「思ってたのと違う!」いや、現実は大概そんなもの。
「こんなハズじゃなかった」
それは、私の人生ではデフォルトであり、
落胆することでも、
特段騒ぎ立てることでも、ない。
思えば、
生まれてきた時点で薄々そう感じていた
(ような気もする)。
◼️理想?
子供の頃、
思い描いていた未来とは
一体どんなものだっただろう。
毎朝起きて学校に行き、
友達と一緒に勉強や部活に励む。
後に、社会に出て働き、誰かと結婚。
子供を作って、定年まで働く。
多少の誤差はあれど、
「この理想」から大きく外れた未来
を思い描く人はおそらく、いない。
では、
「この理想」から大きく外れた現在
を生きる人は?
正確な数字は分からないが、
そんな人はごまんといる。
◼️普通?
学生時代、家庭科の授業で
「自分の将来設計を立てる」
という課題を出された時、
私は、自分の意志も希望も全く無視して、
前述した「理想」の人生を書いて提出した。
その当時の「理想の将来」を正直に書けば、
「人生に飽きた時点で、死ぬ」だ。
(自分の感情に)素直がモットーの私でも、
さすがにそこまで正直にはなれず、
「課題を即座に終わらせたい」という感情
に素直になることにしたのだ。
なぜ私が「この理想」を
思い描いたのかと言えば、
それ以外の生き方を知らなかったからだ。
「この理想」以外の人生が、
世の中に存在するとは思えなかったし、
「この理想」以外の人生が
存在しているとしても、
それは、自分には無関係の、
超レアケースな人生だと思っていた。
しかし、
人生の折り返し地点に近づき、
ふと思った。
「この理想」の人生の方が
かなり「レア」なのでは?
◼️詐欺?
世の中では、
定年までフルタイムで働き続けることが
「人生設計」の前提となっている。
病気や不慮の事故、
人為的な事情(各種ハラスメント)で
働けなくなる人は
イレギュラーな存在として扱い、
気力体力、家庭の事情という個人差は、
気持ち良いくらい無視して。
だが、
たとえ健康であったとしても、
初老(40歳)以降、
心身の大きな変化を経てもなお
20~30代と同じように働き続けるのは、
かなり過酷だ。
にも関わらず、
一部の理想的な人を基準にして、
「働き盛り」などと一括りに表現するのは、
どうも納得がいかない。
正しくは、
「死んでも働かざるを得ない」盛りだろう。
都合の悪い現実は伏せて、
健康は恒常的に、意欲は無限に、
成長は半永久的に「続く」という
現実離れした前提で、
理想全開の人生を設計させることは、
詐欺のようなものだ。
◼️隠蔽?
歳を重ねた感受性の変化や、
昨日まで可能だったことが、
もうできない現状への対処法など、
老いや限界という
右肩上がりではない境遇に
どう適応すべきか、
先人たちは、なぜ、
現実的で有益な実体験(情報)を、
積極的に保存・開示しないのだろう。
寿命が延びた人類は、
「老後」という時間に
まだ十分に順応できていない
のかもしれない。
だが、
不幸な事故や病気など、何らかの理由で
年齢に見合った生活ができなくなり、
老いの前に、様々な限界に対峙せざるを
得なくなる瞬間が、人にはある。
だから、
我々は上り以外の人生(老後)にも
対処・適応できる仕組みを
寿命や年齢に関係なく、
積極的に求め、残すべきなのである。
◼️現実
私は、朝起きることが苦手な体質で、
働くことが好きではない。
社会や人の役に立てれば勿論嬉しいが、
自分が苦しみ、涙を流してまで、
社会の利益や他人の幸福を
求めたりはしない。
衣食住の利便性が飽和した中、
更なる利便性創出を
(ビジネスチャンスとしてさえ)
求める者でもない。
一般的な「普通」以外の人生を、
「理想」から外れて漠然と生きる私は、
「こんなハズじゃなかった」
とは微塵も思わない調和の取れた人生の
一体どこに魅力、及び存在価値がある?
と啖呵を切る生命力もない。
◼️実例
夢も希望も、生命意欲もない人間が
生まれてしまったとしたら、
どんな感情で、
どんな風に日常をこなし、
どんな態度で社会をすり抜け、
どんな形で死ぬのか、
というサンプルの一つを、
私はこの人生を通じて残していく。
おそらく、私個人の一生など、
莫大過ぎる時間とデータの中で、
その存在の可能性すら
即座に消え行く運命だろう。
だが、
今、私は知りたいのだ。
私のように無気力で、
積極的に関わるより放置する方が有益だと
社会に判断された存在が、
一体どのように振る舞ってきたのか、
という自分以外の実例を。
それこそ、
私にとって真のライフハックであり、
本当に有益な情報なのである。