適切な感動のすゝめ_全米が泣くことにさほど意味などない
こんにちは、C_FLATです。珍しくちょっとでかいタイトルで始めましたが、二十歳前後の多感な時期に悩んでいたけど当時ニュアンスを伝えにくかったお話しを一つ。
私は映画で泣いたことがない
当時私はこのことを隠してみたり、不必要に強調して見たりしていました。周囲の友人は映画(に限らず物語と呼べるもの全般)の感想を述べる時に、泣けた!であるとか、涙が出た!であるとか、そういった言葉で感動の度合いを表すことがしばしばありました。しかし私にその経験はありませんでしたので悪い意味で人と違うのではないかと少々気まずい思いをしていたのを覚えています。黙ってなんとなく同意のアクションを醸してみたり、そんなもの俺にはワカンねぇと虚勢を張ってみたり、私にみられる反応は様々ではありましたが心地の良いものではありませんでした。
「全米が泣いた」ことに意味はあるのか
そもそも泣くことや涙が出ることは生理現象です。くしゃみが出るのもあくびが出るのもさほど変わらぬというくらいにドライに捉えている。「全米がくしゃみをした」なんだそれは。全米が泣いているときは皆玉ねぎを切っているかも知れない。
それでも全米が泣くことは感動の超大作である指標として誰にでも伝わるほどの市民権を得たわけである。
ちょっと別の言葉に置き換えてみると様々な人種や思想を持った老若男女のアメリカ人が一様に涙を禁じ得ぬほどの感動覚えているし、それほどの普遍性を持っているのだから日本人のあなたも同じように感動するに違いない。という意味を短くまとめた、いわばキャッチフレーズというやつですね。
生理現象を規定されること
しかし私はこれに大変な違和感を覚えるわけです。ここまできたらもうご理解いただけているかも知れませんね。なんでわしゃ映画見て泣くことを期待されなきゃならんねんと。むしろ激しく興ざめすらしてしまいます。良いと思ったら勝手に感動するし、人にもそう伝えます。次回作が出るなら応援もするので、感情の機微やその後の行動を規定はしないでくださいと思っていたようです。
今ではそれはキャッチフレーズという方便であることもわかるし、他人への興味もいい意味で薄らいできましたのでそれほど気を荒ぶらせるには至りませんが方向性としてはまぁ変わっておりません。涙を促したいなら努力してその仕掛けを織り込むしかありません。てか涙を促そうっていうのがそもそもなんだか気持ちが悪い。
例えばダンクできるくらいびっくりしちゃう!みたいな話があるとするとびっくりすると飛び跳ねるというところまではなんとか理解されたとしても体格やジャンプ力によって同程度びっくりしたとしても私がダンクできるかどうかは微妙なところですし、チェ・ホンマンだったらそれほど驚かなくてもダンクできますから。
感動したら涙を流さなくてはならぬという刷り込み
話を戻します。件のキャッチフレーズは感動できますよ!ということを伝えるために涙が出てくることを引き合いに出したわけですが、「全米が泣く」ことがそれ単独で意味を持ち出すと強烈な感動と涙が出ることに強く結びつきがあって、それが普通というようなコモンセンスを形成するようにもなるわけです。アンテナを張り、感受性の高い人ほどこういうことに敏感であることが多いですから、鈍感な私はその感受性をぶつけられて戸惑ってしまっていたんですね。ここまでくると異常なのは僕の方なのではなかろうか。
友人の結婚式では涙がこみ上げてきた
そんな私も20代の中頃に差し掛かってとても親しい友人の結婚式に初めてお呼ばれをすることがありました。正直なところ、結婚式に関しても感動ものの映画と同じように涙がつきものであるよな、と、だいぶ苦手意識もあったし、いよいよここで泣けないと異常者のレッテルを貼られてしまうと、気が重かったことを覚えています。
結果はと言うと、泣けませんでした。が、それはそれは爽やかな感動に包まれて晴れ晴れしい気持ちになれました。どうやら感動と涙はここまできても私の中ではリンクしないものなんだと。諦めにも似た清々しさがありました。泣いてねぇけど感動してるぞオラという具合。
感動は自発的に起こること
誰が泣いていようがダンクしていようが、私はただ座してコーラを飲むだけですがそこに価値の違いはありませんのできにすることないぞ若かりし自分よと言う感じ。
あ、ちょっと言いすぎたのでフォローも入れるのですが感動と涙がリンクしているのが間違いだとかそんなもんでアピールするなとかそう言うお話では一切ありません。誰かを腐すようなつもりは全くありませんのでご了承ください。
強制されるものでも、無理に協調するべきものでもない
で、なんでこんなことを思い出したかと言うと、写真をやっていても感動しなきゃいけない気持ちになることって少なくないような気がしているからです。
写真をやるにあたって感受性が強いに越したことはないよなぁとは感じています。自分が何に感動するのか、何を面白がれるのかに敏感でかつ幅が広いことって大層な武器になると思います。そう言う人を見るととてもうらやましくなります。が、一長一短でそのアンテナが超高感度になるかと言うとおそらくそうではないだろうなとも感じるので、背伸びするのは良いし、一体感を味わうのも素敵なことだと思いますが外的な要因で自分の感動を操作しないほうが良いんじゃないかなと言うのは最近とても強く感じています。ステイホーム期間に撮影にまつわる時間が減ったことが原因でいろんなことを考えているのかもしれません。
適切に感動しよう
タイトルに戻ってまいりました。要するに申し上げたいことはこれです。過不足なく、自分にとって一番感動的な感動をしよう。これに尽きると思います。趣味の創作活動って心を動かすトレーニングみたいなところがありますが、無理に動かし過ぎると痩せちゃう気がします。適切に、適切に。では。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?