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祖母認知症備忘録(終)、徘徊
朝方、姉のスマホに一本の電話が入った。
父が10年程前に勤めていた隣の市の会社からだった。
「おばあちゃんを保護してます」
幸い仕事が午後出だった為、私が迎えに行った。私がどんな気持ちで迎えに行ったのかなんて、祖母は想像もしないだろうな、とうわごとのように考えていた。
急いで着いた先の祖母は応接室に迎え入れられ、応対してくれた方にずっと我々の悪口をここでも言っていた。
「ほら、お孫さん迎えに来てくれましたよ」
私は出会い頭で深々とお辞儀をし、祖母に聞こえないように申し訳ありませんと数え切れない程言った。
そんな私を見て祖母は開口一番、
「あんた、どうやってきた?」
と低く震えた声で、歪ませた表情をひくつかせた。
ここは車で20分くらいのところにあるんだよ。車ですぐだよ。
「ふぅん…私は夜中に出てバスを乗り継いでここに来た。そんなに近かったのか…わざわざ迎えに来て…」
市営バスが夜中にやっているわけがないので、時間感覚も色々めちゃくちゃなんだろう。
「携帯の充電器を盗られたから、バスの運転手に充電器を貸してもらった。あんたらがこんなことしなければこんな大事にならなかったんだ。」
携帯の充電器がなくなったと騒いでいるのを、「知人に我々の悪口を言わなくなって家が静かなのでこのままにしよう」と放置してから3日ほど経っていた。
バスの運転手がそんなことするわけないので、タクシーか何かと間違えてるんだろう。もう訂正するのも面倒くさい。
対応していただいた方が「ね〜そうね〜」と上手に受け流しながら玄関へと促す。手練れである。
「帰りたくないねぇ。あそこは泥棒ばかりだからねぇ。」
だからってここに泊まるわけにもいかないでしょ。いいからとりあえずここから出よう。
私がうんざりしながら答えると、しょうがないねぇ、と言いながら用意していただいた靴を履く。私だってこんなワガママ嘘つきばあさん車に乗せたくないっつの。
風呂に入るなと怒鳴られたと言いふらし、頼んでも風呂に入らなくなってから1ヶ月近く経っている。因みに、酒を飲んで明け方に風呂に入り、部屋で裸同然で床に転がっていて肝を冷やしまくったので「明け方に入るな」とは言った。その後風呂には入れ、とは言っていても聞く耳を持たなかった。
会社にいるだけで色んな方向で多大なる迷惑をかけているので、とにかく早く出たかった。
大人しく助手席に乗せ、ドアを閉めた瞬間息継ぎもできないほどの素早さで申し訳ありませんと本当にありがとうございましたを繰り返す。
「こちらは大丈夫だから、おばあちゃん見てあげてね。」
菩薩か…なんて素晴らしい人なんだ…私は小さい頃から性格の悪い祖母が嫌いなので、優しい人に出会うと感動してしまう。
車の中で、自分が良ければ他人が困ってもいいという考えを捨てろとコンコンと説教した。言い訳ばかり並べて自分の都合のいいように解釈するのは認知症だからではない。昔からそうだ。私が物心ついた頃からそういう性格なのだ。
それに今認知症が加わり、本当のワンダーランドの方になってしまった。
家に着いて「はいはい、ご迷惑をおかけしました〜ただいま帰りました〜」とさも当然のように帰ってきた祖母。本当を言えばぶん殴りたかったが、これから仕事もあり余計な体力を使いたくなかった。
もう限界だ。これ以上は単身赴任の父も気が気でないだろうし、我々の身が持たない。
その日は心配した姉が半休を取り、流れるように目まぐるしく祖母は入院となった。
本人たっての希望である。
姉曰く、「こんな家にいたら、精神が焼き切れそうになる。泥棒に囲まれて頭がおかしくなりそうだ。」と入院先の看護師に泣きついたらしい。
もう何とでも言ってくれ。
非常に疲れた。
祖母の居ない家は開放感に満ち溢れ、毎日部屋から念仏のように漏れていた悪口も聞こえない吹き抜けは明るく感じた。
1日の始まりが「○○がない!どこに隠した!返せ!」から始まらない朝のなんたる清々しさ。
スーパーでも買い物に行けば近所の方が「お宅のおばあちゃんが家に上げろって言ってきて…」と外出もできないでいたが、これからはゆっくり趣味のドライブだってできる。
父も、入院して2週間程経つが本当に穏やかになった。「赴任先のレジャースポットにみんなで遊びに行こう」と疲れた笑顔で提案してくれた。その顔は鎖から解き放たれたといった表情であった。
祖母よ、私はある意味貴女に感謝している。
当たり前など存在しないことや、好きなことを好きな時間にできることが如何に幸せか、今は強く噛み締められる。
そして、趣味も持たずに自分が被害者だと思い、周りに迷惑をかけても自分さえよければいいと断言して生きることは破滅と孤独を生むだけなのだと身をもって教えてくれたね。
ある意味、愛の伝道師だよね。
30年生きてきて貴女から愛のかけらも感じたことないけど。