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才能とアートとの距離感について-映画「ビリー・アイリッシュ 世界は少しぼやけている」



17歳で世界的なポップスターになったビリー・アイリッシュのドキュメンタリー映画、「ビリー・アイリッシュ 世界は少しぼやけている」を見できた。


残念なことに中止になってしまった来日公演の期待を、ライブ映像で埋められたらいいな、という気持ちで、IMAX上映にした。

内容は、小さな頃から音楽制作を兄でプロデューサーを手がけ、共に楽曲を制作し、ステージにも立つフィニアスと、両親との郊外の住宅地での音楽に囲まれた生活から生まれた楽曲が、いつの間にか世界中に広がっていき、
至る所で熱狂を意味出していく過程を写し続けたもの。

会場入りする時には、歓声を上げながら自分の体験を一方的に伝えてくるたくさんの10代と思われる女の子たち。
その輪の中に飛び込んでいくビリー。そして、抱きしめてありがとうと言う彼女の姿。

いつの間にかその輪は、手が届かないコントロールが不能になりそうな規模になっていき、街中に、サブスクリプションサービスに、SNSの中に
自身の姿が溢れ出していく。そこで、さらに世界は彼女の存在を求めていく。

自由にやりたいことをさせながら彼女がスターダムに登っていく姿をサポートする両親と、表現を具現化していく兄とのこれは美しい家族愛の物語に見えるかもしれない。そこに映っているのは、家族の中に囲まれた1人の10代の歌の上手い女の子だから。

だけど、現実は案外残酷で、血がつながっていない周りの人たちは、必死に彼女の存在を「何者か」にしようとして、その姿をまるで自分たちが暴き出そうとしようとしていく。

きっと、彼女が作る音楽は、家族とのつながりを保ちながら、自分の存在と、家族との生活を確かめているものなのかなと思った。
だけど、そんなことはお構いなしに必要以上に言語化しようとする周囲の大人たちの姿は、まるで彼女の表現力と存在を利用して、自分自身が「どれだけ形容詞を持っているかの確認作業選手権」みたいだった。

少し辛かった。

家族に囲まれた世界と世間を繋ぐのは、兄弟で生み出した音楽であって、それは紛れもない事実。
そのクオリティは10年に1度どころではないことが圧倒的な偶然で、存在を単なる音楽ができる兄弟を超えさせてしまったけれど、
彼女は同世代のファンと接して、抱きしめる。

憧れのジャスティン・ビーバーの姿にときめいて、憧れの車のプレゼントに歓喜してはしゃいで、友達との時間に安心するビリーは、
「そのまんまの少女」だったりする。

だけど、自分の存在の証明かわからないけれど、ファンが求めれば全てに応えようとする。
そこまでしなくてもいいことを、背負っていく。

普段、「そこまで周りの人はあなたを見ていないから」と言われることがある。自意識過剰というやつだ。
それでも、自分の一つ一つの行動が原因で、世間との関係が断たれた時、目の前に映る世界が、どんどん霞んできて、
自分は1人なのではないかという錯覚に陥ることがある。

そんな時、必要以上に、過剰に相手に対していい顔をしてしまうこともあるかもしれない。
期待を背負うというのは、覚悟がいることだと言うのは簡単だけど、背負わされた時は覚悟とは違う。

そして、自意識の中に閉じ込められた時、僕たちはその世界との距離感を見失っていく。

結果として、よくわからないけれど、涙が止まらなくなった。

それはあまりに素敵なステージパフォーマンスもあるけれど、僕たちはこれからどれくらいの距離感で彼女の存在や表現に熱狂していくことが許されるんだろうと考えてしまったからだ。

bad guyでもみくちゃになりたい。それは本音。嘘じゃない。i love youをスマホのライトで照らしながら聴いてみたい。嘘じゃない。

でも、単に音楽を楽しむ以上の出来事になってしまう気がする。

途中、口をただ開けながら涙が止まらなくて、なんでだろうと考えていたんだけど、それは彼女が紡ぎ出す言葉や音楽はただの同じ世代の子たちが普段思っていることとほとんど変わらないことを口に出していて、自分ではたまたまその表現を手伝ってくれる兄弟がいなかった子たちが上手く言語化できないことを形にしてくれていて、安心できる人たちが素直にステージの彼女に向き合ってくれていたから。

残念ながら僕はいい歳になってしまっているので、その感覚を同じように享受する権利はないかもしれないけれど(そもそも同じように感じていたらそれはそれで少しまずい)、このタイミングで改めてビリーのドキュメンタリーが公開されると言うことは、きっと、彼女の世代の声を存在を通して世界に共有しながら、繊細な彼女自身との向き合い方、付き合い方を改めて考えながら、この才能を大切に見守っていくためのきっかけづくりなのではないかと思った。

自分が何かを作って、表現することはとても素晴らしいことで、1mmも悪いことではないと思うのだけど、他者と共有するとなった時に、いくつかのベクトルに分かれると思っていて、例えば「僕、こんなことできるんですよ、だから見て欲しいんですよ!」と言い続ければもしかしたらファンになってくれる人がいるかもしれないし、同じようなことを考えていた人は悔しがるかもしれないし、「よく言ってくれた!」って思う人もいるかもしれないのだけど、別に大人が勝手に言語化しようとする「世代の代弁者」と言う言葉で片付けるのはそれは後付けの話であって、案外世間とのつながりを保つための1つの方法であることは紛れもない事実で、それが関わる人が増えて、コントロールが効かなくなってしまった時に上手くいかなくなるのも事実だったりするので、難しい事実を見た。

夏休みの課題を楽しく作り続けながらスターでい続けることはきっとみんなが知っている「世間」が許してくれないのは少し辛い。

でも、承認されたい気持ちを抑えることもそれは嘘つきになるしね。

なんか難しいね。

「辛いならやんなきゃいじゃん」っていう人はとてもダサいけどね。

映画館で見ておいた方がいい作品です。

新しいzine作るか、旅行行きます。