松本麗華著「止まった時計」を読み終えて
遅まきながら松本麗華氏の「止まった時計」(文庫版)を読み終えた。
オウムに関する一連の事件について、わたしはごくありふれたテレビ・マスコミからの情報しか持っていなかった。
例え死刑が廃止になろうと、麻原だけは死刑にすべきだ、と思っていた一般人に過ぎない。
ただ、松本次女、三女のツイッターで彼女たちの意見を目にするようになり、オウムの内側、所謂加害者家族の意見を目にするようになり、少々この事件に対しての姿勢が変わった。
そして「オウム事件真相究明の会」なるものが発足し、少し別の角度からこの事件を考えてみたいと思い松本麗華氏の著書を手に取ってみたのである。
しかし、この本を読み終える前に麻原は死刑に処された。
この事件を追い続けている有名なジャーナリスト、森達也氏と江川紹子氏の意見は相反している。
江川氏はこの事件に対して莫大な時間を割いており、記事を読む限り、冷静で客観的な視点で書かれているように思える。
森氏の記事は若干私情が入って感情的な気がしないでもないが、自分には無い視点なので、とても興味深く今まで自分では考えられなかったことに気付かせてくれる。もちろん彼がいい加減なことを書いているとは思えない。どちらの意見もこの事件を知ろうとする際に、わたしにとってはとても有意義だ。
ただ、あまりにも相反する意見が多く、事件関係者にまったく関わりがなく、裁判記録を読み通せる時間もないわたしには、誰の意見が真相に近いのかさっぱり分からない。麻原氏の娘でも次女、三女と四女の言い分はまったく違う。
オウム関係者・ジャーナリストの声も、紙面や画面を通してでは、わたしのような凡人には、どれが(誰が)正しくて、何を信じていいのやら、混乱するだけなのだ。
オウム関連の書物は数多出版されているが、どれも読んだことのないわたしに、この事件について語る資格など到底無く、麻原死刑に関して何かものを申すなど、大変おこがましいと思っている。
そんな気持ちを抱きながら、麗華氏の著書を読んだ。
これは決して憐憫の情を誘うことが目的なんかではなく、壮絶な心情吐露だと思う。
赤裸々に自身の胸の内を明かし、その後の判断は読者に委ねる、というなんと勇敢な行為なのだろう、と思った。
多少の拙さはあるとはいえ、出来るだけ客観的にオウム内部を描き、説明し、この事件を改めて考えるきっかけを与えてくれた。
麻原彰晃の娘に生まれた、というだけで、彼女がなぜこの事件の一切の罪を被り、責任を負わなければならないのか。彼女の平凡に暮らす権利を奪えるものはどこにもいないはずだ。
生まれたときからオウムの環境に浸り、社会と隔絶されて育った彼女が、よくぞここまで社会との関わりを持つに至り、自分らしく生きようと前に進めたのか…彼女に対して尊敬の念を持たざるを得ない。
著書の中に多少の拙さがあろうと、父親への愛情を示そうと、それすら許されない世の中だとしたら、誰が(何が)彼女を救えるのか。
この本から真相は究明出来ない。もちろんそれが目的で書かれているわけではないと思う。ただ一方的なバイアスがかかった報道を鵜呑みにし、オウムを絶対悪と見做していた自身を省みる必要はあると思う。
この本を読み終えて、麻原はいい人だとわかったから死刑は免れるべきだった、とまでは思わない。ただ、本人の口から何も語られないまま刑が執行されてしまったことに関しては、何か釈然としない思いだけは残った。
そして、身を削る思いをしながら執筆された彼女に対して、今後より一層寄り添える相手、そして彼女の居場所が見つかることを望まずにはいられない思いがした。
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