人間と家畜にまで断食を命じ、自らを都として構成している力から立ち直ろうとした。王は人々に「おのおの悪の道を離れよ」と呼びかけるしかできない。もとよりそれしか王にできることはなかった。
神はこれを見てニネベを赦した³'¹⁰。神にはニネベの悪がよく見えていたが、だからその都としての委細もよく見えていた。なればこそ、神がこの都の悪を言うときは必ず「大いなる都ニネベ」と言っていた¹'³ ³'² ⁴'¹¹。
第4章;ヨナの不満
しかしこの和解にヨナは激怒する。ヨナにはこのような結果が最初から予感されていた。それでもただ受け忍ぶのであれば、ヨナは船の底でまるまって寝ているだけでよかった¹'⁵。それなのになぜ神は私を起こして¹'⁶ほうぼうにひき回し、私にはまったく無力な出来事に巻き込んだのか。私の与することのできない予定に私を組み込んだのか。
ここまで憎しみは力に連なってあった。船の人々は嵐から怯えてヨナを落とし¹'¹⁴、海の重量はヨナを一つの命令に押し出し²'⁸、ニネベはその権勢から作った悪を再び人々にまで還した³'⁸。私は憎しみから力を振るおうとし、集団はその力を集めて憎しみを持とうとするが、だからこそ私は憎しみきることができず、集団は憎しみに留まりきることができなかった。そうした未達の憎しみの中でいつまでも空転していたのだった。
しかしこのヨナに至って、憎しみは力の途切れた場所としてあった。ヨナは起きたことへの憎しみのあまり
「生きているよりも死ぬ方がましです。」⁴'³
と言うが、何ができるわけでもない。太陽の照りつける東の荒野に座って、ただニネベを睨んだ⁴'⁵。
そのヨナに神は日避けのとうごまの木を生やしてやったあと、食い荒らす虫と焼けつくような東風をもってまたこれを枯らした⁴'⁷ ⁴'⁷ ⁴'⁸。ヨナは暑さに苦しみ、憎んで先の怨嗟と同じ言葉を言った。
「生きているよりも、死ぬ方がましです。」⁴'⁸
ヨナは神の意志を憎んだときの激烈さをそのまま一人分のちっぽけなとうごまの木にも向けたので、ここにヨナと神が対話をする余地ができた。
この書は以下の対話でそのまま終わる。
ヨナが持っていないとうごまの木と、神が持っているニネベが見せる力のありさまは両者とも一緒であった。ヨナは最後まで憎しみの中に退き、自分と力との断絶を睨みつづけたが、その憎しみの目をもってあらゆる力自体が在るニネベの都の方を見ても差別することができなかった²'⁸ ²'⁹。そこには力があったからである。
ヨナはくりかえし一つの選択を宣言していた。憎しみから進んで死にゆくか、憎しみに退いて生に留まるか⁴'⁹。タルシシュの船上からニネベにまであらゆる大きさの外界を渡ったのち、なんでもないとうごまの木を見てもヨナは憎しみに食い下がったので⁴'¹⁰、彼は動揺することができなかった。ヨナは憎しみに退いて生に留まり、そこから12万人の人間と家畜が生きるニネベにふたたび向き合ったのである。
ヨナ書
では、ヨナはまたダビデの詩篇やヨハネの黙示録のようなすべての総括、世界から落ち込んだ憎しみに帰着したのだろうか?
そうとは思われない。ヨナはさまざまな大きさとの一連の手続きを経てのち憎しみを所得したのであって、最後には神にその本性と用い方の説明さえ受けたのである。未達でありつづける憎しみの事実をひとり整理しつづけたヨナは、果ててはその瞳の裏面のように静かな、権利としての憎しみさえ得たのだ。別にこれはなくても済むが、あればヨナは生き続けられるかもしれなかった。正しくあれば無資格に生きて見られるという聖なる神殿のかわりに、ヨナはせいぜい有限な人々がそれでも惜しまれて生きる都ニネベを見て黙ったのだから。
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記事に参考する聖書の文言はすべて新共同訳に準ったが、ただ第4章の章題だけは筆者自らが補った。文中の上付き数字はすべてヨナ書の章節数である。
見出し画像; Fontana e pischiera nel giardino Montalto alle Terme Diocletiane (Giovanni Francesco Venturini)
/「ディオクレティアヌス浴場のモンタルト庭園にある噴水と魚の池」、ジョヴァンニ・フランチェスコ・ヴェントゥリーニ作