待ち合わせ場所で見つけられない日はある日突然やってくる
「交差点で君が立っていてももう今は見つけられないかもしれない」というaikoのアンドロメダの歌詞が好きだった。初めてこの曲を聞いたときに、サビの初めのこの部分が耳に残って、それからアンドロメダはなんとなく好きな曲になった。今日はaikoのアンドロメダの思い出について書きます。
あるとき突然見つけられなくなるの。突然じゃなくて前兆はあったのかもしれないけれど明確にいつどこでどんな前兆があったのか、それはわからない。体感としては、ある日突然やってくる。
それは雨の日だった。いつも通り駅構内にあるカフェの前で待ち合わせをした。そこは多くの人が待ち合わせをする場所でいつも人が多かった。だから見つけられなくても当然だったのかもしれない。相手は存在感のないグレーのカーディガンだったし。だけどそのときの私にはその人を見つけられなかったことがショックで、二人を繋いでいたなにかがもうなくなってしまったような、わたしの気持ちがその人から離れてしまったような、そんな気がしてかなしくなった。終わりが見えたような気がした。
アンドロメダを聞いても、私は見つけられなくなる日は来ないと思っていた。いつだって見つけられる。だってこの気持ちはホンモノなのだから、って。
わたしにはこの人しかいない、この人が私の全て、わたしはこの人を愛してる、って本気で思っていたから、わたしの愛がなくなって彼が自分から離れていってしまうことが怖かった。だれかに取られてしまうんじゃないかって怖かった。だけど、あれが愛だというならば、愛の78%くらいは不安でできていただろう。
ほどなくしてその人とは別れてしまった。あの頃の二人の間にあったのは不安と執着だけだったし終わりが見えかけた関係をどうにかしようとはしなかったのだから当然の結末だろう。見ないふりは、知らないふりはできなかった。
わたしはもう交差点にその人が立っていても見つけられない。
もう見つけられないかもしれないと思ったときの苦しさをたまに思い出すけれど、いま見つけられないことにかなしみもくるしみもなにも感じないのはその人への気持ちがこうしてたまに感情にくっついた思い出として思い出すくらいでしかない、どうでも良いものになってしまったからだ。
だけどもう見つける必要もないのだからそれでいい。
あの人の横顔越しにあるものを知りたかったけどいまはそれがなんだっていい。記憶も手のひらの感触も消えてしまってもいい。この歌をだれが聞いてくれなくてもいい。だけど、もうこんな感情は感じたくないと思う。好きなものを好きじゃなくなるときほどつらいことはないのだから。