言いたいことがあるときはちゃんと言うこと
こんにちはC_FLATです。ことあるごとに荒れる荒れるツイッター写真界隈ですねそれだけ世界は平和だということでしょうか。いや違うか。
今日のお話は写真以前にSNSと接するときに私が気を付けていることかな。簡単に言うと人の嫌がることをしないとか、発言に責任を持とうとかそういう初歩の初歩です。
ツイッターは今日も荒れるし来月も荒れるし多分来年も荒れている
昨日今日と何やらプスプスと焦げ臭くて火元はわからないけど周りのみんながチラホラと同じ話題について話しているような気配を感じました。
そして時間がたつごとに少しづつ事の顛末がわかってきたり、愚痴とかマイナスの言葉が目に入ったりし始めて、出来事そのものにも、人のイライラにも引っ張られて私までモヤモヤしてしまいました。
とはいえこれはいつものことなので、どう付き合うのがいいのかということですね。
いろんな意見が行き交うのはいいこと
基本的な立場として一つの事柄に対していろんな切り口の意見が行き交ってなんとなくいくつかの大きな落としどころみたいなものに向かっていく、そしてみんな少し大人になるみたいな流れはまぁいいことだよねと思っていますので、一緒に経験して賢くなっていきたいなと。ツイッターなんて勝手気ままにつぶやくところですのでそれが正しいんだろうなぁとも思います(ちょっと思ってないけど)
マイナスの感情はできれば目にしたくない
正しいとは思うんですが、やっぱり人間ですので他者のマイナスの感情に触れるとこちらもモヤモヤします。愚痴、批難、皮肉、言っている意味は理解できるものが多いにせよこういう言葉はできるだけ日常的に目に触れるところに長いこと居座ってほしくない。
少しの想像とある程度の責任を持って言葉を発する
なので私はこういうもやもやが起こるたびにnoteを使ってある程度のボリュームを持たせて言葉を発することにするようにしています。上で書いたようなことへの配慮でもあるし、言葉にボリュームを持たせることで自分の発言に少し責任のようなものがのっかってくるのを体感するためでもあるように思います。好きかって言えば自分がまた人のモヤモヤの種になってしまいますからね。
責任を持ちたくない空気
とはいえ毎度文章を発するのはプレッシャーです。共感が得られるかもという期待よりもむしろ読めないリアクションへの不安の方が大きいくらいです。それくらいは自分が見えてる範囲とか角度が少ないことも自覚しています。
で、なんで自分の意見を発するのが怖いのかってふと考えてみるとやっぱり気軽に批判できちゃうSNS上の空気のせいなのかなと思いました。実際私の周りの方は品行方正なのでほとんど嫌なことを言われることもないのですがわけわからん民に絡まれていたり解釈を微妙にずらして引用されたりみたいのを目の当たりにすると、わざわざ発言して損するのってアホらしいなと思ってしまうのも無理ないよなと。本当に困ったものです。
自分の場所は自分で作る
とはいえ嫌なものは嫌なので私はしばらくはこのスタイルで発散してみようと思います。本当は他人のことなど気にせず達観できるのが理想でもあるのですが気になるもんはしゃーない。
立場を表明することで分かり合える人とは繋がれるし合わない人とは自然と疎になるし。あやふやにしておかないことで自分の気持ちを守ろうということでしょうか。次は楽しいことをnoteに書こう←
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