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人間より優れた生き物に隷従したい!(9/27の日記)

こんにちは!期末テストが返されましたカラビナです。グランドピアノにどうしようもなくときめいた話をします。

テストは、あいも変わらず酷い点数です。ですが中学校時代は90点代で安定していたはずなのです。いや、だからこそ、「自信があっても75点(笑)の大勢のクラスメイト」のうちに私がいつの間にかなってしまっていると気づき、下へ下へと潜っていく気分の今日この頃です。いっそのこと電脳を撃ち抜かれてしまいたい。

あと、昨日、攻殻機動隊GHOST IN THE SHELLを履修しました。今日はその続きの連続アニメの第一話を見ました。面白い。
なんだかんだトグサさんが好きです。彼はいつも事件の真相に気がついてくれるマメな男だと思っています。一側面だけ見たらめちゃくちゃモテるけどどこか色々な部分がそれを帳消しにしている男ではないのか⁉️⁉️⁉️(喜)

閑話休題

いつも昔の自分と競っています。越えられないのでクソムカつきます。喋る性格でも自分のことを大っぴらに貶したい気分でもなかったので、今日は人と話す機会が本当に少なかった。
平均点より下回っていると、ほぼ海に沈んでいるも同義なので、何か足をつける土台がないと自分の精神的立ち位置を確保できない。

市川春子さんの短編集、「二十五時のバカンス」のなかに「月の葬式」という話があります。

そういうあてのない白状に 頷いてくれるだけでいい 反射光がほしい ひとりでは本当に呼吸しているのかわからない

市川春子「二十五時のバカンス」より「月の葬式」

反射光がほしい!本当に。そもそも人と比べること自体がナンセンスで、本当は自分の中にありったけのリフレクターを抱いて踊っているべきなのだろう。個人主義でありたいなぁ、と思う。本当に!!!

ここから本編 起

グランドピアノにとてつもなく興奮した話をします。興奮した経緯を掴んでいてほしいので、前置きをまず話させてください。

犬は狼が家畜化したものだ、と聞いています。正しくは人間が、狼を家畜化して犬にしたかな。つまり私たちは、自分を慕ってくれるものを周りに集めてきたわけです。
そして可愛がる、という行為には上下関係があります。与えているわけです。私たちが上なんです。犬も猫も人間は大抵撫でるんですが、撫でられることは極めて稀ですよね。
馬でようやく立場が同じになるのではないかな。感覚だけど。

よくライオンと戯れてる海外の人がいたりします。熊を拾っちゃったとか、ワニの卵を拾ったとかも見たことがあって、しかし、大抵の人はそれにリスクを感じる。
おそらくそれは、私たちが管理できない凶暴さがそこにあるからです。言葉が通じない、人を殺せる相手と対峙しているから。

つまり人間は、動物たちを従わせる、という行為を脈々と続けてきたわけですね。
逆が気になります。人間は何に隷従しているのか。主たるものはやはり人でしょう!私たちの社会は上下関係で溢れています。
尊敬できる人間に私たちはついて行く。その条件は年齢とか、スキルとか、はたまたそういう枠組みだ〜とかありますが、とりあえず、人間は人間についていく。
だって、人間より頭のいい社会的動物が今のところいないから。しょうがないよね、消去法だ。

現代社会において、人間が動物に隷従する、という関係は一般的ではない。「私たちは彼ら(動物)を尊敬して暮らしています!」という話があったとて、そこのコンテクストには(一般的に動物は人間より下だと捉えられているけど、)という逆接的なものが入ったりする。

私たちは経験として、「何をされるかもわからない、大きく賢く、話が通じない生き物に粗相がないよう、殺されないよう、注意を払って敬意を持って接し、そして愛でられる」ことがない。
他の動物と、こちらが圧倒的に下の友好関係信頼関係を築くことがない。私たちはいつだって言語によるコミュニケーションを用いて、上司や先輩と繋がっている。

言い換えると、もしそんなことをしなければいけない時、私はへそ天でもなんでもしてやろうと思うのだ。
それはつまり、私は、私自身の運命を相手方に投げつける行動をとるわけだ。信頼の一方的な投げ売りだ。お前の行動を信じているぞ、という心身の売買だ。犬が人間に伝えているのだから、人間から外なる生物にでも伝わるであろう、言語を廃した失礼極まりないカラビナストリート砲だ。

もちろん外なる生物はまだ到来していないわけだから、こんなことは起こらないだろうと踏んでいた。今まで。今日まで。タイトルを見てほしい。出だしの文章を見てほしい。起承転結の起のあたりを思い返してほしい。
私は散々言ってきた。私はグランドピアノに、楽器に、音楽に、私はその可能性を、光を見た。


華麗なる大円舞曲を弾いている。発表会までもうすぐ二週間を切る。出来はギリギリ、毎日練習に追い詰められながら、週一のレッスンに顔を出す毎日。
何を隠そうレッスンは毎週金曜日だ。そして教室にはでっかいグランドピアノがある。
私はそれを弾いている。

「もっと500m離れたところにいる人にも届くよう弾いてよ」
とは、御大の言葉であるが、ようはもっとのびのび弾けということである。自分の手の届く所にだけ音置いといてるから堅ッ苦しい演奏になってんぞ!ということでもある。

のびのび弾いた。それはもう、私の全身全霊込めて、響かせる演奏をした。音が手元から消えた。制御できなくなった。自分の技量の外に行ってしまった。圧倒的スキル不足だ。怖かった。それは曲の形をなんとか保っているだけに過ぎなかった。
けれどもしかし、音は良かった。グランドピアノを響かせると、自分が叫ぶ以上の音が出る。

私は自分の出したデカい音を後から聞いて、この美しさが保たれるようキリキリ気を張り詰める。しかし弾いてる最中に難しいことを考えるキャパなど残されておらず、ただ、自分の手が音を覚えていることを、いい音をピアノが出してくれるよう、頭の片隅で祈ることしかできない!

心身を不確かなものに投げつけた。感知できない何か強大な物に、(変なラッキーがありますように)と祈った。そこには言語のコミュニケーションなどが存在しなかった。私はあの瞬間、グランドピアノの下にいた。自分が奏でる華麗なる大円舞曲の下にいた。

言い方を変えたい。単純にいうと、音楽に感動したのだ。単純にいうと。感動は心が動くことだが、動き方には個人差がある。ヘキにぶっ刺さったのだ。アドレナリンがドバドバだった。
濁流の中に巻き込まれ身を切りながらひたすら信じる、という事柄は、ひょっとしたらギャンブルとかSMプレイとかの方向に舵を切れるのかもしれないが、音楽は音楽だ。私は今日、私が弾いた華麗なる大円舞曲に尻尾を振れたのだし、なんなら撫で返してくれたような気もするぞ!

終わりに

というわけで、グランドピアノに興奮した話でした。会話が通じない人間ではない生物に隷属するのはなかなかできる経験じゃないですし、認められて撫でられるのは悪い気分じゃありませんから、皆さんも一度自分の創作物のリミッターを外し、大きな流れに身を任せてみては?

今日は日中散々だったけど、夕方はなかなかな1日でした。クラスメイトに駅のホームで手振られちまったし、通りすがりにめっちゃ笑顔で手振ってくれた人もいたし。
お手でも伏せでもなんでもするから、どうか私に発表会で、弾かせてはくれないかなぁ!

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