冒険の終わりと始まり。「タイミング」それはいつも8/31だった。
いつもそう。
8月31日というのは、2つの感情が入り混じる。
「翌日からの恍惚とした期待感」と、「夏の終わりの虚無感」。
正確には、夏休みが終わる残念感。
人生の残高なんて気にせずトライ&エラーばかりが許されながら、生きていた頃。夏休みは僕にとっては、「遊ぶもの」であると同時に、「深めるもの」だった。
毎日、朝4時から自転車で20kmほど離れた場所まで、釣りに出かけた。とにかく、同じことの繰り返し。最初は祖父と。
その後は、偶然見つけた釣り友達と。
同じポイントを毎日試行錯誤しながら、釣れるパターンを見つけるために、とにかく釣りまくった。
水もおまずに、4時から10時過ぎまで釣りまくって、限界がきたら最寄りのスーパーまでさらに自転車で30分走り込む。
それがその時知った限界。体力的な限界。
でも、気力は十分なので、夕方からはまた近所の川に釣りに行く。ただ、釣りをしていた。
いつまでもあると思っていた、時間。永遠の時間。
その頃思っていたのは「時間は永遠にあるもの。つまり、消費するもの。」
消費し続ける先に、ゴールがあるなんても考えもしない。
そんな時期の夏の終わりの気持ちを一言で!
「フザケンナよ!」でしかなかった。永遠の時間を突然ぶった切られる感じ。
夏休みは、寄り道ばかりする余裕があって、いつまでも余白だけが余ってた。
いつしか、8/31には、次の始まりを感じるようになった。
対して仲良くもない人との関係性は、あまりにも1月半の未交流は、長い。
忘れてしまってもおかしくないレベルだった。
そんな時、9/1には何かしら、状況が変わっていることがあった。
少し大人びていたり、家族で海外に行くなんて経験値を積んでいたり、何かしらの変化を身にまとっているクラスメイトがいたりした。
そんな月日を重ねているうちに、8/31の夜は、何だかノスタルジーに包まれると同時に、大晦日みたいな気分になった。
「明日からの自分はどう変わっているんだろう」とまで言えば、大げさだけど、夏休みに過ごしていた大きな余白の時間を意識的な時間に変えることにした。
そしてある日、「よりみち」は「経験」へと変わった。
1つ1つ、日記帳に書かれた出来事は、思い出になり、エピソードになり、経験になった。
9/1からの自分はどうなるんだろうっていう思いとともに。
今、あまり寄り道が許されない時間を過ごしているかもしれない。
行動は可視化して、数値化して、効率化して。
いつの間にかグレーな隙間が消えている。余った土地は有効活用。
余った時間についで作業。
そんな時、寄り道の場所がどこにあるのか、ふと考えてしまう。
第三の場所とか見つけたら、そこは自分にとって寄り道なのかもしれないけれど、ふとした瞬間に、そこも可視化する。
と、いうか、自分で勝手に可視化させているのかもしれないんだけど。
「最近、何か無駄遣いした?」そんな話題に友達となった。
僕はソフトバンクのペッパー君が欲しくて、見積もりをとって、「何してんだ!」といい歳して親に怒られた。
友達は、なんか知らないけど、お気に入りの石鹸をお店から買い占めて、友人にプレゼントしたらしい。
それ、無駄か?と考えてみたけど、僕は役に立たなそうなものと暮らす生活をイメージしてしまったし、友人は石鹸王子として、周囲から歓迎された。
ああ、無駄じゃないじゃんか。
と、夏の終わりにただこの文章を打ち込みながら、心の余裕について考えている時間こそが、余白なのかもね。
余談ですけど、タランティーノの新作、「Once Upon a Time in Hollywood」を見て来ました。
「センス!」この一言で片付けるにはあまりにももったいないけど、そうするしか自分にはできない語弊力!
あれは、ハッピーエンドだったんだろうか。きっと、歴史の中ではハッピーなのかもしれないけど、誰かが幸せになるのは、
裏側で誰かが泣いているのかもしれない。そう勝手に解釈しました。
60年代の名曲に溢れるサウンドトラックの素晴らしさと映画愛に乾杯。
純粋な感想、それは「ローリングストーンズかっこいい」。でした。
今夜もそんな文化を楽しめる場所に生きている自分に乾杯!
でも、このカセット聴きながらドライブしたかったよ。2019夏休み。