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フィルモア通信 New York No17     流れる水

流れる水

 天ぷらの修業のつぎは鰻の捌きを覚えようと思い立ち、中央市場の老舗の川魚店に見習いに行くことにした。
朝四時からその捌きは始まり、六時には終わるのでそれから仕事に行くことになった。その川魚店には鰻捌きの名人と言われる人がいて、多くの京都の料理屋がその名人の捌いた鰻を仕入れに来ていた。

 名人は初老の痩せた男で、子供の頃からこの道一筋らしく、まな板の位置と右手の包丁使いの動きに合わせて身体が曲がっていた。寡黙で、仕事は急ぐ様子もなくゆっくりと太極拳の流れるような身体の動きだったが、同じ時間で他のひとの倍の数の鰻を捌いた。名人に捌かれた鰻は出血がなく美しかった。彼の手から鰻は絹の衣のようにまな板の上から置いてある桶の中へと滑り降りていった。

 ぼくはすぐそばの作業台を使わせてもらうことになり捌きの実際が始まった。もちろん誰も教えてくれるわけではなく見よう見まねで鰻と包丁を握った。ぼくの鰻は手の中で暴れまわりぼくは腕力で鰻を押さえつけ,研ぎ磨いた包丁に任せてその身を切り込んだ。全身汗だくとなったが包丁を使う技術でなんとか乗り切った。

早くコツをつかもうと、いつも名人の動きを見ていた。そのうちに、だんだんと自分の手が自然と鰻に馴染むようになり、おとなしくなった鰻を素早く捌けるようになったが、力ずくでの体の動きには変わりなかった。名人が最初から最後まで同じ動きをしていて、どうしてあの大変な量の鰻の数を捌くことが出来るのか不思議だった。名人は疲れた様子もなく仕事が終わると朝酒をやり、競輪の勝負に行くらしかった。

 時々名人は仕事に出てこず、その時はぼくにも鰻が回されてきたが、注文主がぼくの捌きに文句を言うと店の主人は、「それは仕方ない、もうすぐあの子も上手くなります」と言って注文主に謝らずぼくのことも責めなかった。料理屋の世界とは違っていた。頑張ろうと思った。
 
 数ヶ月が過ぎぼくの捌きにも文句を言うひとがいなくなったが、名人の動きには追いつけなかった。最初の一時間は彼と同じ量スピードで捌けたが次の一時間は彼の半分はくらいしか出来なかった。手と腕と首、両足、膝、すべてが疲れ、力が出せなくなった。包丁を握る手を全身の力を込め鰻を押さえつけて、右から左へと動き鰻を捌ききった。そんなぼくを名人は無表情のまま、ちらっと見た。
 

 その夏の朝から暑くとても忙しかった仕事終わりに、後片付けをしてまな板を洗い終わると、みんな帰ってしまってがらんとなった川魚店で、ぼくは疲れ果て作業台の側にしゃがみ込んだ。どうして自分はこんなに疲れてしまうのだろう、どうして名人は疲れないのだろう。ボーッとしていたが、ぼくは今からすぐにもう一つの仕事に行くことを思い出し、立ち上がろうと顔を上げた。

 

  名人の作業台に洗われたばかりのまな板があり僅かに水が滴っていた。ぼくは自分のまな板を見たが水滴はあちこちにぽとぽと落ちていた。名人のまな板に近寄ってよく見ると水は左端から流れ滴っていた。かがんでそのまな板をよく見ると名人のまな板には右端にかまぼこ板一枚が作業台とまな板の間に挟んであった、右端から左の端まで角度が付いているのだった。ぼくはすぐに近くの練り物屋まで走った。
 

 次の朝、ぼくの鰻の捌きはすべてが変わっていた。最初の一匹からその感覚はちがっていた。力は要らなかった。手首の角度を保って体を右から左へと移動するだけで鰻は白い身を開いた。いつまでたっても疲れは感じなかった。かまぼこ板を挟んだ僅かな角度が上下運動となって新しい力を生み出したらしかった。いつもならへばり始める二時間目になっても変わらず捌き続けた。
 
 名人がぼくのほうを見てにんまりしているような気がしてぼくは顔を上げたが、名人はいつものように曲がった体を舞うように動かしただけだった。


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