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フィルモア通信 New York No15 Peter goes Tokyo. Calling Susan. I

 ある日ピーターはぼくに日本の料理本を見せて興奮した様子で、「マサミ、この料理はビューティフルだぼくはこの人に会いたい」と言った。その本は東京のフレンチレストランのシェフが美しい料理の写真とレサピを乗せた、彼の最新刊だった。ピーターはぼくがこの夏に一度日本へ行く計画を知っていて、そのシェフ宛に手紙を書くから翻訳して渡してくれないかな、と言った。
 ぼくはピーターのために役に立ちたいと思い、引き受けた。ピーターのその手紙は短いが著者のシェフに対する尊敬と共感のこもった文章だった。ぼくはピーターに必ず届ける、おまえの気持ちを伝えると言った。

 成田空港に着いたぼくは、予め連絡しておいたそのシェフの店へ行った。青山にあるそのレストランはビルの地下にあり、
ラ・ロシェルとフランス語のロゴがあった。午後おそくの開店準備前、ぼくは名前を告げるとシェフがやって来て、坂井です、とぼくの手を握ってくれた。

 ピーターからすでに国際電話を受け取っていた彼はアメリカ人とのコミュニケーションを心配する様子だったので、
「いまピーターはニューヨークの日本語スクールで一生懸命言葉を勉強しているし、性格は本当に明るく愉快なやつだからコミュニケーションは大丈夫だと思います」と伝え、手紙を渡した。

坂井氏はぼくにニューヨークのレストラン事情や今の料理の流れなどを質問したので、じつはあまりそういうことを知らなかったぼくは答えに詰まってしまった。ただヒューバーツの料理と食べに来るお客さんのことなどを話した。坂井氏シェフは自分の料理のことを話し職人気質がよく表れていた。ちょっと疲れているようにも見えた。ぼくはピーターのことをよろしくお願いします、と言ってレストランを出た。

 短い休暇を京都で過ごしぼくはニューヨークに戻るとピーターに、坂井さんはオーケーと言っていたよと告げた。彼は喜び、レンにヒューバーツを辞めて日本に行くことを告げた。ニーナが去った後、ピーターは彼女を引き継いでシェフとなっていたが、その職よりも、
日本行きを選んだのだった。ぼくはピーターの決断と彼の喜ぶ様子が嬉しかったが、多分日本ではあの店で苦労するだろうなと思った。
 
 数週間の後、ピーターは日本に旅立った。彼は青山の近くにアパートを借り、無給のフルタイムの見習いの仕事を憧れの日本のフランス料理屋で始めた。一年近くもそこで働き、京都のぼくの母や兄に会いに行ったとき、国際電話をかけてきた。ぼくはそのころピーターの恋人になっていたスーザンの入院のこと、お見舞に行った時の彼女の様子など、ヒューバーツの近況なども合わせて話すと、ピーターは声を詰まらせた。ぼくは大丈夫だから心配するなと言った。

 ようやく春の気配がする土曜日の午後、アパートの電話が鳴りぼくはジュディかもしれない!と、どきどきしながら「ハロゥ」と受話器を持ち上げると、「モシモシホフマンデスオゲンキデスカ」と懐かしいピーターの声がした。翌日の朝食に招待してくれたので、サブレントを終えてすっかり元に戻った彼のアパートを訪ねてプリンスストリートまで歩いて行った。

 彼は日本でなかなか苦労したようだった。香港やベトナムでの観光の様子は楽しそうに話してくれた。ピーターの日本での体験話はぼくにとっても東京という街の雰囲気が感じられて面白かったが彼にとってのレストランでの経験は期待したようなものでなかったらしい。素材に対する料理人の無関心を言った。そうかもしれないとぼくは思った。        
 

 京都へ行ってぼくの母と兄に会い、なんとか日本語で話が出来たのが良かったと言った。東京で見つけて買って行ったお土産のお菓子をぼくの母はなかなか開けていっしょに食べようと勧めてくれ無かったので、やきもきしたぞ、と言った。ぼくは母が電話でピーターのことをとっても素朴で礼儀正しく良い人だと言っていたぞと告げると「ケイコはワンダフルなマザーだ」と言った。
 

 ぼくらはピーターの不在のヒューバーツの近況や日々のメニューこと、新しく入ってきたセイジのことなどを話した。店の状態は良くなかった。もう何ヶ月もヒューバーツには忙しい日がなかった。


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