『体育教師を志す若者たちへ』後記編3 部活動の地域移行を考える②
前回から、4月に長野県のT町で開催された部活動の地域移行を考える学習会で私が講演した内容を書き始めました。
話の内容の柱は以下の通りです。
1、現在の部活動は教師の仕事ではないということの確認
2、戦後の日本、および長野県の地域スポーツ振興の歩み
3,昨年12月にスポーツ庁から出された「学校部活動及び新たな地域ク
ラブ活動のあり方に関する総合的なガイドライン」をどう読み解くか
4,長野県の先進的事例に学ぶ
5,T町ではどう進めるべきか
前回は1について書いたので、今回は「2、戦後日本、および長野県の地域スポーツ振興の歩み」です。
子どもたちが課外のスポーツ活動を地域で行っていく、その振興チャンスは長野県では戦後以下の7つがあったと思います。長野県ではとしたのは、長野で行われた国民体育大会、長野冬季オリンピック、そして2028年には2巡目の長野国体を開催することになっているからです。
(1)1964年 東京オリンピック
(2)1978年 長野国体
(3)1998年 長野冬季五輪オリンピック、パラリンピック
(4)2002年頃 地域総合型スポーツクラブ設立の動き
(学校五日制開始)
(5)2021年 東京オリンピック、パラリンピック
(6)2023年~ 今回の部活動地域移行開始の取り組み
(7)2028年 2巡目の長野国体
それでは(1)から順番に振り返っていきます。
(1)1964年の東京オリンピック
アジアで初めてオリンピック(以下五輪)が開催されるにあたり、五輪を迎える国として二つの画期的五輪運動がありました。一つは1961年の「スポーツ振興法」の成立です。次の条文が重要です。
第一条
この法律は、スポーツの振興に関する施策の基本を明らかにし、もつて
国民の心 身の健全な発達と明るく豊かな国民生活の形成に寄与することを
目的とする。
第三条
国及び地方公共団体は、スポーツの振興に関する施策の実施に当たって
は・・・、 国民があらゆる機会とあらゆる場所において自主的にその適性
及び健康状態に応じてスポーツを することができるような諸条件の整備に
努めなければならない。
また、第四条では、文部大臣が国のスポーツ振興に関する基本計画を策定すること、そして都道府県および市区町村の教育委員会は実情に即したスポーツの振興計画を定めることになりました。そのほか、以下の条文も重要です。
(青少年スポーツの振興) 第八条
国及び地方公共団体は、青少年スポーツの振興に関し特別の配慮をしな
ければならない。
(体育指導委員) 第十九条
市町村の教育委員会は、社会的信望があり、スポーツに関する深い関心
と理解 を持ち、及び次項に規定する職務を行うのに必要な熱意と能力を持
つ者の中から、体育指導委員を委嘱するものとする。
そして二つ目の画期的な出来事は、スポーツ振興の具体策として1962年に日本スポーツ少年団が発足したことです。現在のスポーツ少年団は1964年の東京大会の五輪運動の一環として発足したのだということを知らない国民は多いのではないでしょうか。スポーツ少年団の活動は競技志向の現在の他のクラブチームとはちょっと違った側面があることを私たちは理解しておく必要があります。現在のスポーツ少年団のHPを開くと以下のことが出てきます。
スポーツ少年団の活動は運動競技をするだけでなく、野外活動やレクリェーション活動、社会活動や文化活動もして人間づくりを目指していることが分かります。今回の学習会の後に参加者から、最近の保護者や子どもたちの中には競技だけ強くなりたい、そのほかの余計なことはしたくないという要望もあり、難しいという意見が出ました。部活動の地域移行を進めるにあたっても、スポーツや文化活動を通してどういう子どもたちに育てるのかという議論が不可欠になってくると思います。
1964年の東京五輪はこうした五輪運動を進めつつ、そして日本選手の競技成績も素晴らしく大成功に終わりました。しかし、その後が大事だったのです。岡邦行さんの著書『大島鎌吉の東京オリンピック』(東海教育研究所 2013年)にそのことが書かれています。大島鎌吉は1936年ベルリン五輪の三段跳び銅メダリスト、そして1964年の東京大会では選手強化対策本部長を務め、IOC委員にもなった人でした。大島はこの東京大会を「日本のスポーツ元年」と位置づけ、大会を終えると「みんなのスポーツ推進」「スポーツを通しての平和運動」を進めようといよいよ意気盛んに奔走しはじめました。ところが「宴の後」、大会関係者は大成功に終わった大会に酔いしれているだけで、その後の国民スポーツ振興政策に取り組もうとしませんでした。大島の嘆きが始まります。そのことを裏付けるように、現在でもスポーツ少年団の指導者はほとんどがボランティアのままです。
(2)1978年、長野国体の開催
私はこの時大学3年生。「後記編1」で書いたように長野国体の選手として陸上競技棒高跳に参加しています。
思い出深い大会でした。今から6年前に91歳でなくなった私の母は、私のために長野国体当時の信濃毎日新聞の記事をスクラップブックにして残してくれていました。当時の私は競技のことしか関心がなかったのですが、「長野方式」という言葉だけは記憶に残っていました。そこでこの機会に書棚のしまい込んだままになっていたスクラップブックを開き、「長野方式」とは何だったのか、当時の記事の中から探してみました。
するとそのことが書いてありました。この頃他県で開催されていた国体には「ジプシー選手」というのがいて、開催県に就職して活躍する。しかし大会を終えると他県へ行ってしまう。だから開催県はその年は総合優勝するが、数年たつともう競技力はどんどん低下していってしまう。長野ではそんな意味のない国体にはしないのだと「ジプシー選手」は採らず、国体を契機に県民挙げてスポーツ振興を進めていこうと考えたのが「長野方式」だったのです。
開催を終えての総括の記事がいくつか目にとまりました。国体開催期間に50万人もの長野県民が競技会場を訪れていました。これは200万県民の4人に1人が観戦・応援に行っているということになる。各競技会場では、他県から来た国体のことをよく知っている競技役員たちから、動員ではない観客の多さに驚きの声があがっていたという。「やまびこ国体の決算」という記事には「スポーツ元年」の言葉も使われていました。まさに1964年の東京五輪で大島鎌吉が使った「スポーツ元年」と同じ位置づけを長野でもやろうとしていたのです。また、大会を終えての社説も残されていました。そこには長野国体を契機に今後県民のスポーツ振興をどうはかっていくべきかが述べられていました。
その後私は大学院を出て、長野県S町の中学校に赴任しました。そこで体験したことが「長野方式」の遺産でした。S町議会では長野国体の前年、1977年に「S町スポーツ都市宣言」を議決していました。そして私が赴任した頃に新たに町民体育館ができました。私は町の体育指導委員も仰せつかり、地域スポーツ振興の姿を目の当たりにしました。ちょうど1975年から始まった派遣社会教育主事(スポーツ担当)制度により、私が赴任した頃のS町にもその主事が派遣されてきました。どういう形で派遣されてきたかというと、その主事(K先生)は私たちと同じS中学校に在籍する体育教師として来たのです。S中学校は1学年4クラス程度だったので体育教師は私も含めて2人でしたが、K先生が赴任してからの3年間は体育教師が3人になりました。これは心強いことです。しかし、彼は体育の授業はしません。いつも町民体育館にいて、社会体育振興に関わる仕事をしているのです。
それがどう心強かったのか。S中学では体育館で活動する部として、男女バレー部、男女バスケ部の4つがありました。中学校の体育館で活動するには狭すぎます。そこで新しく町民体育館ができたので、平日の放課後は二つの部が町民体育館へ行って活動することになりました。しかし平日の放課後の先生方は忙しく、顧問はすぐには町民体育館へ行けません。そんな時には町民体育館へ電話します。「K先生、ちょっと忙しくて部活を見に行けそうにないので、お願いできますか?」。K先生はいつも快諾してくれていました。この時間帯は働いている社会人はまだ仕事中で町民体育館の利用者は少なく、K先生は比較的余裕のある時間帯でした。体育教師なのでバレーでもバスケットでも何でも指導できます。休日に町民体育館へ遊びにくる中学生に対しても、地域目線で中学生の生活面まで指導をしてくださり、とても有り難い存在でした。体育・スポーツの指導ができる職員が中学校に1人増えるだけでこんなにも子どもたちの課外スポーツが充実する。そんな体験ができました。行政が動けばできるのです。
③1998年 長野冬季五輪の開催
『体育教師を志す若者たちへ』の第3章「体育理論編」で書いたように、私は五輪の歴史と精神を生徒たちに学ばせ、その観点から現在の五輪について実際に見て検証させる学習活動を仕組みました。そして学んだ五輪運動を生徒たち自身の運動生活にも生かすべく、五輪精神で運動部活動に取り組もうとか、第7章「部活動と生徒会」で書いたように生徒会体育委員会の活動として日々のスポーツ活動を充実させる取り組みをしました。
1998年長野冬季五輪は平和と国際親善という面では大きな成果がありました。開会式では地雷禁止運動家のクリス・ムーンさんが会場への聖火ランナーを務め、子どもたちが彼を迎えました。ちょうど大会の2年前、1996年にカナダのオタワで対人地雷禁止の国際会議があり、1997年に地雷禁止の国際条約ができました。そして1998年2月の長野冬季五輪では地雷廃絶が大きく取り上げられ、その年の9月には日本の国会で地雷禁止条約が承認されて、翌年から発効されています。私は当時の「NAGANO PEACE APPEAL」を大事にとってありました。以下を是非読んでみて下さい。
ついでに後に述べる2020東京大会に関わってこれに関連したことに触れておきたいと思います。核兵器禁止の国際条約が2017年に国連で採択され、2020年に発効に必要な50カ国の批准に達し、2021年に発効しました。この流れでいけば長野五輪の地雷禁止運動に倣い、2020東京大会では核兵器禁止の運動を提起すべきでした。それができれば世界の核廃絶運動は大きく前進したはずです。ところが日本政府および東京都はそれに背を向け、コロナ禍で競技会だけを強行するという五輪運動のない最悪の大会にしてしまったのです。この「NAGANO PEACE APPEAL」の中の「地雷」を「核兵器」に、そして「長野」を「東京」に置き換えてみてください。このAPPEALがそのまま「TOKYO PEACE APPEAL」として使えたはずです。しかし残念ながら東京大会ではピースアピール自体を目にすることがありませんでした。
長野冬季五輪には北朝鮮の選手も参加していました。そして2年後の2000年シドニー夏季大会の開会式では朝鮮半島統一旗を掲げての南北合同行進が初めて実現しています。そして2020東京大会に向けては当初南北合同チームでの競技参加も構想されていたのです。今の世界情勢からは考えられないような前進でした。
長野では一校一国運動が話題になりました。こうした国際交流、平和運動という観点からは大きく前進した大会になりましたが、ひとつだけ残念なことがありました。それは子どもたちや市民の日々のスポーツ活動に対する五輪運動としての取り組みが全くなかったことです。私と学校体育研究同志会長野支部では、1964年の東京大会の際のスポーツ振興法やスポーツ少年団の発足のような五輪運動を長野でもすべきと、集会を開催したり情報発信の取り組みを進めました。しかし集会を開催しても参加者は極めて少なく、大会組織委員会や教育界からは全く相手にされませんでした。五輪運動とはどういうものかという発想が教育界には全くなかったのです。各学校も上から指示された「一校一国運動」に取り組むのが精一杯のようでした。1964年東京大会の大島鎌吉の「宴の後」の嘆きがここまで引きずられてきていたという感じです。大会組織委員会は「子どもたちの参加」をアピールしながら、子どもたちの日々のスポーツ活動へは全く目を向けない大会で終わりにしてしまいました。
だいぶ長くなってしまったので、今回はここまでにします。
次回は④総合型地域スポーツクラブ設立の動きへ、いよいよ現在の地域移行のあり方に直接関わる課題を検証していきます。
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