フィルモア通信 New York 80’s No5
ニューヨークで暮らすうち、自分のなかにやはり自身はマイノリティであるという意識が育ちつつあった。職場では白人ばかりが良い条件で働いていて、黒人やベトナム人、中国人等は皿洗いやバスボーイの仕事で安い賃金で重たい労働をしている。自分は東洋人だけれど技術が有り、オーナーとも知り合いになっているから高給で条件も良いと他からも言われ、苦しい思いをしていた。
ある時キッチンの床やステンレスの壁が汚れていたので擦って磨いていると、黒人の皿洗いで仲良くしているロジャーがぼくのところに来て、「マサミ、止めろお前がそれをするとおれはクビになる。おれの言うことわかるか。」と言う。ぼくはびっくりした。言葉がなかった。
人々は不遇であるという気持ちに自身のマイノリティー性を見つけ、社会のなかに怒りとしてぶつける。人々のあいだで怒りや憎しみは生きる支えとなっているように見えることもある。
それは自分には与えられた位置がこの世界に無いという思いのようだ。正当に自分は扱われていないという不満を誰しもが持っているようだった。ルームメイトのはジョン・ケージに師事していたミュージシャンだった。
彼はアーティスト仲間にぼくを紹介してくれた。ゲイやレズビアンもたくさんいたその人たちに、食事を作ってあげたり、田舎の家に遊びに行ったりして、自分と同世代の彼らの家族の模様などを伺い知った。父と子、母と娘、どの友人たちのそれもあまりうまく行っているようには感じられなかった。
社会的に成功して地位も金もある父親は息子や娘が解らないと言ってため息をついたりするけれど、ぼくの目からはお互いが無関心のように見えるのだった。
ある日レストランにニューヨークタイムズ紙のレストラン批評家が来て、ぼくらの料理と店の雰囲気を褒めちぎった記事を三ツ星と供に辛口批評で有名な彼のコラムに載せた。
次の日からレストランは戦場となった。三ヶ月先の予約がいっぱいになった。他の新聞や雑誌から取材が来た。ハナエ・モリやケンゾーがディナーにやって来ると、映画スターやプロデューサーも来るようになって店の雰囲気が華やかになりそれまでのコージーな居心地が変わってきた。
毎日毎日、ぼくらは新しい料理を作った。最高と言われる材料を使って、考えついた料理はなんでも作った。自分が美味しいと信じた料理は人種をこえて文化をこえて伝わるはずだとひと皿ひと皿こころを込めた。
マジョリティーもマイノリティーもない味をと、料理に願いと気合を込めた。おれに続けと黒人たちやヒスパニックの若い料理人に声をかけているつもりだった。しかし店が儲かりだすとオーナーの姿勢が変わっていった。