思考をどこで確かなものと決めるかという話し
こんばんはC_FLATでございます。久しぶりの更新になるわけですが、せっかくなので久しぶりなりの文章を書いてみようかなと思いますこうなると長くなります。
がっつり文章だけの記事に限ると6月ぶりみたいですね。今年の前半は結構思考や思想を自分のための整理という意味も込めつつ言語化して発信しようという意欲に満ちていていたんですが文章を書けば書くほど、また写真を撮れば撮るほどこのモチベーションが減っていくことを感じていたわけです。(時間が惜しいというのももちろん原因としては大きいのもいうまでもないのですが)
じゃあなんでそういう気持ちの変化が起こったのかっていうことをまとめてみましたので読んでみていただけると喜びます。し、皆様の創作のお供になれればこの上なく。いざ。
プロセスを整理する
まず、noteの記事を一つ発射するまでに私の頭の中でどんなことが起こっているかという流れを見出しにしておりますので目次をみていただけるとざっくり行く末が見えてくるかと思いますが、各パートの詳細と、最後にはどこに原因があって文章を書けなくなっていたのかを解明し、できることならトラブルシューティングしたいところでございます。もしかしたら読んでくださっている方のトラブルもまとめてシューティングできるかも?できないかも?オーホホホ
意識下にある思考に輪郭を与える
まずはこれですよね、ハッとする瞬間みたいなやつだと思います。文章を書こうと思い立ってからあれやこれやと絞り出すようなこともあれば、友人とのなんちゃないお話の中でふっとその輪郭に触れるようなこともあります。こういう気づきみたいなものをナチュラルに引き出してくれる人、あるいは与えてくれる人は好きです。まぁハッとしてばかりでも疲れてしまったりするのでアレですが概ね好きでございます。
そして薄ぼんやりと見えてきた輪郭をさらにぺたぺたと捏ねて一応自分なりの形を与えます。衣をつける前のコロッケみたいなものですし、なんかそれっぽいけど内容がふわふわした話のことをカニクリームコロッケと呼んでいるのもここら辺が由来です(明確な脱線です)
それを結論とする
ここまで来たらあとは一旦考えすぎるのは辞めて理路整然と体裁を整えて結論、伝えたいこととしてパッケージングする作業に入ります。とはいえこれは理想でありまして作業をしながらいろいろ考えてしまってちょっと気づきと結論がづれてしまったりすることもあるのですがこれがまたね、ムズイんですよね。ということで「結論とする」という見出しにしています。これは作業であるべきかなと個人的には思っていて、なってないなら捏ねたりていないということ。
そうです、これでコロッケの完成ですよ(今後コロッケの例えはでてきません)
いい結論だねとある程度確信している
そしてもちろんこの時点である程度の達成感がありますし苦しんで産んだ子ですので、いい子であると信じているわけです。先述した通り自分のために文章を書いている節が多分にございますのでこうでなければ意味がない。嘘じゃありません。
それって本当に確からしいのかということが頭をちらつく
おいちらつくな。とは思うものの毎回ちらつきますなんなら140字以内のツイートでもちらつく程の小心者でございます。捏ねている段階でも結論付けている段階でも不安がないわけではないのですが体裁を整えてある程度客観的に眺められるようになると一層ソレが疑わしく見えてきたりするものです。さて、それナンデ??
見られているのは他者であり1年後、5年後、10年後の自分である
多分人の目を恐れているという心持なのだと思います。オイそれ間違ってるよとか、まだそんなところにいるのかいと鼻で笑われるとかそんな不安もありますし私の結論に触れた人をもしかしたら傷つけるかもしれないとかそんな怖さもあるように感じます。し、人の目っていうのは後の自分も含まれていて、5年後に自分がどんな立場で、どんな気持ちであるかなんて全く分からないわけでございましていわゆる黒歴史とか負債になりはしまいかという懸念もあります。とてもややこしい性分ですねこまったこまった。
とはいえ確かだと区切りをつける
この文章のインパクトファクターのようなものがどの程度だとか、これでミスったらどのくらいの人に迷惑かけるとかそんな要因によって確かであると区切りをつけるまでにかけるコストは様々だと思いますがどうにかして区切りをつけるのです。
オフィシャルに論文とするなら参考文献をチェックするとか、自分の意志で削除とか修正が出来ないものならば伝わり方に誤りを生まないような言い回しとかに一層気を遣わねばなりませんとか、そういう作業ですね(noteの記事くらいだと基本的には誤字のチェックくらいしかしません←)
発射!!
ということで晴れて記事が発信されます。なんとまぁややこしいことでしょう。3つの工程で済むようなところを7つに増やしています。こんなことやってるから仕事も成長も遅いんでしょう。自覚はございます。
写真集も同じ
少しだけ脱線するのですが「写真集つくらないんですか?!」ってお声をかけてもらうことがチラホラあるのですがこれに関してはそれって確からしいの?という問いのチラつき方が半端じゃなくて怖すぎて着手できないというのが理由としてめちゃくちゃでかいです。私はまだ打ち出せるほどに写真を知らないし上手に伝えられないと思っていたりするんですねぇ。。。
仮の確からしさに立脚することができる
いらん脱線を経ましたがこうした工程を踏んだらもうこれは確かだ!ということにしてそれを土台として上に進むことができます。自分を遠くに連れていくためにも思考に形を作ってあげるのは大切ですね。っていうことも含めてしっかり矛盾のない丁寧な思考をしていきたいものです自分がしらぬ間に思った座標にいないのは困りますもんね。
10年後に今の気持ちはかけない
記事の終盤になると毎度この話題になってしまうのですが、良くも悪くも実存は本質に先立ってしまうなというのが私の根っこにありまして今書く内容って今しか書けないんだと思うわけでございます。それは10年後の私と今の私は絶対に違うからです。論の組み立てとかはまぁアレですが結論を飛ばす方向を決める気持ちの部分ですね。希望と言い換えてもいいかもしれません。
恐れずいこうかなぁ(どうしようかなぁ)
というわけで結論が出たような出ていないような。超大雑把にいうとよりよく生きたいのでちょっと今の気持ちを丁寧に聞いてみようかなと思いましたね。これを書きながらちょっとゆっくり自分と対話できていい気持でした。人の目を恐れているところまでは明確にできたのでさてそれにどう対峙していこうかというフェーズに進もうぞ。
なんかいつになく爽やかなエッセイになったなぁ。ではでは。
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