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Cadd9 #5 「いつかは怖くなくなるさ」
翌日の朝、直は湯船に浸かりながら夕べのことを思い返していた。湯はとっくに冷めきっていて、手足を動かすと風に吹かれたときのようなひんやりとした感覚が肌の上をすべっていった。開け放した磨り硝子の窓の向こうには曇り空が広がり、灰色の雲は所々が明るく輝いて見えた。裏山から葉のざわめきが届き、鳥の鳴き声が聞こえてくる。時折蛇口から雫が垂れると、世界中に響き渡りそうなほど存在感のある音を立てた。
雲を眺めてしばらくぼんやりしていたが、湯船から出て、大雑把に頭と身体を洗った。朝風呂に入ることは滅多にないので変な感じだった。しぶきや濡れたタイルが陽光できらきらと光っていた。
夕べ、直は寝たふりをしているうちに本当に眠ってしまったようだった。十時を過ぎてようやく目を覚ましたときにはすでに食器はおおかた片付けられていて、ナスノさんは寝る支度を進め、樹は部屋の隅で本を読んでいるところだった。樹はパイナップルが入った缶詰を直の目の前まですべらせ、食べな、と言った。パイナップルを口に含むと甘い汁がのどの渇きを満たしていき、直はなんとなく自分をかぶと虫のように思った。
家まで送ると樹は言ってどこからか懐中電灯を取り出し、売り場の土間まで靴を取りに行った。直はナスノさんに礼を言い、ポケットに象の消しゴムが入っていることを確かめて、樹を追いかけた。
ふたりはほとんど喋らずに夜道を歩き続けた。
「なあ、今も月が怖いの?」
樹はきいた。直は何も言わずに上を見上げた。満月は電線の向こうで輝いている。五線譜の上に乗った音符のように見えた。言われるまではあまり気にしていなかったけれど、見上げているとやはり目があったような気がして不気味な感じがした。
「いつかは怖くなくなるさ」
樹は明るい声で歌うように言うと、小石を蹴った。
月明かりでうっすらと道は見えていたが、街灯が少なくあたりは暗かった。樹は懐中電灯で注意深く、そしてさりげなく足元を照らしてくれていた。
「ここ」
そう言って家の前で立ち止まると、樹は「ふむ」と短い返事をして直に寄り添った。
外灯の明かりがついている。裕二よりも遅く帰宅するのは初めてだった。機嫌を損ねてしまっただろうかと不安に思いながら、直は玄関を開けた。右側にある階段の三段目あたりの暗がりに、待ちくたびれたようにうつむいて座る裕二の姿があった。
ただいま、と直は声をかけた。裕二はゆっくりと顔をあげる。澱んだ顔色の中に、傷ついた鮫のような黒々とした目がぽちりとふたつ光っていた。それは直がいちばん見たくない裕二の姿だった。罪悪感がみぞおちのあたりからしびれるように広がっていくのを感じ、直は思わず顔を背けた。
「こんばんは」
樹は一歩前に出ると、裕二に話しかけた。
「夜分にすみません。第二中学校の月森樹です。相葉君には今晩うちに遊びに来てもらってたんですが、帰すのが遅くなってしまいました。心配かけてすみません。次から気をつけます」
あまり申し訳なさそうな態度は見せずに、はっきりとした口調で言い、軽く頭を下げた。俺が寝てしまったのだから樹は悪くないと言うべきだったけれど、口を挟むタイミングを逃してしまった。
裕二は長い沈黙のあとでようやく立ち上がったかと思うと、ゆらゆらした足取りで直に近寄り、肩に手を置いた。
「こいつにかまわないでくれ」
呪いをかけるような低い声で裕二は樹に向かってそう言った。樹は直の顔をちらっと見た。肩に置かれた裕二の手に力がこもる。
樹は何かを言いかけてやめ、しばらくすると自分の心の声を納得させるように少し唇を曲げて頷いた。
「失礼します」
すっきりしない面持ちで樹はそう一言つぶやいて外へ出ると、一度ふり返り、直の目を見つめて「おやすみ」と言った。おやすみ、と直は返した。しかし言い終わる前に裕二が身を乗りだして戸を閉め、すぐに外灯を消してしまった。
台所に食事をした形跡がなかったので、何か作ろうかときいた。裕二は首を横にふった。お前は、ときかれ、もう食べてきた、とこたえると、裕二は裏切り者を見るような目つきで見返してきた。
「ごめん」
咄嗟に謝り、直はすぐに後悔した。言い方にどことなく不満な気持ちが滲んでしまったような気がしたからだった。実際に外で夕飯を食べたくらいのことでそんな目つきをされることは不満だった。しかしそれ以上に、不満を感じていることを自覚してしまったことに罪悪感を覚えた。そして自覚していながら咄嗟に謝ってしまった自分に猛烈に嫌気がさした。父親に対して無意識にへつらう弱さにもうんざりした。直はそんな様々な思いが伝わらないことを願いながら祈るように拳を握った。裕二は呆れたといったふうに長いため息をつく。ごめん、ともう一度言いかけて、今度は言葉を飲み込んだ。
「どうせ誰といたってろくなことにならないんだよ。お前みたいなのはさ」
裕二はそう言い残し、テーブルに置いてあった一升瓶とグラスを持って二階へ上がっていった。直は重い荷物を腕の中に置いていかれたように自分の体重がずっしりと重くなるのを感じた。胸の奥がずきりと痛み、ナスノさんと樹の家で過ごした半日分の喜びがその一言ですべて帳消しにされたように思えた。
あと三十分で一日が終わろうとしていた。直は風呂には入らずに服を脱いで下着だけになると自分の部屋で肌掛けをかけて横になった。自分の部屋と言っても何にも使われていない部屋がそこにひとつ余っているというだけで、机や椅子もなければ布団もなかった。部屋の隅には釣り道具とスノーボードとゴルフセットと、水槽や濾過器やボンベなどがまるで浜辺に打ち捨てられた廃棄物のように置きっぱなしになっていた。いずれも数年前まで裕二が使っていたものだ。白い埃をかぶったそれらはそれほど昔のものではないはずなのにやけに古ぼけて見えた。
直はそれを見るたび、太古の生物の、巨大な白い骨を思い浮かべる。恐竜かマンモスか、なんでもいいがその類のようなものだ。その骨はそれだけであるひとつの生物のようにも感じられた。しかしその骨は肉としても死に、骨としてもすでに死んでいた。呼吸をして動き回ることは二度とない。それでいて頭骨に空いた大きなふたつの眼窩や歯やあばらの一本一本には、今は忘れ去られてしまった遠い時代の記憶がはっきりと刻みこまれていた。父親が過去に好んで使っていた数々の品物を見ていると、そういった骨がいくつも部屋の隅に積み上げられ、こちらに向かって何かを訴えかけようとしているような、そんな気がしてくるのだ。そしてそういう時、部屋の隅からいつもかたかたと何かが震える音が聞こえてくる。
しかしそれもそんな気がするだけのことだった。
空気の澄んだ静かな夜だ。遠くの試験場から、悲しげな牛の鳴き声が時折かすかに聞こえてくる。
天井を見上げながら直は一日をふり返った。なつかしいにおいのする駄菓子売り場や、広々として見えた座敷や、古い食器と使い込まれた調理器具で溢れかえった台所。それらは夢で見た場所のように記憶の中で滲んだ光を放ちながら輝いていた。樹の声と広い背中を思い出す。ギターの音色や、ナスノさんの手料理から立ち上る湯気、畳から香るイグサのにおい、パイナップルの甘い蜜。
ひとつひとつを指で辿るように思い出していくうちに、胸のあたりが苦しくなった。息をするのを忘れていたのだ。考え事や空想をしているとき、直は呼吸やまばたきを忘れることがよくある。
直は枕元に置いた服に手を伸ばし、ポケットから象の消しゴムを取り出した。イチゴの香りを胸いっぱいに吸い込むと、心に穏やかな安心感が広がっていった。消しゴムを手のひらに握りしめたまま肌掛けを口もとに引き寄せ、目を閉じ、直は深く安全な眠りの中へと潜っていった。それが昨夜のことだった。
風呂から出て髪を乾かし、制服に着替えて学校へ行く支度を済ませた。昨夜はよく眠れたようで、風呂からあがる頃には掃除機で塵をきれいに吸い取ったみたいにずいぶん頭の中がさっぱりとしていた。
玄関で忘れ物がないか確認しているところへ、二階から裕二が降りてきた。酒くさいにおいに眉をしかめそうになり、直は息を止めてこらえた。
裕二は傍に立ち、視界の端から黙ったまま見つめてくる。夕べのように何か嫌味でも言われるのではないかと思うと緊張で胸の奥がずきずきと痛みだしたが、直は何食わぬ顔で手提げの中を探る素振りを見せていた。
「可愛いなあ」
かすれた声で裕二はそう言った。直は驚いてはじかれたように顔をあげた。
「お前は、本当に可愛いよ」
裕二は目尻を垂らし、愛しくてたまらないといった微笑みをうかべていた。そして微笑んだまま、「なあ?」と言って、何かを促した。
何を言わせたいのか、どうしてほしいのか、直はあれこれと考えを巡らせた。緊張で脇の下から汗が吹き出すのを感じ、冷たい棒をすっと差し込まれたように頭の芯が冷たくなった。どうしたらいいのかわからない。それでも直はふと思った。父さんは「可愛いなあ」という言葉を、ただ俺に「うん」と言って受け入れてほしいだけなのかもしれない。「うん」と言えば父さんは満足するのかもしれない。きっとそうにちがいないと直は確信した。けれど、そうとわかっていてもどうしてもその言葉を受け入れたくなかった。
父さんは俺を樹やほかの誰とも関わらせず自分だけのものにしておきたいだけなのだ。きっと今朝になって夕べのやり方を思い直したりしたのだろう。だからこんなふうに突然愛しんでいる素振りを見せたりするのだ。でも本当に愛しているわけじゃない。自分と同じ側にいる人間を失うのが怖いだけなのだ。
わかりたくもないことが怒涛のように押し寄せて、一瞬それをまともに全身にくらったような気分になった。しかし直はそれをどうにかぽんと自分の後ろのほうへと、バレーボールのように投げやった。
「その目、やめてよ」
勇気を振りしぼってそう言うと、裕二の微笑みは一瞬で消えうせた。太く筋張った腕が怒りでぶるぶると震え、筋肉の振動する音が聞こえてきた。直は逃げるようにその場から離れて靴を履きにいった。裕二は何も言わなかった。ただ力任せに足を踏みしめながら二階へと上がっていった。
靴ひもを結ぶのに手間取っていると、突然外で何かが割れる音がした。嫌な予感がして直は慌てて外に飛び出した。道路で硝子の灰皿が割れ、大きな破片が砕けた氷のように飛び散っていた。
上を見上げると二階の窓から裕二の姿が見えた。今度はグラスを放り投げようとしているところだった。裕二は不機嫌な子供のように口を歪ませ、腕を振りあげて地面にグラスを打ちつけた。止める間もない。直は咄嗟に顔をかばった。グラスは大きな音とともに粉々になってあたりに飛び散った。
「何するんだよ!」
直は叫んだが、かまわず裕二は鏡や時計を次々と外に放り投げた。周辺の家々から数人が不安そうに顔をのぞかせはじめた。直は二階へ駆けあがり、窓辺に立つ裕二の腕にすがりついて、やめてよ、と叫んだ。
「お前は冷たい人間だ」
裕二は直を静かに見下ろしてそう言った。ふたたび頭の芯が冷えていくのを感じ、直は首を横に振った。
「ちがう」
「お前は冷たい」
それは自分に言い聞かせているような言い方でもあった。ちがう、と直はもう一度つぶやいた。
「どうしていつも俺を傷つけるんだ」
そう言って、裕二は身体を前後左右にゆらゆらと傾かせながらじっと見つめてきた。直には目の前で大きな黒い煙が揺らいでいるように見えた。
「俺が悪いの?」
と直はきいた。裕二は何もこたえなかった。
窓から下を見下ろすと、地面に打ちつけられて粉々に壊れた物たちが死体のように転がっていた。可哀想だと直は思った。そして灰皿や食器や鏡や時計たちが、まるでこうなったのはお前のせいだとでも言いたげにを恨めしい目でこっちを睨んでいるような気がした。
直は箒と塵取りで壊れたものを片づけてから学校へ行った。学校へ着くころ、破片で切ったのか指先から血が出ていることに気がついた。大した量ではなかったが血を見ているといつものように不安になってきたので、直は保健室へ行き絆創膏をくださいと言った。
どこで切ったのかときかれ事情を話すと、「学校の敷地内で負った怪我でなければ絆創膏はあげられない」と、そっけなく言われた。