米軍テストによる四式戦闘機「疾風」の最高速度687kmは推定値ではなく実測値であると考えられる理由


米軍テストによる四式戦闘機「疾風」の最高速度687kmは推定値ではなく実測値であると考えられる理由
皆さんご存じの通り、米軍は1945年1月頃に疾風甲型をフィリピンで鹵獲し、その機体の最高速度をWEP(戦闘時に短時間だけ許される緊急出力運転)で687kmであると評価しました。この数値は戦後1946年11月の作成されたT-2 reportという資料に載っており、最高速度が載っているページに”FACTUAL DATA”=実測値であると書かれている事からこの数値は実測値であると考えられて来ました。その一方で全く同じ数値が戦時中の1945年3月に掲載された日本軍機のスペックをまとめた資料であるTAIC manualにも載っており、さらにこの資料の冒頭でこの資料に載っている性能データは「特に記述がない限り推定値である」であると書かれている事から、この687kmは実測値ではなくTAICが入手した日本側の資料に基づく推定値ではないかという意見が近年ネット上で見られるようになってきました。最近は日本語版Wikipediaにもこの事が記載されています。果たしてこのTAIC manualの数値は推定値なのでしょうか。それとも実測値なのでしょうか。
 
そもそも速度が推定値であるならば2速全開高度以上ではMilitaryとWEPの線は別々にならない
では実際に疾風がフィリピンで鹵獲されてから数か月後に更新されたTAIC manualの速度グラフを見てみましょう。このグラフで687 km/h (427マイル)の数値が初めて登場しました。このグラフを見るとMilitary(30分間持続可能な公称出力での運転)の全開高度である23,000フィート以上の高度でMilitaryとWEPの線が2本に分かれています。

TAIC manual の疾風の速度グラフ(1945年3月 更新)

いきなり結論になってしまいますが、そもそもこの時点でこれが推定値だとすると矛盾が生じるのです。何故かと言うと誉エンジンはMilitary運転とWEP運転ではエンジンの回転数は同じであるため(※1)、Military運転時の過給機2速での全開高度以上ではMilitaryとWEPの運転条件は同じになるはずで、推定値であるならばMilitaryとWEPの線は23000フィートで1本に統合されるはずだからです(※2)。実際に同じ誉搭載機であり性能が推定値である事が分かっている紫電と彩雲(※3)のグラフはそのようになっています(下図)。

紫電(左)と彩雲(右)の速度チャート。どちらもMilitary2速の全開高度である20,000フィート以上でMilitaryとWEPの線が重なっている。

またこのグラフが掲載された時期の日本では離陸時以外でのWEP運転は許可されていないため、そもそも推定するための日本側データがありません。また仮にMilitary運転に一定の掛値を掛けて速度を推定したのだとするとWEP速度がMilitary速度を下回るのは奇妙です。疾風の速度グラフが推定値である唯一考えられるシナリオは米軍が鹵獲した機体から取り外した誉エンジンをベンチテストして馬力を出していた場合です。この際TAICがMilitaryは2900 rpm, WEPは3000 rpmであると考えテストを行った所、高高度の条件では何故か3000 rpmの方が出力がる結果となり、そのデータをそのまま速度に換算した場合です。果たして米軍はこのような事をしたのでしょうか。もしこれが行われた場合、得られた馬力データは疾風だけでなく、同じ時期に新たに追加された紫電と彩雲の速度チャートにも使われたと考えるのが自然なので3機種の全開高度は一致するはずです。では全開高度を比較してみましょう。
 
 
 
 
紫電と彩雲は同一の馬力データセットから速力を推定していた
疾風、紫電、彩雲の速度チャートを一列に並べてみました。

TAIC manualの速度チャート。疾風(左)、紫電(中)、彩雲(右)

紫電と彩雲は全開高度が一致していますね。しかしながら疾風は一か所も一致していません。この事から紫電・彩雲と疾風の速度は情報源が違う事が分かります。上記のベンチテストシナリオも可能性は低そうです。因みに紫電と彩雲は全開高度はピッタリ一致していましたが、馬力の数値も同じだったのでしょうか。実は速度からエンジン馬力を算出する近似式があるのでこれを用いて馬力を逆算して行きましょう。
 この式は速度とエンジン馬力・大気密度比の関係を示すもので、詳しくはいつも勉強させて頂いている「WW2航空機の性能:WarbirdPerformanceBlog」様のサイトで解説されています。
(https://warbirdperformance.livedoor.blog/archives/6845158.html)
ここで紹介されている式を使い紫電と彩雲の馬力を逆算してみましょう。式は以下の様に書かれます。
(式1)速度^3(knot) = 8813 x プロペラ効率 / 抵抗係数 / 翼面積(m^2) x大気密度(地表) / 大気密度(飛行高度) x 馬力(hp)
プロペラ効率、抵抗係数、翼面積は速度や高度によって変化しない定数と見なせるので、ここでは変数Uに置き換えます。Uは飛行機の速度の出やすさを示す機体固有の係数のようなものだと思って下さい。
(式2)U= 8813 x プロペラ効率 / 抵抗係数 / 翼面積(m^2)
Uを式1に代入します。
(式3)速度^3(knot) = U x大気密度(地表) / 大気密度(飛行高度) x 馬力(hp)
馬力を求めるため、式を変形します。
(式4)馬力(hp) = 速度^3(knot) x 大気密度(飛行高度) / 大気密度(地表) / U
米軍は航空機の性能を国際標準大気(ISA)で飛んだと仮定して出し得る速度に変換した上で公式の性能としており、紫電や彩雲の計算でもISAの大気密度を使っていると思われるのでISAの公式(※4)を使って各高度の大気圧を算出します。

速度はTAICチャートから以下のように読めました。


これらの数値を式4に代入することで馬力を出します。米軍がどのようなU値を使ったのか不明なので馬力の絶対値を出すことは出来ませんが、今回は紫電と彩雲のデータが同じかどうか調べられれば良いので、各高度でのエンジン馬力の相対値が紫電と彩雲で一致するか否かを見るだけで十分なのです。数値を見やすくするため、最大出力であるWEP - 2500ft での馬力を1とし、各高度の馬力の比を出します。


比率が一番右の列のようになりますた。では同じ計算を彩雲にもしてみましょう。彩雲の馬力比率が紫電と一致すれば両機の推定に使用した馬力データは同一のものであると証明できます。

紫電の値に近そうです。
両者を並べて比較してみましょう。

全ての高度と運転条件で誤差は2%以内となり、エンジン馬力比は非常によく一致しています。誤差が0%にならないのはグラフからの数値の読み取り誤差や有効数字の桁数、当時は電卓もないので大気密度など難しい計算は早見表を使ったと思われるのでそこからくる誤差などによるものだと思われます。馬力比率をグラフにすると以下のような感じです。

以上の事からTAICは何らかの方法でエンジン馬力データを用意して、ここで使った様な近似式を用い、日本人捕虜や連合軍パイロットの証言と速力が合うように変数Uを調整して紫電と彩雲の速度チャートを作成したのだろうという事が分かりました。
 紫電と彩雲のグラフがどのように作られたが分かったところで疾風の話に戻りましょう。疾風の速度が推定値ではなさそうだと言う事は分かりました。では実測値だとするとなぜWEP速度はMilitaryより遅くなってしまったのでしょうか。航空機の速度を測定する場合、地上から正確に観測したとしても必ず風により誤差が生じます。またMilitaryとWEP運転を別々の日に行ったとしたら大気の気温や湿度も影響するでしょう。測定回数を増やせばこのような誤差は相殺できますが、貴重な鹵獲機のエンジンを壊さないため、測定は必要最低限のみ行われた可能性が高いので、それで大きな誤差が残ったままになってしまったのかもしれません。
 ではTAIC Manualの冒頭の「特にコメントがない限りデータは全て推定値」という記述はどうでしょうか。これに関してはTAIC Manualの冒頭の文章は疾風の427マイルの数値が載っているページが追加された3か月前に書かれたものなので、単に新たにページを追加した人が冒頭の文を忘れただけの可能性もあります。少なくともT-2 reportのようにデータの直前に推定値か否かが書かれている訳ではないので、これだけをもってこの疾風のデータが推定値であると断定することはできないと思われます。
680km/h代の速度は疾風にとってそこまで非現実的な数値ではない
 疾風の米軍実測値が疑われるもう一つの理由として日本側で計測された速度との隔たりが挙げられます。日本側資料で代表的な速度記録は岩橋少佐が出した624 km/h (6550 m)ですが、これは米側記録である686 km/h (7010 m)よりも62 km/h も遅い値く、環境の違いでここまで速度が変わるのはおかしいと言う意見です。しかし米軍が試験した機体は量産機であり岩橋少佐がテストした試作機4号機とは仕様が異なり、そもそもこの2機を比較する事が不適切です。試作機4号機ではハ45特と呼ばれる誉11型とほぼ同型のエンジンを使用していた可能性が高いと言われており、これは量産機に搭載されたハ45-21型より過給機の回転数が低く、全開高度も低めになっています。また試作4号機では空気抵抗を減少させる効果のある推力式単排気管は装備されておらず、またプロペラ直径も短いなどエンジン以外にも多くの違いがありますが残念ながら量産機仕様の機体がどのくらい速度が出たかを詳細に示す日本側資料が残っていないのです。そこで、ここでは前述した速度の近似式を使ってもしハ45-21がカタログスペック通りの出力を出した場合、疾風の量産機でどの位のスピードが出ると予想されるのかをここで計算してみましょう。
(式3)速度^3(knot) = U x大気密度(地表) / 大気密度(飛行高度) x 馬力(hp)
前出の式に岩橋少佐のテスト結果と誉11型の2速全開高度での馬力(1460 hp)を代入すると
U = 1.5053787という値を得ました。
次にこのU値を用いて量産型の速度を推定しましょう。まずはMilitaryの2速全開高度についてです。米軍試験では7010 mでMilitary運転の全開高度に達したのでこの高度で誉21型の2速公称馬力のカタログ値である1675馬力を発揮したとすると、速度は式3から665 km/hと出ました。推力式単排気管を装備する事で15km/h程度速くなったとの証言(※5)があるのでそれを加えると速度は680 km/hに達します。TAIC試験ではMilitaryで685km/hとなっているのでまだ5km/hほど足りませんが、量産型ではプロペラ直径が5cm増大されている事、米軍試験では良質な燃料やオイルが使用されていた事など考慮すると685km/hはそこまで非現実的ではない事が分かります。また仮に試作4号機のエンジンが誉12型相当のものであったとしても速度は674 km/hとなり11km/h程度の差に収まります。
次は海面高度の計算もしてみましょう。こちらは高度が変わらないので計算は簡単です。まず岩橋少佐のテストでは海面速度がないのでグラフから割り出します。


岩橋少佐の疾風試作4号機での試験結果

523 km/hと読めます。まずはエンジン換装による速度変化を計算します。誉11型の離昇出力は1780 hp, 誉21型は1970 hpなので計算は以下の通りです。
(式4) 馬力 = (1860/1650)^(1/3)*523 = 544 km/h
これに推力式単排気管の効果を足すと559 km/hとなりTAICの数値である563km/hと4 km/hしか違わない事が分かります。
以上の事から疾風の日本側と米側の速度差は試作機と量産機の違いを考慮すれば十分説明できることが分かりました。また岩橋少佐が出した試作機での624 km/hという数値は疾風の設計速度である658 km/hを上回る好成績であり、当時の人々がこの数値を見てなぜキ84に大きな期待を抱いたのかもよく分かります。


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※1 米軍の1946年のライトフィールでのレポートでは誉エンジンの運転条件はMilitaryとWEPともに回転数は3000 rpmとある。なおブースト圧はMilitaryで43.7インチ=350 mmHg, WEPで49.6インチ=500 mmHg。
 
※2 高度の変化と運転条件
なぜ2本にならないかをエンジンの仕組みから説明します。エンジンは空気中の酸素とガソリンの混合気を燃焼させて運動エネルギーを得ますが、エンジンには最大のパフォーマンスを発揮する空気圧があり、ハ45の場合はそれが350-500 mmHg (1.46-1.66気圧)辺りであり、これより少ないと出力が減少し、高すぎると異常燃焼(ノッキング)が起きエンジントラブルの原因になります。理想的な空気圧を実現するためにエンジンには過給器が備えられていますが、疾風のハ45エンジンでは、過給器はエンジンのクランクシャフトにギアを介して直結され、ギア比は2段階に変更できました。航空機のエンジンの最大出力時の回転数は一定なので過給器の出力も実質2段階しかありません。しかし空気密度は高度が上がるにつれ連続的に低下するので理想の空気圧を維持するためにスロットルバルブを程よく閉じて過給機と組み合わせる事でちょうど良い空気圧を作っていました。具体的にどうしていたかについて、下の図を見ながら説明します。なおここではブースト圧はMilitaryで350mmHg, WEPで500mmHg、エンジン回転数は共に3000rpmとします。

①    ここではWEP運転で上昇すると仮定して話をします。高度0mでは過給機は1速でも加給圧(過給機を出た後の空気圧)が高すぎるため、スロットルバルブ(スロットル操作で開き具合が変わる)を閉じ気味にして500 mmHg にします。
②    飛行機が上昇すると気圧の減少により何もしないと加給圧が徐々に減少していきます。これを防ぐために操縦者はスロットルレバーを少しずつ開いて500mmHgを維持します。
③    スロットルを全開まで開いて加給圧がちょうど500mmHgになる高度です。この高度が「全開高度」と呼ばれる高度です。
④    1速全開高度を超えると加給圧が徐々に下がり、500mmHgを下回ります。一見過給機を2速にすれば良いのではなかと思うかもしれませんが、2速は1速より馬力を食うので1速を維持します。
⑤    過給機2速の損益分岐点です。ここで2速に切り替えます。
⑥    WEP運転での2速のスロットル全開高度です。スロットルを全開にしてちょうど500mmHgです。これより上空では加給圧を維持する事が出来ず徐々に下がっていきます。
⑦    高度が上がり、加給圧が350 mmHgになってしまいました。Militaryではここが全開高度と言う事になります。ここから先はWEPもMilitaryも同一の運転条件です。
⑧    高度が上がり、加給圧が下がっていきます。飛行機が上昇できないくらい出力が落ちる高度がその飛行機の上昇限度となります。
 
※3 紫電は疾風と同時期にフィリピンで鹵獲され、試験飛行もされたが、最高速度の試験前に横風着陸で失敗し機体を破損してしまい、それ以降飛行が不可能になった (Air enthusiast April 1973, p. 178)。彩雲は戦時中に米軍に鹵獲されていない。
 
※4 国際標準大気は以下の式より導きます(地表15度、101325パスカル)。
(式)P0 x M / R / T0 x (1 - (高度(m) x L / T0 )) ^ (G x M / R / L - 1)
P0 = 101325 (地表大気圧,Pa)
M = 0.0289652 (大気組成密度, kg/mol)
R = 8.31446 (モル気体定数, J/Kmol)
T0 = 273.15+15 (地表温度, K)
G = 9.80665 (重力加速度, m/s2^2)
L = 0.0065 (1m上昇する事による温度変化, K/m)
 
※5 航空ファン1961年7月号 P.72 吉沢鶴寿氏のインタビュー

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