世界のはじまり
想像して見てほしい。例えば、自分が最も心の拠り所としていて、「いつまでも永遠に続いて欲しい」と思ったものがある日突然この世から消えてしまったとしたら。
映画、「ショップリフターズ・オブ・ザ・ワールド」を見た。
1980年代にイギリスに現れたバンド、「ザ・スミス」が解散するとニュースで知ったアメリカ、デンバーの若者たちの一夜を追いかけた青春音楽映画だ。
登場する人物それぞれが、自分自身の葛藤や、物足りなさをスミスの歌詞に向けていく。
自分のアイデンティティの全てが、そのバンドの中にあるように。
精神的な柱というものは、人それぞれ持っているのだろうなって思う。
親かもしれないし、恋人かもしれないし、思い出の本かもしれないし、映画の中の彼ら、彼女たちのように音楽、バンドかもしれないし、自分が想像する理想の自分かもしれない。
ある日、なくなった時にどう過ごせばいいのか、考えてみた。
なんとなく、探し出してしまう旅に出てみたり、インターネットで知らない人に必要以上に声をかけてしまったり、自分を見失いながら、まるで空に向かって銃を放つかのように手当たり次第に何を掴めばいいのかわからないまま、ただ、手を伸ばし続けてしまうこともあるかもしれない。
それは依存なのだろうか。答えはイエス。そしてノー。
相手が「もう勘弁してください」っていうくらいに乗り掛かってしまったのであれば、それはイエス。受け止めてくれたらノー。多分。
2000年の12月のある夜、大学の同級生や先輩と、夜中に車で武蔵野の街を走りながら、weezerやASH、oasisを聴いていた。
携帯電話に着信が入り、何事かと出てみると、「サニーデイ・サービスが解散したって!」との一言。友達がライブか何かで聴いたらしい。
いつでも見れるだろうねって思いながら遊び呆けていた僕たちには寝耳に水で、でもどうすることもなく車の窓を開けて、スロウライダーをカーステから流してみんなで歌った。
最後のライブのリキッドルームはチケットがなくって見ることができなかった。
あの長い階段を誰もいない中友達を登っていき、閉じられた扉の前でたくさんの落書きの中に、サニーデイ・サービスの3人のイラストの落書きがあって「ようこそ」って書いてあったのを見つけた。
真夜中のクラブイベントに遊びに行った時にはなかったので、誰かが落書きしたのだろうって思いながら、終わっちゃったね。って言いながらラーメンを食べて、ディスクユニオンでレコードを買って、明大前駅で降りてなんとなくコーヒーを飲みながら下北まで歩いた。
京王線はいつも通り走っていた。
大好きなバンドがなくなっちゃったのに、バイトはあって、恋人はいて、学校はそのまま授業があって、友達とふらふらする日常は何も変わらなかった。ただ、新作がもう聴けないかもしれないねってくらいだった。
笑っちゃったよ。
「ずっとあるよね」は多分、ない。大切な人はいつかこの世からいなくなるし、会社はなくなるかもしれないし、大事にしていたものは壊れてしまうかもしれない。毎日のように触っているスマートフォンもある日故障するし、サブスクで見ることができた映画もいつの間にかラインナップから消えているかもしれない。
僕たちは、他人の決断には、きっと、無力だ。なぜなら、自分ではない人が決めたことだからだ。そこをどうこういうことはできない。
だって、もう決まっているのだから。
無理して、新しい生活を探していくことは案外、しんどくて難しい。仕事が終わり、定年後に趣味を探す辛さはすでに想像できている。
その時、何ができるのだろう。
長嶋有 / ルーティンズという本を読んだ。
2020年、世界に突如として覆い被さったパンデミックの中で、作家と漫画家夫婦と2歳の娘の暮らしを日記ふうに書き綴った本。
仕事はリモートになり、保育園は閉鎖されても、家族の会話や関係性は変わらなかった。
それは日常だった。
多分、そんなに変わるものではないのかもしれなくて、じゃあ身近なものを見つめ直すことが素敵かと言われればそうでもなくて、案外、普通に生きている人は生きている。
生活やライフライン、インフラは止まるかもしれないけれど、生きることってパンデミックだろうが大好きなバンドがなくなろうが生活は止まらない。止められない。
好きな人やものが新しく見つかるかもしれないし。
まぁ大丈夫っしょ。って気持ち。
年末にかけて楽しみな約束がたくさんあるので、とりあえず寝るとする。